戦国最強は誰だ!?徹底検証!   
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毛利 元就 〜勝利のためにあらゆる手段を用いた戦国時代最高の謀略家〜

 

毛利 元就(もうり もとなり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸の国人領主・戦国大名。

安芸の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、戦国時代最高の名将の一人と後世評される。用意周到な策略で自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。

本姓は大江氏。家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする毛利氏の血筋。寒河江氏などは一門にあたる。家紋は一文字三星紋。

安芸国吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市吉田町)を本拠とした毛利弘元の次男。 幼名は松寿丸(しょうじゅまる)、通称は少輔次郎(しょうのじろう)。

生涯

家督相続

毛利家の家紋。明応6年(1497年)3月14日、安芸の国人領主毛利弘元と福原氏との間に次男として誕生。幼名は松寿丸。出生地は母の実家の鈴尾城(福原城)と言われ、現在は毛利元就誕生の石碑が残っている。

明応9年(1500年)に幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれた父の弘元は隠居を決意。嫡男の毛利興元に家督を譲ると、松寿丸は父に連れられて多治比猿掛城に移り住む。翌文亀元年(1501年)には最愛の母が死去し、松寿丸10歳の永正3年(1506年)に、父・弘元が酒毒が原因で死去。松寿丸はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまう。松寿丸はその哀れな境遇から「乞食若殿」と貶されていたという。この困窮した生活を支えたのが養母であった杉大方である。永正8年(1511年)に元服し、毛利元就を名乗る。

永正13年(1516年)、長兄・興元が急死。家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見する。毛利弘元、興元と二代続く当主の急死に、幼い主君を残された家中は動揺する。毛利家中の動揺をついて、佐東銀山城主・武田元繁が吉川領の有田城へ侵攻。武田軍の進撃に対し、元就は幸松丸の代理として有田城救援のため出陣する。元就にとっては毛利家の命運を賭けた初陣であった。

安芸武田氏重鎮であり、猛将として知られていた武田軍先鋒・熊谷元直率いる軍を元就は撃破し、熊谷元直は討死。有田城攻囲中の武田元繁はその報に接するや怒りに打ち震えた。一部の押さえの兵を有田城の包囲に残し、ほぼ全力で毛利・吉川連合軍を迎撃し、両軍は激突する。戦況は数で勝る武田軍の優位で進んでいたが、又打川を渡河していた武田元繁が矢を受けて討死するに至り、武田軍は混乱して壊滅。安芸武田氏は当主の元繁だけではなく、多くの武将を失い退却する。この「有田中井手の戦い」は「西国の桶狭間」と呼ばれ、武田氏の衰退と毛利氏の勢力拡大の分水嶺となった。そしてこの勝利により、安芸国人「毛利元就」の名は、ようやく世間に知られるようになる。この戦いの後、尼子氏側へ鞍替えした元就は、幸松丸の後見役として安芸国西条の鏡山城攻略戦でも、その智略により戦功を重ね、毛利家中での信望を集めていった。

詳細な時期は不明であるが、この頃に吉川国経の娘(法名「妙玖」)を妻に迎える。

甥の毛利幸松丸が大永3年(1523年)にわずか9歳で死去すると、毛利家の直系男子であり、家督継承有力候補でもあった元就が重臣達の推挙により、吉田郡山城に入城し、27歳で毛利家の家督を継いだ。この時、元就の継承に不満を持った坂氏・渡辺氏等の有力家臣団の一部が、尼子経久の指示を受けた尼子氏重臣・亀井秀綱支援の下、元就の異母弟・相合元綱を擁して謀反を起こしたが、元就は執政・志道広良らの支援を得て元綱一派を粛清・自刃させるなどして、将来の禍根を絶ち、当主の座を確固たるものとした。

勢力拡大

家督相続問題を契機として、元就は尼子経久と次第に敵対関係となり、ついには大永5年(1525年)に尼子氏と手切れして大内義興の傘下となる立場を明確にした。そして享禄2年(1529年)には、かつて毛利幸松丸の外戚として専権を振るい、尼子氏に通じて相合元綱を擁立しようと画策した高橋興光ら高橋氏一族を討伐。高橋氏の持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れたが、高橋一族討伐の際、元就は高橋氏の人質となっていた長女を殺害された。一方で、長年の宿敵であった宍戸氏とは関係の修復に腐心し、娘を宍戸隆家に嫁がせて友好関係を築き上げた。その他、一時大内氏に反乱を起こし窮地に追いやられた天野氏や、安芸武田氏と関係が悪化した熊谷氏とも誼を通じ、安芸国人の盟主としての地位を確保した。

