前田 利家(まえだ としいえ)は、戦国時代(室町時代後期)から安土桃山時代にかけての武将、大名。加賀藩主前田氏の祖。 幼名は犬千代。父は尾張国荒子城主の前田利昌、母は長齢院。子に初代加賀藩主前田利長、二代藩主前田利常など。 豊臣政権の五大老の一人。
略歴
尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利昌の四男として生まれ、はじめ小姓として織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として信長に従軍、槍の名手だった故「槍の又左」の異名をもって怖れられた。その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦。信長より能登23万石を拝領し大名となる。
信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付くが、後に羽柴秀吉に臣従した。豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、秀吉より加賀、越中を与えられ加賀百万石の礎を築く。慶長3年(1598年)には秀吉より豊臣政権五大老のひとり、豊臣秀頼の傳役(後見人)を任じられ、秀吉の死後、対立が顕在化する武断派、文治派の争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力するが、秀吉の死の8ヶ月後に病没した。
生涯
仕官・小姓時代
天文6年(1537年)、尾張国海東郡荒子村(現・愛知県名古屋市中川区)において、その地を支配していた土豪荒子前田家の当主である前田利昌(利春とも)の四男として生まれる。幼名は犬千代。荒子前田家は利仁流藤原氏の一族とも菅原氏の一族ともいわれるが確かなものではない。当時の領地は2,000貫だった(利家記)。生年に関しては、これまでは『松雲公御考記』などの前田家側の記録から天文7年(1538年)説が有力だったが、近年では、前田家に仕える局方が小田原の北条氏攻めに参加する利家親子の武運長久を祈った天正18年の文書のなかに「としいえさま五十四、としながさま廿九」とあること(気多神社文書)、こうした祈祷文は年齢を間違えると意味をなさなくなることから、天正18年から逆算した天文6年を生年とする説が有力となっている。
天文20年(1551年)に織田信長に小姓として仕える。若い頃の利家は、短気で喧嘩早く、派手な格好をしたかぶき者であった。翌天文21年(1552年)に尾張下四郡を支配する織田大和守家(清洲織田氏)の清洲城主・織田信友と信長の間に起こった萱津の戦いで初陣し、首級ひとつを挙げる功を立てる(村井重頼覚書)。その後、元服して前田又左衞門利家と名乗った(又四郎、孫四郎とも)[1]。 この頃、信長とは衆道(同性愛)の関係にあったことが加賀藩の資料『亜相公御夜話』に、「鶴の汁の話(信長に若い頃は愛人であったことを武功の宴会で披露され皆に羨ましがられた時の逸話)」として残されている。
馬廻り・赤母衣衆 前田利家騎馬像青年時代の利家は血気盛んで槍の又左衞門、槍の又左などの異名をもって呼ばれていた。だが、その血気が仇となり苦難の日々を送ったのも、この頃であった。
弘治2年(1556年)、信長と、その弟の織田信勝による織田家の家督争いである稲生の戦いでは、宮井勘兵衛なる小姓頭に右目下を矢で射抜かれながらも討ち取るという功績を上げる。永禄元年(1558年)、尾張上四郡を支配していた守護代岩倉城主・織田信安(岩倉織田氏)の息子、織田信賢との争いである浮野の戦いにも従軍し功積を挙げた。前述の異名で呼ばれ始めたのも、この戦いの頃からという。
