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長宗我部元親 〜土佐の国人から戦国大名に成長し、四国の覇者となる〜

 


長宗我部 元親
(ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐の戦国大名。

長宗我部氏第19代当主・長宗我部国親の長男で、第20代当主。母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。諱の「元親」は管領細川晴元の偏諱を受けたものである。側室に明智光秀の妹の娘がいる。

土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国の覇者となる。しかし織田信長の手が差し迫り、その後は信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となった。

生涯

家督相続

天文8年(1539年)、岡豊城で生まれる。永禄3年(1560年)5月、土佐郡朝倉城主の本山氏を攻めた長浜の戦いにおいて初陣する。遅い初陣であったが、元親は長浜表において本山勢を襲撃した長宗我部勢に加わり、自ら槍を持って突撃するという勇猛さを見せたといわれる。6月、父の国親が急死すると、家督を相続する。

土佐統一

元親は剽悍な一領具足を動員して勢力拡大を行う。

土佐国司で幡多郡中村城を中心に影響力を持ち中村御所と呼ばれていた公家大名一条氏と共同し、永禄5年(1562年)にも朝倉城攻めを行う。永禄6年(1563年)には美濃斎藤氏から正室を迎え、この年には長弟の親貞に吉良氏を継がせている。また、次弟の親泰は父の生前に香宗我部氏を継いでおり、土佐東部の安芸郡を支配する安芸国虎とも戦った。

永禄10年(1567年)の毛利氏の伊予出兵によって勢力を激減させた一条兼定からの自立を目論み、河野氏の武将・村上吉継に独自に戦勝祝いを送るなど独立性を強めていった。永禄11年(1568年)に宿敵の本山氏、永禄12年(1569年)には八流の戦いで安芸氏をそれぞれ滅ぼした。元亀2年(1571年)、一条氏の家臣津野氏を滅ぼして三男の親忠を養子として送り込む。天正2年(1574年)には一条兼定を追放して土佐をほぼ制圧した。天正3年(1575年)に兼定が再起を図って土佐に攻め込んできたときは、一時窮地に追い込まれたが、弟の吉良親貞の尽力のもと、四万十川の戦いでこれを撃破し、土佐を完全に統一した。

阿波・讃岐・伊予への侵攻

土佐統一後、中央で統一事業を進めていた織田信長と同盟を結び、伊予や阿波、讃岐へ侵攻していく。

阿波・讃岐方面では、畿内に大勢力を誇っていた三好氏が織田信長に敗れて衰退していたが、十河存保や三好康長ら三好氏の生き残りによる抵抗や、天正4年(1576年)の吉良親貞の早世などもあって、当初は思うように攻略が進まなかった。しかし天正5年(1577年)に三好長治が戦死するなど、三好氏の凋落が顕著になったため、阿波や讃岐に侵攻し、天正6年(1578年)には次男の親和を讃岐の有力豪族香川信景の養子として送り込み、天正8年(1580年)までに両国をほぼ制圧した。

伊予方面においては、軍代であった久武親信が天正6年(1578年)に伊予の岡本城攻めで戦死するなど、伊予の諸大名の頑強な抵抗に遭って、攻略は思うように進まなかった。

天正8年(1580年)、信長は元親の四国征服をよしとせず、土佐と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫るが、元親はこれを拒絶する。このため信長と敵対関係になり、天正9年(1581年)には信長の助力を得た三好康長・十河存保らの反攻を受け、天正10年(1582年)には神戸信孝を総大将とした四国攻撃軍が編成されるなどの危機に陥った。この元親に対する信長の政策転換が、彼との外交を担当していた明智光秀の心を苦しめた為に本能寺の変に至ったという説もある。ともあれ、信長の死で信孝軍は解体して撤退したので、元親は危機を脱した。

元親は近畿の政治空白に乗じて再び勢力拡大を図り、宿敵であった十河存保を中富川の戦いで破って、阿波と讃岐(第一次十河城の戦い)の大半を支配下に置いた。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家と手を結んで羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対抗する。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでも、織田信雄や徳川家康らと結んで秀吉に対抗し、秀吉が送り込んできた仙石秀久の軍勢を破った(引田の戦い、第二次十河城の戦い)。また東伊予の金子元宅と同盟し、南伊予の西園寺公広の諸城を落とすなど、伊予においても勢力を拡大した。

通説によると天正13年(1585年)には四国全土をほぼ統一することに成功したとされているが、統一されていないと主張する研究者も複数おり、見解は分かれている。

秀吉に降伏

天正13年(1585年)、羽柴秀吉からの伊予、讃岐の返納の命令を断ったため、秀吉の弟羽柴秀長を総大将とする10万を超える軍が派遣されると、元親は阿波白地城を本拠に阿・讃・予の海岸線沿いに防備を固める一方で、秀吉に伊予1国を割譲することで和睦を求めたが、拒絶されたため抗戦する。

秀吉は宇喜多秀家らを讃岐へ、小早川隆景・吉川元長率いる毛利勢を伊予へ、羽柴秀長・秀次の兵を阿波へと同時に派遣し、長宗我部方の城を相次いで攻略した。そして阿波戦線が崩壊して白地城までの道が裸に晒されると、元親は反戦派の家臣谷忠澄の言を容れて7月25日に降伏し、阿波・讃岐・伊予を没収されて土佐一国のみを安堵された。