天文2年(1534年)9月23日付けの『御湯殿上日記』(宮中の日誌)に、大内義隆より「大江のなにがし」を応永の先例に倣って官位を授けるように後奈良天皇に申し出があったという記事がある。これは毛利(大江)元就をその祖先である毛利光房が称光天皇より従五位下右馬頭に任命された故事に倣って同様の任命を行うようにという趣旨であった。元就は義隆を通じて4,000疋を朝廷に献上する事で叙任が実現の運びとなった。これによって推挙者である大内義隆との関係を強めるとともに、当時は形骸化していたとは言え、官位を得ることによって安芸国内の他の領主に対して朝廷・大内氏双方の後ろ盾があることを示す効果があったと考えられている。また、同時期には安芸有力国人である吉川氏当主吉川興経から尼子氏との和睦を斡旋されるが、逆に尼子方に断られてしまっている。

天文8年(1539年)、従属関係にあった大内氏が、北九州の宿敵少弐氏を滅ぼし、大友氏とも和解したため、安芸武田氏の居城佐東銀山城を攻撃。尼子氏の援兵を武田氏は受けたものの、これにより、城主武田信実は一時若狭へと逃亡している。後に信実は出雲の尼子氏を頼っている。

天文9年(1540年)には経久の後継者である尼子詮久率いる3万の尼子軍に本拠地・吉田郡山城を攻められるが(吉田郡山城の戦い)、元就は即席の徴集兵も含めてわずか3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力、そして遅れて到着した大内義隆の援軍・陶隆房の活躍もあって、この戦いに勝利し、安芸国の中心的存在となる。

同年、大内氏とともに尼子氏の支援を受けていた安芸武田氏当主・武田信実の佐東銀山城は落城し、信実は出雲へと逃亡。安芸武田氏はこれにより滅亡した。また、安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築いた。

天文11年(1542年)から天文12年(1543年)にかけて、大内義隆を総大将とした第1次月山富田城の戦いにも、元就は従軍。しかし吉川興経らの裏切りや、尼子氏の所領奥地に侵入し過ぎたこともあり、補給線と防衛線が寸断され、更には元就自身も4月に富田城塩谷口を攻めるも大敗し、大内軍は敗走する。この敗走中に元就も死を覚悟するほどの危機にあって渡辺通らが身代わりとして奮戦の末に戦死、窮地を脱して無事に安芸に帰還することができた。しかし大内・尼子氏の安芸国内における影響力の低下を受けて、常に大大名の顔色を窺う小領主の立場から脱却を考えるようになる。

元就は手始めに天文13年(1544年)に、強力な水軍を擁する竹原小早川氏の養子に三男・徳寿丸を出した。同年、備後三吉氏へ遠征に出た尼子晴久の兵を撃退すべく、児玉就忠・福原貞俊を派遣するが敗北している。(布野崩れ)

天文16年(1547年)、妻・妙久の実家である吉川家の乗っ取りを企む。当時吉川経世ら一族や重鎮と、新参の家臣との対立が激しくなっており、家中の統制ができなくなっていた。元就は、吉川国経の外孫に当たる次男・元春を吉川氏に養子として送り込んだ。吉川家当主の吉川興経を強制的に隠居させ、興経の隠居後の天文19年(1550年)に、将来の禍根を断つため興経とその一家を殺害。一方で、先の月山富田城の戦いで当主・小早川正平を失っていた沼田小早川氏の後継問題にも介入した。当主・小早川繁平が幼少かつ盲目であったのを利用して家中を分裂させ、後見役の重臣であった田坂全慶を謀殺した上で繁平を出家に追い込み、分家の竹原小早川当主で元就の実子である小早川隆景を後嗣にさせている。これにより、小早川氏の水軍を手に入れ、また「毛利両川体制」が確立、毛利氏の勢力拡大を支えることになるのである。

これにより安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏、両家の勢力を取り込み、安芸一国の支配権をほぼ掌中にした。

