トップページ > 今川義元 |
|
|||
今川義元 〜革命的な軍事改革等の領国経営、外征面で優れた才能を発揮〜 |
||||
今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の武将・大名。駿河国(現在の静岡県中部・東部)に本拠地を置いた守護大名・戦国大名。 生涯内乱と家督相続永正16年(1519年)、今川氏親の五男として生まれる。幼名は芳菊丸。生まれた時は既に跡継ぎとして、同母兄で後に第8代当主となる今川氏輝がいた為に4歳で仏門に出された。僧侶としては臨済宗の駿河富士郡瀬古の善徳寺に預けられて栴岳承芳(せんがくしょうほう(梅岳承芳(ばいがくしょうほう)は誤伝))と称し、教育係を務めた今川家重臣出身の臨済僧・太原雪斎と共に京に上り、五山に学ぶ等、学識を深めた。 統治初期の苦難更に追い討ちを掛けるが如く、尾張(愛知県西部)の織田信秀が天文9年(1540年)に三河(愛知県東部)に侵攻を開始した。今川軍は三河の諸侯軍と連合して天文11年(1542年)に織田軍と一大決戦に臨むが、その猛攻の前に敗れたとされている(第1次小豆坂の戦い)。ただしこの戦いは後世の創作である可能性があり、その場合は第2次小豆坂の戦いのみが存在する事になる。 苦戦が続く中、天文10年(1541年)に北条氏綱が死去し北条氏康が家督を継ぐと、義元は氏康と敵対する山内上杉氏の上杉憲政と天文14年(1545年)と同盟を結び、北条氏を挟み撃ちにする策を立てた(第2次河東の乱)。8月22日、義元率いる今川軍は、狐橋の戦いで氏康率いる北条軍を打ち破る。窮地に立たされた氏康は武田信玄の仲介により義元と交渉し、最終的に河東の地を今川家に返還するという条件で和睦した。その後も氏康は領土的野心を持ち続け、天文20年(1551年)には再び軍を進めて興国寺城を占領したが、義元は直ぐに北条軍を撃退して黄瀬川を国境としている。 一方、三河においては西三河の松平広忠の帰順を受け、嫡男・竹千代(後の徳川家康)を人質に迎え入れる約束を交わす等、織田家に押されつつも三河勢の従属化を進めた。またこの際に護送を請け負った三河・田原城(愛知県田原市)の国人領主・戸田康光が裏切って護送中の竹千代を敵方の織田氏に送り届けてしまうという事件が起こった。これは前年に義元が戸田氏の一族である戸田宣成、戸田吉光の一族を滅ぼした為、戸田宗家の当主であった康光が反乱を起こしたものであった。これに激怒した義元は戸田宗家をも徹底して滅ぼし、その居城であった田原城に有力家臣である朝比奈氏を入れた。 天文17年(1548年)、義元の三河進出に危機感を覚えた織田信秀が三河に侵攻してくるが、義元の軍師である雪斎と譜代重臣である朝比奈泰能らを大将とした今川軍は織田軍に大勝し、織田家の勢力を事実上三河から駆逐した(第2次小豆坂の戦い)。これによって継承直後から続いた織田・北条との戦いを勝利によって終えた。 領国拡大天文18年(1549年)、松平広忠が死去すると義元は今川軍を岡崎城(愛知県岡崎市)に送り込んで、事実上松平家の所領とその支配下にあった三河の国人領主を直接支配下に取り込んだ。また、織田方の三河安祥城(愛知県安城市)を攻略し信秀の庶長子にあたる城将・織田信広を捕らえ、人質交換によって竹千代を奪還。尾張進出の足掛かりを着々と築いていく。天文20年(1551年)に織田信秀が死去すると尾張への攻勢を一段と加速させる。 最期
今今川義元の墓 明治9年(1876年)5月建立