また、この戦いの後、永禄初年頃に新設された赤と黒の母衣衆(信長の親衛隊的存在の直属精鋭部隊。)の赤母衣衆筆頭に抜擢され多くの与力を添えられた上に、100貫の加増を受ける。同年、従妹であるまつ(芳春院)を室に迎え、順風満帆の将来を歩もうとした矢先の永禄2年(1559年)、同朋衆の拾阿弥と諍いを起こし、拾阿弥を斬殺したまま出奔。当初、この罪での成敗は避けられなかったが、柴田勝家や森可成らの信長への取り成しにより、出仕停止処分に減罰され、浪人暮らしをする(浪人の2年間、信長は利家が他の大名に仕官するかしないか見極め、信用が出来るか試したという解釈もある)。この間、松倉城城主の坪内利定の庇護を受けるなどで、命をつないでいる。
その後、永禄3年(1560年)、出仕停止を受けていたのにも関わらず、信長に無断で桶狭間の戦いに参加して朝の合戦で首一つ、本戦で二つの計三つの首を挙げる功を立てるも、帰参は許されなかった。翌永禄4年(1561年)、森部の戦いでも無断参戦する。ここで斎藤家重臣・日比野下野守の家来で、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛なる豪傑を討ち取る功績を挙げた。この時、足立以外にも首級1つを挙げている。2つの首級を持参して信長の面前に出ると、今回は戦功が認められ、信長から300貫(一説に450貫文)の加増を受けて、ようやく帰参を許された(『信長公記』)。
利家の浪人中に父・利昌は死去し、前田家の家督は長兄・利久が継いでいたが、永禄12年(1569年)に信長から突如、兄に代わって前田家の家督を継ぐように命じられる。理由は利久に実子がなく、病弱のため「武者道少御無沙汰」の状態にあったからだという(村井重頼覚書)。
以後の利家は、信長が推進する統一事業に従い、緒戦に参加する。元亀元年(1570年)4月には浅井氏・朝倉氏との金ヶ崎の戦いでは撤退する信長の警護を担当し、6月の姉川の戦いでは浅井助七郎なる者を討ち取る功績を上げる。同年9月には石山本願寺との間に起こった春日井堤の戦いで春日井堤を退却する味方の中でひとり踏みとどまって敵を倒す功績を上げる。天正元年(1573年)9月の一乗谷城の戦い、同2年(1574年)7月の長島一向一揆、同3年(1575年)5月の長篠の戦いなどでは佐々成政、野々村正成、福富秀勝、塙直政らと共に鉄砲奉行としての参戦が確認されている。
しかし、この頃の利家は、信長の警護、連絡将校としての役割が主な母呂衆、馬廻りという役柄から、一武辺者としての武功以上の功を立てる機会が無かったであろうと考えられている。
北陸方面
天正2年(1574年)には柴田勝家の与力となり、越前一向一揆の鎮圧に従事した。この際の苛烈な一向一揆の弾圧については、小丸城から出土した瓦に刻まれた「前田又左衛門どのが捕らえた一向宗千人ばかりをはりつけ、釜茹でに処した」などの記録などによって伺うことができる(一揆から生き残り、まもなく行われた小丸城の普請に参加した人夫によるものと考えられている)。
翌年には越前一向一揆は平定されたが、この際に佐々成政、不破光治とともに府中10万石を与えられ(三人相知で、3万3千石が個別に与えられたわけではない)、「府中三人衆」と呼ばれるようになる。越前平定後は、勝家与力として成政らと共に上杉軍と戦うなど北陸地方の平定に従事するが、信長の命により摂津有岡城攻め(有岡城の戦い)、播磨三木城攻め(三木合戦)にも参加しており、信長の直参的役割は続いていたものと思われる。天正8年(1580年)には秀吉軍の鳥取攻めを援助していたという説もある。
天正9年(1581年)に能登七尾城主となり、能登23万石を領有する大名となった。翌年難攻不落ながら港湾部の町から離れた七尾城を廃城、港を臨む小山を縄張りして小丸山城を築城した。