天文19年(1550年)7月13日に家中において専横を極めていた井上元兼とその一族を殺害し、その直後に家臣団に対して毛利家への忠誠を誓わせる起請文に署名させ、集団の統率力を強化。後に戦国大名として飛躍するための基盤を構築していく。

厳島の戦い

天文20年(1551年)、防長両国の大名大内義隆が家臣の陶隆房の謀反によって殺害された大寧寺の変がおこる。元就は当初、隆房と誼を通じて佐東銀山城や桜尾城を占領し、その地域の支配権を掌握した。

隆房も元就の協力なくして大内領支配は不可能と考えて元就に安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えた。これを背景として徐々に勢力を拡大すべく安芸国内の大内義隆支持の国人衆を攻撃。平賀隆保の籠もる安芸頭崎城を陥落させ隆保を自刃に追い込み、平賀広相に平賀家の家督を相続させて事実上平賀氏を毛利氏の傘下におさめた。1553年には尼子晴久の安芸への侵入を大内氏の家臣、江良房栄らとともに撃退した。

この際の戦後処理のもつれと毛利氏の勢力拡大に危機感を抱いた陶隆房は、元就から支配権を奪回しようとし、徐々に両者の対立が先鋭化してくるのである。そこに石見の吉見正頼が隆房に叛旗を翻した。隆房の依頼を受けた元就は当初は陶軍への参加を決めていたが、毛利家中には隆房への不信から反対意見もあり出兵が出来なかった。そこで隆房は直接安芸の国人領主たちに出陣の督促の使者を派遣した。平賀広相からその事実を告げられた元就の嫡男・隆元や重臣達は元就に対して(安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えるとした)約束に反しており、毛利と陶の盟約が終わったとして訣別を迫った。ここに元就も隆房との対決を決意した。

しかし、陶隆房が動員できる大内軍30,000以上に対して当時の毛利軍の最大動員兵力は4,000〜5,000であった。正面から戦えば勝算は無い。更に毛利氏と同調している安芸の国人領主たちも大内・陶氏の圧迫によって動揺し、寝返る危険性もあった。そこで元就は得意の謀略により大内氏内部の分裂・弱体化を謀る。

天文23年(1554年)、出雲では尼子氏新宮党の尼子国久・誠久らが尼子晴久に粛清されるという内紛が起こった[2]。尼子氏が新宮党を粛清の最中、陶晴賢(隆房より改名)の家臣で、知略に優れ、元就と数々の戦いを共に戦った江良房栄が「謀反を企てている」というデマを流し、本人の筆跡を真似て内通を約束した書状まで偽造し、晴賢自らの手で江良房栄を暗殺させた(異説として、江良房栄は当初から毛利氏に内応しており、その事実をわざと元就が晴賢に明かした、というものもある)。

そして同年、「謀りごとを先にして大蒸しにせよ」の言葉通りに後顧の憂いを取り除いた元就は、反旗を翻した吉見氏の攻略に手間取っている陶晴賢に対して反旗を翻した。晴賢は激怒し即座に重臣の宮川房長に3,000の兵を預け毛利氏攻撃を命令。山口を出陣した宮川軍は安芸国の折敷畑山に到着し、陣を敷いた。これに対し元就は機先を制して宮川軍を襲撃した。大混乱に陥った宮川軍は撃破され、宮川房長は討死(折敷畑の戦い)。緒戦は元就の勝利であった。

これにまたもや激怒した陶晴賢は弘治元年(1555年)、今度は自身で20,000の大軍を率いて山口を出発した。途中、重臣の弘中隆兼の反対にもかかわらず、交通と経済の要衝である厳島に築かれた毛利氏の宮尾城を攻略すべく、厳島に上陸した。しかしこれは元就の策略であり、大軍ゆえに身動きの取れない陶軍に奇襲を仕掛け、一気に殲滅したのである。陶晴賢は自刃し、大内氏はその勢力を大きく弱め、衰退の一途を辿っていくことになる。これが後世に名高い日本三大奇襲作戦の一つ『厳島の戦い』である。

弘治2年(1556年)、備前遠征から素早く兵を撤兵させた尼子晴久率いる25,000と、尼子と手を結んだ小笠原長雄が大内方であった山吹城を攻撃。これに毛利氏は迎撃に出るも、忍原にて撃破され石見銀山は尼子氏のものとなる。(忍原崩れ)

