戦国最強は誰だ!?徹底検証!   
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浅井長政 〜板ばさみになり不運の最後を遂げた勇将〜
 

浅井 長政(あざい ながまさ、旧字体表記:淺井 長政)は、戦国時代(室町時代末期)の武将で、北近江の戦国大名。浅井家の3代目にして最後の当主。豊臣秀頼や徳川家光の外祖父。曾孫は徳川家綱・綱吉や明正天皇など多数。

なお、名字および所領地の「浅井」の読みは「あざい」が正しく、「あさい」という読み方は誤りであると考えられてきたが、最新の研究では、やはり「あさい」が正しいという学説もある(宮島敬一著「浅井氏三代」参照)。

織田信長の妹、お市と結婚し、織田家と同盟関係を結んだ。信長は長政を高く評価していたらしく、可愛がっていた妹、お市と長政の結婚を喜び、婚姻に関わる費用は全額負担したという。

 長政はお市との結婚以前にも多くの側室を抱えていたが、お市との夫婦仲は非常に良く、周囲に羨まれるほどのおしどり夫婦であったという。二人の間には2男3女が生まれた。特に3人の娘(茶々、初、江)は浅井三姉妹として有名である。

概要

受領名は備前守。官位は贈従二位中納言徳川家光の外祖父にあたるため、死後の寛永9年(1632年)に贈られた。浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、のちに信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて自害。浅井氏は滅亡した。

生涯

家督相続

天文14年(1545年)に浅井久政の嫡男として六角氏の居城・南近江観音寺城下(現在の滋賀県近江八幡市安土町)で生まれる。幼名は猿夜叉丸。

当時、浅井氏は六角氏との合戦に敗れ、初代当主浅井亮政の代に手に入れた領地を失い、六角氏に臣従していた。そのため長政自身も生母、小野殿と共に人質になっていたとされる。久政は六角氏との外交に力をいれ、かろうじて北近江を維持していた。家臣の中には久政の弱腰な政策に反発する者も多く、また先代に活躍した武将も世代交代という名目で低い扱いを受けていた。

15歳で長政が元服した時、六角氏は浅井と臣従関係にあることをはっきりさせるため、長政に当主六角義賢の一字をとって「賢政」と名乗らせる。また、六角氏の家臣・平井定武の娘との婚姻も強いた。

このような状況に不満を持つ家臣達は知勇に優れた長政に期待を寄せ、久政を竹生島に追放して隠居を強要した。長政は家督を強奪に近い形で相続したのであった。長政は六角氏から離反する意思を明確にするため「賢政」の名と「平井定武の娘」を六角氏に返上し、名を新九郎に戻した。

浅井家の成長と六角家の衰退

永禄3年(1560年)、長政(新九郎)は15歳の若さで軍を率い、六角軍を相手に野良田の戦いで見事な戦ぶりを披露した。これによって重臣の赤尾清綱・海北綱親・遠藤直経らを心酔させたと言われている。

野良田の戦いの勝因は短期間で寄せ集めの軍備しかできなかった六角氏と異なり、久政隠居の頃から合戦の準備を始めていたためと思われる。また朝倉氏に援軍を求めた様子もないことから朝倉親交派である久政や家臣達ではなく、長政本人が戦の主導権をとっていたという見方もできる。合戦後は朝倉氏との関わりを少なくした独立政治を展開している。

翌年永禄4年(1561年)6月20日付けの資料に「長政」の名乗りが見えることから、これ以前に、名を長政と改めたと推定される。

永禄6年(1563年)、六角氏の筆頭家臣であった後藤賢豊が暗殺された。世にいう観音寺騒動である。この騒動で六角を離れ浅井に仕官した者も多く、六角氏の改革失敗が決定的になった時期である。同年、長政の美濃遠征中にその留守を狙い六角氏が軍を動かしたため、長政は軍を反転させて六角軍を撃破した。殿(しんがり)を守らせた海北清綱はわずか500の兵で見事な働きを見せた。

この2つの出来事で浅井氏は領地を拡大したが、その後は六角氏との停戦協議によって膠着状態が続く。

織田信長と同盟

1560年代(時期明確にならず)、織田信長は美濃国斎藤氏との膠着状態を打破するため不破光治を使者として送り、長政に同盟を提案した。同盟の条件は浅井側に有利であったが、浅井家臣の中では賛否両論であり、遠藤直経も反対だったという。最大の問題は、盟友である朝倉義景と信長の歴史的な不仲だった。西美濃勢が信長寄りに振る舞う度に領地が油阪で通じることになり、互いに挑発を繰り返していた。家臣は朝倉親交派と独立派で分断されたが、最後は長政の決断によって批准した。

「同盟がある限り、織田は朝倉に進軍せず。また、どのような事態でも朝倉に進軍する時は必ず一報をいれる」との条件を付した上での同盟だと云われる[要出典]。同盟の際、長政は信長の妹の市を妻とした(逸話によると遠藤直経は、お市との婚姻の際に信長を暗殺する計画を長政に提案したという)。

この同盟によって信長は上洛経路を確保し、美濃国攻略の足掛かりとした。長政は信長という大勢力との繋がりができ、他の大名に大きな牽制になった。信長は大いに喜び、通常は浅井側が結婚資金を用意するのが当時のしきたりだったが、信長自身が婚姻の費用を全額負担したとされている[3]。

永禄11年(1568年)7月、朝倉氏に滞在していた15代将軍足利義昭は一向に上洛の意志をみせない義景に見切りをつけ、信長に身を寄せた。これによって、9月に信長は上洛を開始した。上洛の道中、反抗する六角氏を攻撃。これにより長政の宿敵である六角氏は比叡山に撤退。浅井氏も義昭を守護しながら上洛を掩護した。