賤ヶ岳の戦い
天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長が家臣の明智光秀により討たれた時、利家は柴田勝家に従い、上杉景勝軍の籠る越中魚津城を攻略中であり、山崎の戦いに加わることができなかった。
光秀の死亡後まもない6月27日に織田家の後継人事等を決定する清洲会議において羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家が対立すると、利家は勝家の与力であった事から(若き頃よりの親交、地理的な問題ともされるが真偽は不明)そのまま勝家に与する事になるが、かねてから旧交があった秀吉との関係にも苦しんだ。同年11月には勝家の命を受け、金森長近・不破勝光とともに山城宝積寺城(現京都府大山崎町)にあった秀吉を相手に一時的な和議の交渉を行った(ただしこれは雪に閉ざされた北陸を本拠地としていた勝家の方便である)。この際に秀吉に逆に懐柔されたといわれる。
そして天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いでは、利家は5,000ほどを率いて柴田軍として布陣したが、合戦のたけなわで突然撤退し、羽柴軍の勝利を決定づけた。利家はその後越前府中城(現福井県武生市)に籠るが、敗北して北ノ庄城へ逃れる途中の勝家が立ち寄ってこれまでの労をねぎらい、湯漬けを所望したという逸話が残る(『賤岳合戦記』)。その後府中城に使者として入った堀秀政の勧告に従って利家は降伏し、北ノ庄城に籠もった柴田勝家攻めの先鋒となった。戦後本領を安堵されるとともに佐久間盛政の旧領・加賀国のうち二郡を加増され、尾山城(のちの金沢城)に移った。
小牧・長久手の戦い 天正12年(1584年)の秀吉と徳川家康・織田信雄が衝突した小牧・長久手の戦いでは、佐々成政が徳川家康らに呼応して能登に侵攻したが、末森城で成政を撃破した(末森城の戦い)。4月9日の長久手の戦いでは秀吉方は苦い敗北を喫したが、その後も両軍の対陣が続いて戦線は膠着状態となった。この間、丹羽長秀と共に、北陸方面の守備を委ねられていた利家は北陸を動かなかった。
末森城の戦いに勝った利家は、続いて荒山・勝山砦を攻略、越中国へも攻め込んだ(奥村氏文書)。9月19日、利家は秀吉より一連の戦いの勝利を賀されている(前田育徳会文書・温故足徴)。
成政との戦いは翌年まで持ち越され、その間に利家は上杉景勝と連絡をとって越中国境に進出させたり、成政の部将となっている越中国衆菊池武勝に誘いの手を伸ばしたりしている。また、兵を派遣して越中国を攻撃した。
天正13年(1585年)、3月に秀吉は雑賀衆を鎮圧。6月には弟・羽柴秀長を大将として四国へ遣わし、これを平定した。8月、利家が越中国への先導役を果たし秀吉が10万の大軍を率いて攻め込むと佐々成政は降伏(富山の役)し、嫡子前田利長に越中国のうち砺波・射水・婦負の3郡を加増され、父子で三ヶ国を領する大大名となる。同年4月に、越前の国主である丹羽長秀が没しており、それに伴い利家は豊臣政権下における北陸道の惣職ともいうべき地位に上り、越後国の上杉氏や関東の北条氏、奥羽の諸大名とも連絡する役目に任じられた。
北陸道の惣職
九州の役では8,000の兵で畿内を守備(息子の利長が九州まで従軍)。同年7月に秀吉は関白に任官し、9月に豊臣姓を賜ると天正14年(1585年)には利家に羽柴姓を名乗らせ筑前守・左近衛権少将に任官させている(前田家譜)。天正18年(1590年)1月21日には参議に任じられる(前田家譜)。また、秀吉が主催した北野大茶会や後陽成天皇の聚楽第行幸にも陪席する。その後は奥州の南部信直や伊達政宗などに対して豊臣家への服従をもとめる交渉役となる。
