戦国最強は誰だ!?徹底検証!   
トップページ > 黒田官兵衛 
計略・政治に優れた知将
大谷吉継
片倉小十郎
黒田官兵衛
竹中半兵衛
黒田長政
直江兼続
小西行長
山本勘助
明智光秀
立花道雪
石川数正
本多正信
真田幸隆
石田三成
真田昌幸
松永久秀
滝川一益
板垣信方









黒田孝高 〜通称「官兵衛」竹中半兵衛と共に秀吉の双璧と謳われた〜

 

黒田 孝高 / 黒田 如水(くろだ よしたか / くろだ じょすい)は戦国時代、安土桃山時代、江戸時代前期にかけての武将・大名である。豊前国中津城主。孝高は諱で通称の「官兵衛」並びに出家後の「如水」の号で有名である。豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。「ドン・シメオン」という洗礼名を持つキリシタン大名でもあった。

生涯

出身

黒田氏は、『寛政重修諸家譜』などによれば近江国伊香郡黒田村(現在の滋賀県長浜市木之本町黒田)の武家出身とされるが定かではない。孝高の祖父・黒田重隆の代に播磨に入り、御着城(現在の姫路市東部)を中心に播州平野に勢力を持っていた西播最大の大名小寺政職に仕えた。政職は黒田氏を高く評価し、重隆を重臣として姫路城代に任じた。重隆の子、黒田職隆には自らの養女を嫁がせ、小寺の名字を名乗らせた。

播州時代

天文15年11月29日(1546年12月22日)、職隆の嫡男として姫路に生まれる。永禄2年(1559年)、母親を亡くし、文学に耽溺したと言われる。永禄5年(1562年)、小寺政職の近習となる。この年に父と共に土豪を征伐し、初陣を飾る。永禄7年(1564年)、浦上清宗に嫁いだ妹が、婚礼当日に赤松政秀に攻められ夫らとともに討たれる。

永禄10年(1567年)頃、孝高は父職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光(てる)を正室に迎え、姫路城代となった。永禄12年(1569年)、赤松政秀が、足利義昭を抱える織田信長に属した池田勝正と別所安治の支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んでくるが、300の兵で奇襲攻撃を仕掛け撃退した(青山・土器山の戦い)。

天正元年(1573年)、小寺氏など播磨の大名たちは、浅井長政を討ち、将軍義昭を追放し、畿内で勢力を拡大する織田信長と山陰・山陽に勢力を張る毛利輝元の2つの大勢力に再び挟まれることになった。天正3年(1575年)、長篠の戦いで武田勝頼を破った信長の才能を高く評価していた孝高はいち早く主君・政職に織田家への臣従を勧め、羽柴秀吉の部下であった縁者をつてに岐阜城で信長に謁見。さらに近隣勢力も説得し、政職、別所長治、赤松広秀らを謁見させた。

天正4年(1576年)、亡命した将軍義昭を抱える毛利は小早川隆景の水軍の将、浦宗勝を5,000の兵で攻め込ませるが、英賀に上陸したところを孝高は500の兵で攻撃し退ける。この戦いの後、長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として信長の元へ送る。天正5年(1577年)の秋、信長は(信貴山城の戦いで)松永久秀を討伐した後に、羽柴秀吉に命じて播磨に進駐させた。孝高は居城である姫路城を秀吉に提供し、一族を父の隠居城である飾東郡の国府山城(甲山(98m))に移らせた。

織田家臣時代

ところが天正6年(1578年)、播磨の大勢力である三木城主別所長治が織田氏に反旗を翻し、これに対して信長が上月城の戦いから山中幸盛らを残し軍を撤退させると、それらに他の播磨の勢力は大きく動揺した。さらに織田家の重臣で摂津国を任されていた荒木村重が信長に対して謀反を起こし、有岡城に籠城した(有岡城の戦い)。

このとき、主君の政職も呼応しようとしたために、孝高は村重を翻意させるため交渉に有岡城に乗り込んだが、成功せず逆に捕縛されてしまった。1年後、有岡城は落城し孝高は家臣の栗山利安によって救出されたが、劣悪な環境の土牢に長期に渡って押し込められていたため左脚の関節に障害が残り、歩行がやや不自由になった。このため、以後は合戦の指揮も馬上ではなく輿に乗って行うようになった。