弘治3年(1557年)、大内氏の内紛を好機とみた元就は、晴賢に傀儡として擁立されていた大内氏の当主義長を討って、大内氏を滅亡に追い込んだ。これにより九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功した(防長経略)。

同年、家督を嫡男隆元に譲るが、元就は実権を握り続けた。

永禄元年(1558年)、石見銀山を取り戻すべく毛利元就・吉川元春は小笠原長雄の籠る温湯城を攻撃。これに対して尼子晴久も出陣するが、互いに江の川で睨みあったまま戦線膠着。翌永禄2年(1559年)には温湯城を落城させ山吹城を攻撃するも攻めあぐね、撤退中に城主本城常光の奇襲と本城隊に合流した晴久本隊の攻撃を受け大敗している。(降露坂の戦い)

尼子氏・大友氏との戦い

弘治2年(1556年)以降、尼子氏当主・尼子晴久によって山吹城を攻略され石見銀山の支配権を失っていたが、永禄3年(1560年)にその尼子晴久が死去する。そして尼子氏の晴久急死による動揺もあり、晴久の嫡男尼子義久は足利義輝に和睦を願うも、この和睦を元就は一方的に破棄し、永禄5年(1562年)より出雲侵攻を開始する(第二次月山富田城の戦い)。

これに対して晴久の跡を継いだ尼子義久は、難攻不落の名城月山富田城(現在の島根県安来市)に籠城し尼子十旗と呼ばれる防衛網で毛利軍を迎え撃った。しかし永禄6年(1563年)に、元就は尼子氏の支城である白鹿城を攻略。ついに月山富田城を包囲して兵糧攻めに持ち込んだ。しかし大内氏に従って敗北を喫した前回の月山富田城攻めの戦訓を活かし、無理な攻城はせず、策略を張り巡らした。まず元就は兵士の降伏を許さず、投降した兵を皆殺しにして見せしめとした。これは城内の食料を早々に消耗させようという計略であった。それと平行して尼子軍の内部崩壊を誘うべく離間策を巡らせた。これにより疑心暗鬼となった義久は、重臣である宇山久兼を自らの手で殺害。義久は信望を損ない、尼子軍の崩壊は加速してしまう。この段階に至って元就は、逆に粥を炊き出して城内の兵士の降伏を誘ったところ、投降者が続出した。永禄9年(1566年)11月、尼子軍は籠城を継続できなくなり、義久は降伏を余儀なくされた。 こうして元就は一代にして、中国地方8ヶ国を支配する大大名にのし上がったのである。

出雲尼子氏を滅ぼした元就であったが、尼子勝久(尼子誠久の子)を擁した山中幸盛率いる尼子残党軍が織田信長の支援を受けて山陰から侵入し、毛利氏に抵抗した。更に豊後の大友宗麟も豊前の完全制覇を目指しており、永禄11年(1568年)には北九州での主導権を巡る争いの中で、陽動作戦として元就自身によって滅ぼされた大内氏の一族である大内輝弘に兵を与えて山口への侵入を謀るなど、敵対勢力や残党の抵抗に悩まされることになる。毛利氏にとっては危機的な時期ではあったが、元春、隆景らの優秀な息子達の働きにより、大友氏と和睦しつつ尼子再興軍を雲伯から一掃することに成功した。しかし大友と和睦した事により、大内家の富の源泉となっていた博多の支配権を譲る結果になった。

稀代の謀将の最期

1560年代の前半より元就は度々体調を崩していたが、将軍・足利義輝は名医・曲直瀬道三を派遣して元就の治療に当たらせている。その効果もあったのか、元就の体調は一時は持ち直したようで、永禄10年(1567年)には最後の息子である才菊丸が誕生している。

義輝横死後の元亀元年(1570年)、足利15代将軍・足利義昭は織田信長と決裂。毛利氏も信長包囲網に参加して織田信長に敵対するよう義昭より働きかけられる。しかし元就は織田信長の実力を認めており、信長とは友好関係を維持して、包囲網に参加することはなかった。