北条氏制圧のための小田原の役では北国勢の総指揮として上杉景勝、真田昌幸と共に上野国に入り、北条氏の北端要所の松井田城を攻略、他の諸城も次々と攻略した。続いて武蔵国に入り、鉢形城・八王子城を陥す(上杉家文書・前田家譜)。7月5日、北条氏は降伏。陸奥国の伊達政宗もこの時すでに小田原に出向いて降参していたが、彼に対する尋問は利家たちが行ったという(伊達治家記録)。先に上洛を促していることや、秀吉への奏者を務めていることなど、利家は伊達氏との外交についても担当していた(伊達家文書)。小田原落城後、秀吉は奥羽へ軍を進める。秀吉自身は8月に帰陣の途についたが、利家らは残って奥羽の鎮圧に努めた。
文禄・慶長の役
国内を統一した後の秀吉は唐入り(高麗御陣)、すなわち朝鮮出兵を始める。
天正19年(1591年)8月、秀吉より出兵の命が出され、名護屋城の築城が始められた。翌文禄元年(1592年)3月16日に利家は諸将に先んじて京を出陣、名護屋に向かった(言経卿記)。従う兵は8,000というが、嫡子の利長は京に停められている。初め秀吉は自ら渡海する意思を持っていたが、利家は徳川家康と共にその非なるを説き、思い止まらせた。7月22日、秀吉は母・大政所危篤の報を得て、急ぎ帰阪する。葬儀を終えて、再び名護屋へ向け大坂を発ったのが10月1日(多聞院日記)。約3ヶ月間名護屋を留守にしていたが、その問、秀吉に代わって諸将を指揮し、政務を行っていたのは、家康と利家であり、のちの五大老の原型がみてとれる。慶長2年(1593年)1月、渡海の命を受けて準備し、陣立てまで定まったが、間もなく明との講和の動きが進み、結局は渡海に及ばなかった。5月15日、明使が名護屋に着くと、家康・利家の邸宅がその宿舎とされた。8月、豊臣秀頼誕生の報に、秀吉は大坂に戻る。利家も続いて東上し、11月に金沢に帰城した。
このときにまつの侍女である千代の方との間に生まれた子供が猿千代、のちの加賀藩主前田利常である。猿千代については、秀吉の隠し子という説もある。
五大老・秀頼の傅役
慶長3年(1598年)になると秀吉と共に利家も健康の衰えを見せ始めるようになる。3月15日に醍醐の花見に妻のまつと陪席すると、4月20日に嫡子利長に家督を譲り隠居、湯治のため草津に赴いた。この時、隠居料として加賀石川・河北郡、越中氷見郡、能登鹿島郡にて1万5千石を与えられている(加賀藩歴譜)。しかし、実質的には隠居は許されず、草津より戻った利家は、五大老・五奉行の制度を定めた秀吉より大老の一人に命じられる。しかも家康と並ぶ大老の上首の地位であった。そして8月18日、秀吉は、利家らに嫡子である豊臣秀頼の将来を繰り返し頼み没する。
慶長4年元旦(1599年)、諸大名は伏見に出頭し、新主秀頼に年賀の礼を行った。利家は病中ながらも傳役として無理をおし出席、秀頼を抱いて着席した。そして10日、秀吉の遺言通り、家康が伏見城に利家が秀頼に扈従し大坂城に入る。以後、秀頼の傅役として大坂城の実質的主となる(言経・利家夜話)。
最期
しかし、間もなく家康は亡き秀吉の法度を破り、伊達政宗、蜂須賀家政、福島正則と無断で婚姻政策を進めた。利家はこれに反発し、諸大名が家康・利家の両屋敷に集結する騒ぎとなった。利家には、上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家の三大老や五奉行の一人石田三成、また後に関ヶ原の戦いで家康方につく事となる武断派の細川忠興・浅野幸長・加藤清正・加藤嘉明らが味方したが、2月2日に利家を含む四大老・五奉行の9人と家康とが誓紙を交換、さらに利家が家康のもとを訪問し、家康も利家と対立することは不利と悟り向島へ退去すること等で和解した。この直後、利家の病状が悪化し、家康が病気見舞いのため利家邸を訪問した。この時、利家は抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていたというエピソードが残っている。その後大坂の自邸で程なく病死。享年61(満60歳没)。