同盟破棄・信長包囲網

元亀元年(1570年)、信長が長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破り徳川家康と共に琵琶湖西岸を通過して越前の朝倉方の城を攻め始める。長政は義景との同盟関係を重視し、織田徳川軍を背後から急襲。信長は殿を務めた羽柴秀吉らの働きにより、命からがら近江を脱出した(金ヶ崎の退き口)。

信長との同盟に反対していた家臣達は、信長が朝倉攻めに際して一報を入れなかったことから、隠居中の久政をかつぎ出し、長政に織田軍への進撃を提案したと言われている。重臣の海北清綱、磯野員昌、遠藤直経はこれに反対したといい、信長への進軍は反信長の家臣達の暴走という説もある。敦賀への進軍に、主力である武将達は参加しておらず長政が居たという記録もない。

同年6月、長政は朝倉軍とともに姉川の戦いで織田徳川連合軍と戦う。先鋒の磯野員昌が織田軍の備え15段のうち13段まで崩す猛攻を見せ、織田軍は敗走の用意をしていたという逸話がある。結局この戦は織田徳川連合軍の勝利に終わった。

姉川の戦いの後、本願寺(野田城・福島城の戦い)、毛利、武田、上杉など諸大名が反信長の意志を表した(信長包囲網)。また、藤堂高虎は姉川の戦いに名もない兵卒として参戦し、多くの武功をあげ長政に感状を送られた。

9月には朝倉軍や延暦寺、一向宗徒と連携し再び信長への攻勢を強め(志賀の陣)、坂本において森可成、織田信治らを討ち取る。だが、浅井氏と協力関係にあった比叡山延暦寺は、元亀2年(1571年)9月に信長に比叡山焼き討ちにあい壊滅してしまう。

信玄が動く

元亀3年(1572年)7月、信長が5万の大軍を率い北近江に来襲した。長政は朝倉義景に援軍を要請、義景は1万5,000の軍勢を率い近江に駆けつけた。信長との正面衝突にはならず睨み合いが続いたが浅井朝倉連合軍は織田軍に数で劣っており、依然として苦しい状況であった。

同年9月、将軍足利義昭の要請に応える形で武田信玄が2万7,000の軍勢を率い甲斐を進発。信玄はこの時、長政、久政親子宛に書状を送っている。

「只今出馬候 この上は猶予なく行(てだて)に及ぶべく候」

その後、信玄は遠江で織田徳川連合軍を蹴散らし(三方ヶ原の戦い)、三河に進んだ。長政らに与えられた役割は、北近江の織田軍を岐阜に戻さないことである。北近江に織田軍を釘付けにすれば信長は全力をもって信玄の軍勢とぶつかることができず、反信長連合軍の勝機は高まる。織田軍の物量に押されじわじわと追いつめられていた長政にとって、信玄の西上は必ず成功させたい重要な作戦であった。

同年12月、北近江の長政領に在陣の朝倉義景の軍が兵の疲労と雪が降ったことを理由に越前に帰国。義景の撤退により北近江に縛られていた織田軍は悠々と美濃に戻った。長政の寡兵だけでは退却する織田軍の追撃を行えなかったからである。信玄は義景の独断に激怒し再出兵を促す手紙(伊能文書)を義景に送ったが、義景はそれに応じることが出来ずだんまりを決め込んだ。それでも信玄は義景の再出兵を待ち軍勢を止めていたが、翌年2月には何の反応も示さない義景に痺れを切らして家康領の野田城を攻め落とす。しかし、信玄は長陣の疲れや真冬の寒さ、義景に対してのストレスなどの影響によって以前から深刻な状態であった持病を悪化させてしまい病死。武田軍は甲斐に退却した。これにより包囲網は完全に破綻し、信長は易々と大軍勢を浅井朝倉に向ける事が可能になったのである。

浅井家滅亡

天正元年(1573年)7月、信長は3万の軍を率い再び北近江に攻め寄せる。長政は義景に援軍を要請、義景は2万の軍で駆けつけるが織田の軍勢が北近江の城を落とし始めるとまともに交戦もしないうちに越前に撤退を始めた。信長は逃げる朝倉軍を追撃し滅亡させた後(一乗谷城の戦い)、軍を浅井氏に向けた。

もはや長政に反撃の手段は無く、信長の大軍によって一方的に勢力範囲を削られるのみであった。ついに本拠の小谷城(滋賀県長浜市)が織田軍に囲まれる。しかし、信長は長政を高く評価していたようで、何度も降伏勧告を行った。降伏した後は大和へ新領地を与えるという、裏切りを嫌う信長にとっては破格の案も出されたという。不破光治、木下秀吉なども使者として送られたが長政は断り続け、最終勧告も決裂した。

長政と仲睦まじかった正室の市は運命を共にする決意であったが、長政から諌められ帰還を決意した。市が信長の陣営に帰還する時、浅井・織田軍も一切の攻撃をしなかったと言われている。

同年9月1日(9月26日)、父の久政と共に自害。享年29。

一級史料と評される信長公記には天正2年(1574年)の正月の宴席において薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)にした義景、久政長政父子の三ツ首を御肴として白木の台に据え置き、皆で謡い遊び酒宴を楽しんだとある。なお、これを杯にして酒を飲んだという俗説もあるが史料には見当たらない。信長は酒を飲まなかったので後世の作り話と考えられる。 墓所は滋賀県長浜市の徳勝寺。

 
 

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