天正8年(1580年)、秀吉は難攻の末にようやく陥とした別所長治の三木城を拠点とし、姫路城を孝高に還そうとするが、孝高は「姫路城は播州統治の適地である」と進言する。村重の謀反の際、主君の小寺政職も同調して信長から離反したため、信長の嫡男・織田信忠によって討伐された。名字に黒田を用いたのはこれ以降と考えられている[1]。孝高は信長から播磨国の山崎に1万石を与えられ、秀吉の与力となって参謀として活躍するようになる。

天正9年(1581年)、秀吉は因幡の鳥取城を兵糧攻めで落城させた。策略により若狭などの商人が周辺の米を買い占めた上で完全に包囲して兵糧の補給を絶ったため、鳥取城内は飢餓で凄惨極まりない状況に追い込まれ(鳥取の渇え殺し(かつえごろし))、3ヶ月で降伏を余儀なくされたが、城中の備蓄米が少ないことを見抜き、この作戦を秀吉に献策したのは孝高だったと言われる。

また天正10年(1582年)、毛利氏の部将・清水宗治が守る備中高松城攻略に際し、秀吉は巨大な堤防を築いて水攻めにしたが上手く水をせき止められなかった。これに対し、孝高は船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めるように献策し成功させたと言われる。

豊臣家臣時代

高松城攻めの最中、京都で明智光秀による本能寺の変が起こり、信長が横死した。変を知った孝高は秀吉に対して、毛利輝元と和睦し、光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させたと言われる。山崎の戦いでは天王山を抑え、その裾野から射撃を仕掛ける中川清秀を追い落とそうとする明智軍と激しい戦闘を繰り広げた。

天正11年(1583年)の秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の猛攻に遭って中川清秀の部隊が壊滅し、続いてその攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた。

天正12年(1584年)の前年より大坂城の縄張りに当たっていたが、小牧・長久手の戦いの時期には、外交に手腕を発揮し毛利氏と宇喜多氏の国境線を確定し、実質的に秀吉配下に加える。留守居役を務めていた長政らは岸和田の戦いで根来盛重、鈴木重意、長宗我部元親らの兵を破った。

天正13年(1585年)には羽柴秀長を総大将とする四国攻めに、讃岐国から攻め込んだ宇喜多秀家の軍勢の軍監として加わり諸城を陥落させていった。植田城に対してはこれを囮であると見抜いて阿波国へ迂回するなど、敵将・長宗我部元親の策略を打ち破ったと言われる。阿波の岩倉城が攻略されたところで長宗我部軍は撤退、降伏した。

天正14年(1586年)、従五位下勘解由次官に叙任された。

天正15年(1587年)、九州の役では毛利氏などを含む羽柴秀長の軍勢の軍監として島津義久の軍勢と戦い、戦勝に大きく貢献している。九州平定後の6月、本拠地の中津をはじめとする豊前国の中の6郡、およそ12万5000石(太閤検地後17万石)を与えられた。しかし、7月に佐々成政が肥後国の仕置きに失敗し、隈部親永らによる肥後国人一揆が起きたため、孝高も鎮圧のための援軍として差し向けられるが、その隙をついて豊前でも城井鎮房・野中鎮兼ら国人勢力が肥後国人に呼応する。長政・後藤基次らが鎮圧に一旦は失敗するが、その後、孝高はこれを鎮圧し和議・婚姻を結ぶ。しかし秀吉は国人衆を許さず、翌年4月には城井氏らを謀殺することとなった。

天正11年から13年頃に、孝高は高山右近らの勧めによってキリスト教の洗礼を受けていた。しかし、この天正15年(1587年)7月に秀吉がバテレン追放令を出すと高山右近らがこれに反抗して追放される中、孝高は率先して令に従った。秀吉の側近である孝高の行いは、篤く遇していた宣教師やキリスト教を信仰する諸大名に大きな衝撃を与えたことがルイス・フロイスの書簡から窺える。

天正17年(1589年)、家督を嫡男・長政に譲って隠居の身となり、「如水軒」と号した(※これ以降は如水と記述する)。

家督を譲った後も、如水は秀吉の側近として仕えた。天正18年(1590年)の小田原の役では小田原城に入って北条氏政・氏直父子を説得し、無血開城させる功績を立てた。このとき、北条氏直から日光一文字の名刀を与えられている。