愛知県豊明市 桶狭間古戦場伝説地内 今川義元胴塚 愛知県豊川市牛久保町 今川義元首塚 愛知県西尾市東向寺永禄3年(1560年)、三河守に遷任する。5月には2万5000の軍を率いて尾張への侵攻を開始。織田方に身動きを封じられた同国知多郡大高城(名古屋市緑区大高)を救うべく、大高周辺の織田方諸砦を松平元康などに落とさせる。幸先良く前哨戦に勝利した報せを受けて沓掛城で待機していた本隊を大高城に移動させる。ところがその途上、桶狭間(おけはざま)山で休息中に織田信長の攻撃を受け松井宗信らと共に奮戦するも、織田家家臣・毛利良勝に愛刀・左文字の太刀ともども首級を奪われた(通称「桶狭間の戦い」。『信長公記(しんちょうこうき)』の記述による)。享年42。 その後、残存した今川兵によって駿府(静岡市)まで連れ帰ろうと試みられた首の無い義元の遺体は想像以上に腐敗の進行が早く、三河国宝飯郡に埋葬された。 戒名 天澤寺秀峯哲公 天澤寺殿四品前礼部侍郎秀峯哲公大居士 墓所 愛知県豊明市の桶狭間古戦場伝説地 愛知県豊明市の高徳院。 静岡県静岡市葵区の臨済寺 東京都杉並区の観泉寺。 塚 愛知県豊川市牛久保町の大聖寺(胴塚)(一色時家の墓の隣) 愛知県西尾市駒場町の東向寺(首塚) 愛知県東海市の今川塚 愛知県清須市正覚寺の今川塚 死後織田方に討ち取られた首級は、鳴海城に留まり奮戦する義元の重臣・岡部元信と信長との開城交渉により後に返還され、駿河に戻った。義元の戦死により家督は嫡男の氏真が継いだが、この隙に乗じた松平元康(後の徳川家康)が西三河で自立。この動きに追従する様に東三河でも戸田氏や西郷氏などが離反、松平氏の傘下へ転属していく。この様な三河の動揺が隣国・遠江へも伝播すると、正・誤の判別がつかない情報が飛び交う遠江領内は敵味方の見極めさえ困難な疑心暗鬼の状態に陥ってしまう(遠州錯乱)。氏真は人心を掌握する才能に乏しく井伊直親や飯尾連竜などの粛清で事態の収拾を期したが、かえって人心の離反を加速させてしまい今川氏は見る見るうちに衰退し始めた。義元の死から8年後、信玄によって駿河を追われ、ここに戦国大名としての今川家は滅亡した。 勢力圏桶狭間合戦当時の最盛期の今川義元の領国は、駿河国、遠江国、三河国の3カ国の69万石(太閤検地)である。なお、尾張国は領国化されておらず、尾張国内に、反織田方として、山口氏、服部氏などが、今川に呼応する動きを見せている。大日本帝国参謀本部作成の日本戦史、桶狭間役の分析では、石高の低い駿河、遠江、三河が水増しされ、さらに尾張が領国に組み入れられ、100万石と推定され、1万石につき250人の兵役で、総兵力2万5千とされているが、信長公記では4万5千となっており、正確な実数は不明である。 評価一般の認知度では、桶狭間の戦いで織田信長に討たれた敗将として有名であり、合わせて一般に知られている輿に乗っていた、公家文化にかぶれていたなどの人物像から戦国大名としては暗愚と見られている。特に桶狭間の戦いに関しては、通説では圧倒的に有利な情勢から信長を軽んじ、明らかに地の利が無い田楽狭間で安穏と休憩を取ったことが致命的となったなどが挙げられる。また、輿に乗り移動していたと言う史実から、騎乗することができなかったと見られるようになり、さらにその理由は幼少時に落馬した恐怖、太っていたため、寸胴短足だったなど、後世に様々な俗説が創作されたことも評価を低くする結果となった。 実際には、戦国大名の中でも政治・軍事に卓越した手腕を見せた人物であり、特に内政面において辣腕を振るい、天文22年(1552年)には「今川仮名目録」の追加法を制定し、さらに商業保護や流通統制、寄親寄子制度による家臣団の結束強化を図るなど優れた行政改革を進めた(後にこの政策は江戸幕府を開府した徳川家康によって踏襲されている)。朝倉宗滴は、『朝倉宗滴話記』のなかで「国持、人つかひの上手。よき手本と申すべく人」として武田晴信・織織田信長・三好長慶・長尾景虎・毛利元就らと同列に評価している(『続々群書類従』。また異本の金吾利口書および宗滴夜話には、今川殿となっている)。 人物・逸話
■その他戦国武将紹介についてはトップページまたはメニューから。 ⇒戦国武将大百科トップページ |
||||
copyright2009 "〜戦国最強徹底検証!〜 戦国武将大百科"サイト内の文章の複製は禁止しています。 |