利家の死後、家康により加賀征伐が検討される。利長は最初交戦する立場で城を増強、豊臣家へ救援を求めたがこれを拒否された事から、母の芳春院が人質になることを条件に加賀征伐は撤回された。後に上杉家が家康に反抗し、約90万石を失ったことをみれば前田家は先見の明があったと言える。しかし家康と唯一互角に渡り合える程の人望と格を持っていた利家の死去は、豊臣氏滅亡が決定的となる一因ともなった。
法名:高徳院殿桃雲浄見大居士
墓所:石川県金沢市野田町の野田山墓地、金沢市宝町の宝円寺。
肖像画は開禅寺所蔵のもののほか数点。利家着用であったと伝えられる武具も現存する。
人物 ・逸話
- 利家は傾奇者の風潮を好み、若年の頃は女物の着物や動物の毛をあしらった着物などの派手な格好に、腰には赤鞘の太刀をぶら下げ、常に途方も無い長さの朱槍を携えていたという。若い時の利家は粗暴、かつかなりの喧嘩好きで知られ、往来では利家が通ると「又左衛門の槍が来たぞ」との声が上がったという。また晩年には自身の小姓衆に「若いうちは傾いてるくらいが調度よいものだ」とも語っている。(三壺記)(利家公御夜話)
- 細身の美貌で知られた利家は、小姓時代に信長から寵愛を受け、衆道の相手も務めていた事が加賀藩の資料『亜相公御夜話』に記されている。同じく信長の小姓として有名な森成利(蘭丸)や堀秀政にも衆道を務めていたとの説が存在するものの、実際に衆道の有無を記した資料は殆ど存在しないため、この『亜相公御夜話』に記された鶴の汁のエピソードはとても珍しいものとされている。
- 容姿については、男性の平均身長が157cm程度の時代に6尺(約182cm)を誇る類稀なる恵まれた体格の持ち主で(遺された利家の着物から推定6尺とされている)、前の項で記されたように顔も端整であった事から非常に見栄えのいい武将であったと言われている。また同時代には利家の性格を「律義者」であったと評されている。
- 利家は三間半柄(約6m30cm)の長く派手な造りの槍を持ち歩き、初陣以降、緒戦で槍先による功を挙げた武辺者であったため、槍の又左の異名で称えられた。
- 元服前の小姓・前田犬千代として初陣した萱津の戦いでは、合戦の際に目立つ様、自ら朱色に塗った上記の三間半柄の槍を持って首級ひとつを挙げる功を立て、信長は「肝に毛が生えておるわ」と犬千代を賞賛した。
- 元服直後に参戦した稲生の戦いでは、合戦中に敵方の宮井勘兵衛により右目の下に矢を受け、味方が引く事を促すも、「まだ一つも首級を挙げてない」と顔に矢が刺さったまま敵陣に飛び込み、弓を射た宮井本人を討ち取る功を立て、信長が大いに喜び、「犬千代はまだかような小倅ながらもこのような功を立てたぞ」と、合戦中に味方を鼓舞したとの逸話が残る。この時利家は矢を抜く事なく戦後の首実検にも参加したという。その後の浮野の戦いでも槍先による功を挙げ、この戦いの際に槍の又左の異名がついたとも言われる。
- 織田家復帰を賭けて信長に無断で参戦した桶狭間の戦いでも朝の合戦で首級一つ、本戦でも首級二つを挙げ、またその後の森部の戦いでは「頸取り足立」なる異名を持つ豪の者を討ち取る功を立てた、と信長公記に記されている。
- 姉川の浅井攻めでは浅井助七郎なる者を討ち取るなどの活躍をみせ信長から「今にはじまらず比類なき槍」と賞賛され、大坂本願寺攻めでは、春日井堤を退却する味方の中でひとり踏みとどまって敵を倒し、無事味方を退却させた事から「日本無双の槍」「堤の上の槍」と称えられている。