文禄元年(1592年)から秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に総大将・宇喜多秀家の軍監として参加したが、小西行長など諸将の暴走で思ったような采配を執れなかった。和式城郭の縄張りや、第二次晋州城攻防戦において基次らが用いた亀甲車の設計などに携わっているが、文禄2年(1593年)には五奉行の石田三成との間に確執を生じ、秀吉の怒りを買ったために、「如水円清」と号して出家している。

関ヶ原の戦い

慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去した。如水は同年12月に上洛し伏見屋敷に居住したという。この頃、如水が吉川広家に宛てた書状が残されている。

「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」

これは、如水が遠からず天下の覇権をめぐって大乱が起きると予想していたことを窺わせる。慶長5年(1600年)、徳川家康らが会津の上杉景勝討伐のため東へ向かうと、7月17日(8月25日)石田三成らが家康の非を鳴らして挙兵し(西軍)、関ヶ原の戦いが起こった。嫡男・長政は家康の養女を正室として迎えていたことから秀吉の死去前後から家康に与し、豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み基次ら黒田軍の主力を率いて家康に同行、関ヶ原本戦で武功を挙げた。

中津に残っていた如水も、家康方(東軍)として行動した。石田三成の挙兵の知らせを用意させていた早舟から受け取った如水は、兵力の大半は長政が率いていたため如水は金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、9千人ほどの速成軍を作り上げた。9月9日(10月15日)、再興を目指して西軍に与した大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後に攻め込み、東軍の細川忠興の飛び地である杵築城を包囲攻撃した。城将・松井康之と有吉立行は如水に援軍を要請、同日、如水はこれに応じ、1万人と公称した兵力を率いて出陣した。道中の諸城を攻略した後、9月13日(10月19日)、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した(石垣原の戦い)。母里友信が緒戦で大友軍の吉弘統幸に破れる等苦戦するも井上之房らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した。

その後、如水は西軍に属した太田一吉の臼杵城、毛利勝信の小倉城などの諸城を落としていった。国東半島沖の豊後水道付近では、関ヶ原より引き上げてきた島津義弘の軍船と戦い(島津と同行していた立花宗茂と別れた後のことである)焼き沈めている。そして11月に入り加藤、立花、鍋島勢を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが11月12日に肥後の水俣まで進軍したとき、徳川家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散した。

晩年

関ヶ原の合戦の後、家康から勲功第一として長政が筑前国名島(福岡)52万3000石への加増移封となった。その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送った。

慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。59歳。

人物

  • 竹中重治(半兵衛)と共に秀吉の双璧と謳われ、「両兵衛」・「二兵衛」と称された。
  • 孝高は頭部に醜い瘡があったと言われる。これは有岡城にて投獄されていたときに患ったものとされる。
  • 築城の名手として知られ、居住した中津城や福岡城の他、大坂城、讃岐高松城、名護屋城(肥前国)、広島城などに縄張りや助言を行った。
  • 隠居後の号である如水とは、文字通り水の如くの清らかさや柔軟さを人生訓として用いた一方、モーゼの後継者であり、カナンの地を攻め取った旧約聖書のジョスエ(Josue)も引用しているとされる。
  • 城攻めの才能に共通点がある一方で、孝高は人を害する事は好まず、また魔女狩りのように寺社仏閣を害することもなく、晩年は再建に努めた大宰府天満宮内に草庵を構えている。
  • 倹約家で知られ、不要になった物は家臣に売り下げる、城には天守閣を築かず矢倉で代用するなどで蓄財に励んだ。一方で関ヶ原の戦いで兵を集めた時は金を惜しまず、支度金を二度受け取ろうとする者に対しても何も言わずに笑いながら与えた。
  • 徳川秀忠は孝高を「今世の張良なるべし」と評した(名将言行録)。