元亀2年(1571年)6月14日、吉田郡山城において死去。死因は老衰とも食道癌とも言われる。享年75。

政治体制

概要と特色

元就が構築した政治体制は領内の国人領主や地方勢力との共生を念頭とした典型的な集団指導体制であり、同年代の他の戦国大名と類似する点が多い。また元就の統治には、三子教訓状や百万一心などの標語による家臣・領民の心理的な変革が含まれていた。この点は武田信玄などに通じるものがある。毛利氏の統治の特色として挙げられるのは地方領主の独立性の高さであり、大名(毛利氏当主)による独裁とは程遠い体制だったことである。その詳細は武田氏などと同様に複雑かつ煩雑で把握しにくいが、家中に奉行制度を確立して政務を効率化すると共に、毛利家当主のサポート体制を盤石なものとして政権の基盤構築に成功していたことは確かである。

だが、これは古来の血族支配や、国人・土豪といった守旧的勢力の存在を前提にした良くも悪くも保守的な体制でもあった。特に地方勢力の独立性を認めることは、軍事組織(戦国大名)としての一体性をやや欠き、脆さをも内包することになったからである。この結果、嫡孫・輝元の代には革新的かつ強権的な軍事体制を実現した織田氏との交戦により苦境に陥り、一部国人衆の離反を招いた。また両川(元春・隆景)や穂井田元清など有力な血族が死去した後の関ヶ原の合戦では、家中が東軍派と西軍派に割れて一貫した行動が取れず、結局敗軍の烙印を押されてしまうという醜態を演じた。(これは元来優柔不断な性格だった輝元の不手際によるものであるが、そもそも有力な血族による直接的補佐を必要とした毛利氏の体制から言えば、仕方のないことであったとも言える。)

にもかかわらず毛利氏が大名として生存を果たせたのは、元就の政治理念と異常なまでの家名存続の意志が、その死後も家中に色濃く残っていたためである(吉川広家の機転など)。後述する毛利両川とそれを筆頭とした奉行らによる集団指導体制の構築、そして「天下を競望することなかれ」という言葉を残したのは、自らの死による体制の変質や時流の変化を見越した判断でもあり、元就の戦国武将としての政治力と洞察力、先見の明は計り知れないものがある。

毛利両川体制

防長経略の年(1557年)に、元就は長男の毛利隆元に家督を譲って隠居した。しかし隆元が政権の移譲を拒絶したため、実権は元就がなおも握り、吉川元春と小早川隆景による毛利両川体制を確固たるものとしていったのである。隠居に際しての同年11月25日、14箇条の遺訓(いわゆる「三子教訓状」)を作成、家中の結束を呼びかけた。この遺訓が後に「三本の矢」(後述)の逸話の基となったとされている。

続いて同年12月2日、元就以下12人の主だった安芸国人領主[5]が著名な「傘連判状」を結んでいる。これは上下関係を明らかにはせず、彼ら国人領主皆が対等の立場にある事を示している。

だが、裏を返せば、当時の毛利氏は井上一族の粛清によってようやく自己の家臣団を完全に掌握したばかりの状態であって、未だに安芸の土豪連合の集団的盟主という立場から完全には脱却できず、実子が当主である吉川・小早川両氏といえども主従関係にはなかったのである。毛利氏がこうした土豪の集団的盟主という立場から脱却して、土豪連合的な要素の強かった安芸国人衆の再編成と毛利家の家臣への編入を通じて、名実ともに毛利氏による安芸統一が完成する事になるのは隆元が安芸国守護に任じられた永禄3年(1560年)頃とされている。

ただし、その後もこうした国人領主は毛利氏との主従関係を形成しつつも、限定的ながら一部においてその自立性が認められていくことになった。こうした直臣家臣団と従属土豪(国人領主)という二元的な主従関係は関ヶ原の合戦後の長州藩移封まで長く続き、その統率が破綻することなく続いたのは毛利氏当主とこれを支える両川の指導力によるところが大きかったのである。

朝廷・幕府との関係

毛利氏は小豪族ではあったが、朝廷との結びつきが強い大内氏と同盟関係にあったことから、元就が当主となる以前から既に中央との政治的な繋がりを持っていたようである。大内氏の滅亡後、1557年に即位した正親町天皇に多大な献資を行い、その即位式を実現させたことにより、以後の毛利氏は更に中央との繋がりを強くすることとなる。(同時期の元就の陸奥守就任、隆元の安芸守護就任などは全てこれら中央政界に対する工作が背景にある。また、これら政治工作の資金源となったのが石見銀山である)