豊臣政権下

天正14年(1586年)、秀吉の九州の役に嫡男の信親とともに従軍し、島津氏の圧迫に苦しむ豊後大友氏の救援に向かう。しかし、12月の戸次川の戦いで四国勢の軍監仙石秀久の独断により、島津軍の策にはまって敗走し、信親は討死した。
天正16年(1588年)、本拠地を大高坂城へ移転する。その後に起こった家督継承問題では、次男の香川親和や三男の津野親忠ではなく、四男の盛親に家督を譲ることを決定する。その際、反対派の家臣であり一門でもある比江山親興、吉良親実などを粛清し、盛親への家督相続を強行している。

天正18年(1590年)の小田原の役では長宗我部水軍を率いて参加。天正19年(1591年)1月、浦戸湾に迷い込んだ体長9尋の鯨を数十隻の船団と100人余の人夫でもって大坂城内へ丸ごと持ち込み、秀吉や大坂の町人を大いに驚かせた。年末頃には本拠を浦戸城へ移転する。

天正20年(1592年)から朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも従軍する。慶長元年(1596年)にはサン=フェリペ号事件に対処し、秀吉によるキリスト教迫害の引き金を作った。領内では検地を行い、慶長2年(1597年)3月に盛親と共に分国法である『長宗我部元親百箇条』を制定する。

最期

慶長3年(1598年)に秀吉が死去して政情が不安定になると、徳川家康と誼(よしみ)を通じ、さらに三男の津野親忠を幽閉している。

慶長4年(1599年)4月、上洛して間もなく病に倒れ、伏見屋敷で療養していたが、5月19日に伏見屋敷で死去。享年61。後を四男の盛親が継いだ。

人物・逸話

  • 幼少の頃は、長身だが色白で大人しく軟弱ともうつけ者とも評される性格から、「姫若子」と揶揄されていたという説が有る。
  • 初陣の長浜の戦いの際、家臣の秦泉寺豊後に槍の使い方と大将の行動を聞いたという逸話が有る。秦泉寺豊後は「槍は敵の目と鼻を突くようにし、大将は先に駆けず臆さずにいるもの」と答えた。そしていざ戦になると元親はその通りに行動し鬼若子と言われる程の活躍をしたとされる。なお初陣の2日前は、織田信長が今川義元を桶狭間の戦いで破った日である。
  • 土佐一国を統一する大名に成長し、土佐の出来人と呼ばれた。
  • 織田信長は元親をあまり高く評価しておらず、慣用句の「鳥無き里の蝙蝠」をもじって、「あれは鳥無き島の蝙蝠」と揶揄したと伝えられる。
  • 家来に対して、「一芸に熟達せよ。多芸を欲ばる者は巧みならず」と言っていたとされる。
  • 土佐領内で禁酒令を出していたにも関わらず、酒を城内へ運び込ませていたことがあった。これを福留儀重に厳しく諌められて、以後改心したという。
  • 土佐を統一した後、天正5年(1577年)、阿波の雲辺寺を訪れ、住職の俊崇坊に四国統一の夢を語った。住職は「薬缶の蓋で水瓶の蓋をする様なものである」と元親に説いたが、元親は「我が蓋は元親という名工が鋳た蓋である。いずれは四国全土を覆う蓋となろう」と答えた。
  • 豊臣秀吉が天下を統一した後、各地の大名を集めて舟遊びをした。その時秀吉から饅頭をもらった大名はその場で食べたが、元親は端をちぎって食べただけで紙に包んだ。それを見た秀吉から「その饅頭をどうするつもりか」と尋ねられると、「太閤殿下から頂いたありがたい饅頭ですので、持って帰り家来にも分け与えます」と答えた。秀吉は大いに気に入り、用意した饅頭を全て与えたという。
  • 山崎の戦いの後、斎藤利三の娘である福(後の春日局)を岡豊城でかくまったとされる。
  • 家臣に「四国の覇者をなぜ目指すのか」と質問されると、「家臣に十分な恩賞を与え、家族が安全に暮らしていくには土佐だけでは不十分(土佐が豊かな土地ではないためと思われる])だから」と答えたとされる。
  • 天正16年(1588年)4月に秀吉が聚楽第で宴会を開いた時、秀吉に「今から四国の覇者を望むか。それとも天下に心を賭けたるか」と質問されると、「天下に心を賭け候」と答えた。すると秀吉は、「貴殿の器量で、天下への望みはかなうまい」と返すが、「私は悪しき時代に生まれきて、天下の主になり損じて候」と返したという。
  • 後継者として期待していた信親が戦死した後、英雄としての覇気を一気に失い、家督相続では末子の盛親の後継を強行し、反対する家臣は一族だろうと皆殺しにした。
  • 朝鮮出兵の際、泗川城で垣見家純に対し鉄砲狭間の高さの指導をした。
  • 敵を兵糧攻めにした時、城付近の麦を刈ったが、全部刈り取っては領民が気の毒だと思い、半分は残してやれと命令した。領民は元親に深く感謝したという。
  • 戸次川の戦いで信親が戦死した事を知り、自分も死のうと思ったが家来に諌められている。その後、秀吉から大隅一国を加増するとの話があったがこれを固辞している。期待する嫡男を失ったこともあり、領土拡張の野望が無くなった様である
  • 『甲陽軍鑑』にも徳川家康・赤井直正らと共に「名高キ武士」として元親の名が挙がっている。
  • NHK「BS熱中夜話」で、戦国武将の回で行われた「大河ドラマで主役をやってほしい戦国武将」と題したアンケートで第1位に選ばれた。
  • 一条氏の臣従時代に寺社奉行であった関係からか、熱心に寺社復興を行っており、四国統一戦の最中にも讃岐国の寺院を復興させるなど、手厚く僧侶を保護しており、谷忠澄や非有など神官・僧侶出身の者が家臣に抜擢される例も多かった。
 
 
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