逸話

  • 荒木村重謀反のとき、信長は翻意するよう説得に向かった孝高が帰ってこないのは、村重方に寝返ったからだと判断し、人質として預けられていた黒田長政(松寿丸)を殺害するように命じた(村重と一緒に主君の小寺政職も裏切った事がこの疑念を助長している)。しかし竹中重治(半兵衛)は密かに長政を匿った。重治への感謝の気持を忘れないために、黒田家は家紋に竹中家の家紋を用いた(この家紋とは黒餅の事を指す。黒餅とは石高の加増を願う家紋である)。
  • 本能寺の変で織田信長が死去したとき、孝高は取り乱す秀吉に対して「御運が開かれる機会が参りましたな」と言った。これにより秀吉は落ち着きを取り戻したが、以後孝高の智謀を恐れるようになったという。秀吉が多くの功績を立てた孝高に対して、大坂から遠く離れた豊前の中津でわずか12万5000石(検地後に17万石)しか与えなかった(加藤清正福島正則ら他の子飼い大名と比べると小封と言える)のも、それを示していると言われる。
  • 秀吉が孝高を恐れたことを示す史料として、次のようなものがある。

秀吉、常に世に怖しきものは徳川と黒田なり。然れども、徳川は温和なる人なり。黒田の瘡天窓は何にとも心を許し難きものなりと言はれしとぞ (名将言行録)

  • 孝高が長政に家督を譲って隠居したのは44歳のときであるが、働き盛りの年齢で隠居したのは秀吉に恐れられていることを知って身の安全を図ったためと言われる。次のような逸話が残っている。
    秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねた。家臣たちは徳川家康前田利家の名前を挙げたが秀吉は黒田官兵衛(孝高)を挙げ、「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」と言った。側近は「官兵衛殿は10万石程度の大名に過ぎませんが」と聞き返したところ、秀吉は「お前たちはやつの本当の力量をわかっていない。やつに100万石を与えたらとたんに天下を奪ってしまう」と言った。これを伝え聞いた官兵衛は身の危険を感じて隠居を申し出たという。
    これはわざと情報を流すことで周囲の反応を見ようとしたもの、また、隠居は三成ら若い人材の台頭なども理由と言われる。
  • 文禄4年(1594年)の伏見の大地震の際、倒壊した伏見城に駆けつけたが、秀吉は同じ蟄居中の加藤清正の場合には賞賛したのに対し、如水に対しては「俺が死ななくて残念であったであろう」と厳しい言葉をかけたと言われている。
  • 中津市の合元寺には、中津城内に旧領回復を目指して一揆を起こした城井鎮房が謀略結婚により呼び寄せられた際、多くの城井家臣が滞在していた。寺の門前の白壁は黒田兵が彼らを討った際に血痕が付着し、それが幾度塗り替えられても浮き出るので、ついに赤色に塗られるようになり、地元では通称「赤壁寺」と呼ばれる由来になったという伝承がある。庫裏(くり)の大黒柱には現在も刃痕が残っている。戦死した城井家臣は合葬され、境内の延命地蔵菩薩堂に祀られ菩提が弔われた。
  • 京都の聚楽第邸内の屋敷は千利休と隣り合い、茶道を学んでいる。
  • 旧主の小寺政職の嫡男の小寺氏職を庇護したため、小寺氏は存続する事となった。
  • 賤ヶ岳の七本槍に倣い、自分の家臣から24人の精鋭を選出して黒田二十四騎と呼んだ。そして、この24人の中でも更に優れた後藤基次や母里友信など8人を黒田八虎とした。
  • 関ヶ原の合戦の後の長政による、家康は「我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略あるまじ」と3度手を取りの感謝したという報告に対し、「何故空いた手で刺さなかった」と叱責する野心家如水を描いた話しが知られるが、現在のところ最も古い記述は大正時代の小説までである。
  • 関ヶ原で西軍側についた宇喜多氏の武将で、同じキリシタンであり母方の親戚でもある明石全登を、弟・直之の元で庇護したとされる。
  • 筑前国福岡の地名は元は福崎であり、如水が祖父黒田高政の代から関わりが深く洪水で壊滅した、備前国福岡 (瀬戸内市)の地名にちなみ変更された。
  • 晩年は家臣に対して冷たく振舞ったとされる。これは殉死者を出さないためとも、当主の長政に家臣団の忠誠を向けさせるためとも言われている。
  • 遺訓として「人に媚びず、富貴を望まず」がある。
  • 安楽寺天満宮(太宰府天満宮)復興の祖といわれ、境内には茶の湯で使用した「如水の井戸」が残っている。
 
 
■その他戦国武将紹介についてはトップページまたはメニューから。
戦国武将大百科トップページ
copyright2009 "〜戦国最強徹底検証!〜 戦国武将大百科"サイト内の文章の複製は禁止しています。
inserted by FC2 system