また、その後の尼子氏や大友氏との戦いでは、幕府の仲裁を利用して有利に事を進めている。尼子氏との戦いでは石見銀山を巡って激戦を繰り広げるが、幕府による和平調停を利用して有利な形で和睦。尼子氏が石見銀山に手を出せない状況を作り出して、その支配権を我がものとした(雲芸和議)。また、大友氏との戦いでも幕府は毛利氏に和平を命じているが、これに対して元就は一時黙殺し、状況が有利になってからそれに応じるという機転を見せた。いかに上意であろうと自分に利益をもたらさない命ならば従わず、利になるならばそれを利用するという、元就の狡猾さと政治家らしさがよく現れている対応と言える。

また、足利義昭による信長包囲網の参加要請が来た際にも、先述の通り元就はこれを拒否している。この対応の真意については、元就が信長を評価していたからとも、織田氏も三好氏などと同様に短期の政権に終わると思っていたからとも言われている。

人物・逸話

稀代の謀将
合戦、策略、暗殺、買収、婚姻など、勝利のためにあらゆる手段を用いた戦国時代最高の謀略家である。その鬼謀から「謀神(ぼうしん、はかりがみ)」という異名で呼ばれることもある。(「謀聖」と呼ばれた尼子経久に対抗して呼ばれることが多い)
中国地方に一代で大領国を築き上げたことから、「西国随一の戦国大名」とも評される。その出世の大半は老境を迎えてからであったが、彼の出世記録は織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった三大天下人を除けば、数ある戦国大名の中では速度・石高共に屈指である。同じく老境から巨大化した北条早雲と比べれば、小なりといえど城主の家に生まれた点だけが恵まれているが、その歩みは遅々たるものであった。晩年にいたって突如鞭が入り、有力国人の位置から中国地方の覇者へと猛速度で駆け上がったのである。
特に巧みなのが敵将や敵勢力に対する偽報や離間策であり、吉田郡山城の戦いや厳島の戦いはこれらを駆使して勝利し、更には新宮党事件を引き起こして尼子氏の弱体化を図るなどした。(ただし、新宮党事件に関しては元就の謀略を裏づける証拠はなく、近年では関与はなかったとされている)
彼が弄する策略の特徴としては、極めて長い時間をかけて周到に、根気強く事を運ぶという点がある。このため派手さには欠けるものの、周囲の強い反発を買わず着実に地ならしをしつつ、敵を確実に排除・無力化させて安定的に領国を広げたという点に関しては群を抜いている。また元春や隆景の養子縁組など、高度に政治的な策略も多く、政略家としても優れた見識を持っていた。
彼と並び、出雲国の尼子経久・備前国の宇喜多直家は中国地方の三大謀将と言われている。
我が毛利家は、版図の保全のみを願い、天下を望むなかれ (天下を競望せず)
国人から大名にまでのし上がった元就は、かつての主家である大内・尼子が天下を目指したために勢力を落として滅亡したのを見ていたことから、隆元や元春、隆景ら息子達には守成を託した。中国地方制覇を成し遂げた頃、元就は既に老齢であり、自分の代での版図拡大がこれ以上は困難であると悟ったからである。
また版図を拡大したといっても、配下の国人領主達の中には(形式的には)対等な同盟関係にある者が多く、盤石な戦国大名への脱皮が不完全であった。そのため、これ以上版図を拡大するよりも、現在の版図を固めるべく内政に力を注ぐべきだという現実的かつ保守的な判断に至ったのである。また晩年、財政に長けた長子の隆元に先立たれたことも元就の精神状態に影響していると思われる。
映画監督の黒澤明は「乱」でこの逸話を使っている。
なお、元就の遺言とは大略では、「天下を支配する者は如何に栄耀栄華を誇っても、何代かのちには一門の枝折れ、株絶えて、末代の子孫まで続くことは無い。天下に旗を翻して武名を一世に挙げるよりは、むしろ六十余州を五つに分けてその一つを保ち、栄華を子々孫々まで残せ」というものだったそうである。
また、実際には元就死後の毛利氏は、九州においては大友氏と戦い続け、中国地方では尼子氏を完全に滅亡させ、宇喜多直家を傘下にするなど、勢力拡大に熱心であり、守成に転じたという事実は無い。大友氏との戦いが有利に進まず九州からほぼ撤退した事、織田信長との対立や尼子残党の蜂起によって勢力拡大のペースが落ちたのは、意図したものではなく結果としてそうなっただけである。豊臣秀吉と和睦後においてすら、伊予国に勢力拡大している。
三本の矢
ある日、元就は三人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せ、1本の矢を折るよう命じた。息子たちが難なくこれを折ると、次は3本の矢束を折るよう命じたが、息子たちは誰も折ることができなかった。元就は一本では脆い矢も束になれば頑丈になるということを示し、三兄弟の結束を強く訴えかけた…というもの。これが有名な「三本の矢」の逸話である。
厳島神社への参拝
毛利元就がまだ元服前に家臣と共に厳島神社へ参拝に行った際に、家臣に「何を祈願したか?」と質問したら、家臣は「松寿丸様が安芸の主になられるよう願いました」と答えた。それに対して元就は「何故天下の主になれるように願わなかったのだ?」と言った。家臣は「実現不可能な事を祈願しても意味がありますまい。せいぜい中国地方でござろう」と笑ったが、元就は、「天下の主になると祈願して、やっと中国地方が取れようというもの。まして、最初から安芸一国を目標にしていたのでは、安芸一国すら取れずに終わってしまう」と反論し、自らの理想の高さを示した。しかし、彼は前述のように、年を経るにつれて、天下獲りよりも家名の保全に腐心するようになった。
百万一心
元就が領民や一族の団結を説いた話は有名であるが、それは元就が理想とした国人領主による集団指導体制の延長線上である。実際、毛利氏による中国地方統治は、地方国人達との協議に重きを置くものであった。
  • 死去するかなり前から、元就は後継者である嫡孫・毛利輝元の器量を心配して、元春、隆景、福原貞俊、口羽通良らに補佐を依頼したという。
  • 元就の支えになったのは家族であった。正室のおかたは亡くなっていたものの、継室の乃美大方や側室の三吉氏、優秀な息子達が常に元就を支え続けたのである。元就は71歳になるまで子作りにも励み、子供達は元就死後も毛利氏を支える柱石となるのである。
  • 鉄道唱歌(第二集山陽九州篇)では、厳島の箇所において元就を讃える歌詞がある。
    毛利元就この島に 城をかまえて君の敵 陶晴賢を誅せしは のこす武臣の鑑なり
  • 嫡男・隆元に「武略と計略こそが全て」と教えるなど、武人としての印象が強い元就だが、教養人としても優れており、生前に残した多くの詩が死後出版の『春霞集(毛利元就詠草連歌)』に収録された。辞世の句は「友を得て なおぞうれしき 桜花 昨日にかはる 今日のいろ香は」である。これは死の三ヶ月前の花見で詠んだとされ、元就の知見と詩才の高さを表している。
  • 吉田郡山城の増築工事の際、人柱の替わりに百万一心と彫った石碑を埋めたとされる。
  • 父毛利弘元、兄毛利興元は酒の害で早死にしたこともあり、元就は酒は控えていたとされる。後に孫である毛利輝元に対して酒を控えるようといった内容の書状が残っている。(ただし、元就にも薬草や薬用菊を漬けた薬酒を造って飲む嗜好があったとされる)
  • 類い希な天運に恵まれた彼の生涯の中で、唯一ともいうべき不運は嫡男・隆元の早世であった。隆元死去の報告を聞いた際、元就は卒倒し、三日三晩泣き明かした。その後、元就は「早く死んで隆元のところへ行きたい」と口癖のように言うようになったという。
  • 養母であった杉大方の影響により、毎朝朝日に向かっての念仏を欠かさなかった。ルイス・フロイスの記述には、元就自身は一向宗を信仰していたと記されているが、当時一向宗と呼ばれていた浄土真宗とは異なるものである。しかし念仏信仰が固い事は確かであり、フロイスの記述によると宣教師に対しては対応が悪く、キリスト教にはあまり好意を抱いていなかったようである。
  • 元就は筆まめな人物であり、数多くの手紙が残っている。明和4年(1767)に毛利家で編纂された毛利氏の訓戒集には手紙などに残された元就の小言が30近く羅列されている。また弘治3年(1557年)の隆元ら三兄弟の結束を説いた教訓状の紙幅は2.85メートルにもなり、同じような内容が繰り返し記される。吉本健二、舘鼻誠など戦国の手紙を研究している人物の多くが「元就の手紙は長くてくどい」と言う意味の事を記している理由である。吉本は元就の手紙を「苦労人であったためかもしれないが説教魔となっている」と評した。
 
 
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