- 上記で記した稲生の戦いの際の負傷で、隻眼になったとの説が存在する。
- 利家の烏帽子兜は大きいが、合戦用の小型の烏帽子兜も使用しており、石川県立歴史博物館には、行軍用兜の横に合戦用兜が展示してある。
- キリシタン大名という説があり、洗礼(名:オーギュスチン)を受けたとも言われている。(本行寺秘仏)
- 武勇に優れた利家であったが、長篠の合戦では撤退する武田軍を追撃している際に、弓削左衛門なる者に右足を深く切り込まれる重傷を負い、危うく命を獲られそうになった所を家臣の村井長頼に助けられ一命を得た事がある。
- 桶狭間の戦いの前年、普段から信長配下の武将に対して横柄な態度が多かったという信長お気に入りの茶坊主の拾阿弥が、利家佩刀の笄(こうがい(妻のまつ(芳春院)からもらったものともいわれる))を盗み、利家を激怒させた。利家は拾阿弥を成敗すると言って聞かなかったが、信長の取り成しで一時はこれが収まり大事には至らなかった。しかし、その後も拾阿弥は利家に対し度重なる侮辱を繰り返したため、利家は許可なしに信長の面前で拾阿弥を斬殺し、織田家を出奔する。この事件は世に「笄斬り」とよばれる。
- 織田政権時代は同輩、豊臣政権時代では主となる秀吉とは、清洲時代に隣同士、安土時代に向かい同士の住居であった事もあってか、秀吉が足軽時代から夫婦共に親しく、天正2年(1574年)には子供のなかった秀吉夫婦に四女の豪姫を授ける程の関係であり、秀吉と敵対関係になった賤ヶ岳以降、家臣として秀吉に下った後も二人で灸をすえ合うなど友人関係を内密で続けたという。「律義者」であったので、秀吉も秀頼の後見人を任せたと思われる。但し、利家の遺言状に豊臣家の名は無く、織田家の名前と織田家に対する忠義のみを記しているだけである。この事から利家自身は秀吉を主とは認めておらず、むしろ秀吉の後年の苛烈な所業(キリシタン弾圧や秀次事件など)と合わさって鑑みると嫌っていた可能性もある。秀頼の後見に関しても彼が織田家の血をひく者であったからこそ受けたと言え、その忠誠心はむしろ織田家に向いていたとも考えとれる(徳川家光も織田家の血をひいているので、ある意味遺言は果たしたとも言える)。
- 家康の法度破りで諸大名が家康・利家両邸に集まる騒ぎとなった際、利家を含む四大老・五奉行の九人と家康とが誓紙を交換し、一応の和解となり、両者の衝突を回避しようとする細川忠興、浅野幸長らの取り成しにより、利家が家康のもとを訪問する事となった。この時、利家は息子の利長に「秀吉は死ぬ間際まで秀頼様を頼むと言っていたのに、家康はもう勝手なことをしている、儂は家康に約束を守らせるために直談判に行く。話が決裂すれば儂はこの刀で家康を斬る。もし儂が家康に斬られたら、お前が弔い合戦をしろ」と言って伏見城に向かった。(利家公御夜話)
- 槍の又左とよばれ勇名を馳せる一方、計算高く世渡り上手な一面もあった。賤ヶ岳の戦いの際、柴田勝家を裏切りながら落ちてきた勝家を厚遇し、裏切ったという印象を薄めたり、秀頼の後見人として豊臣家を支えつつも、死の間際、利家の病床を見舞いに来た家康に息子の利長の事を頼んだとの話が残ったりもしている(一方で、利家が布団の下に抜き身の刀を忍ばせていたというエピソードが残っていたり、上記の話が江戸時代に幕府に提出するために作られた二次史料で、外様の大大名であった前田家が徳川家に媚びるため創作された記述とも言われ真偽は不明である)。
- 坂本城の天守閣に夜な夜な幽霊が出るという噂が立ったとき、自ら肝試しを志願して一晩過ごし、何事も無かったように天守閣から戻ってきた為、秀吉から豪胆ぶりを讃えられたと言われている。また、この時に天下五剣の一つ大典太を下賜されたと言われている。
- 利家は秀吉の禁教令により、播磨国の明石領(高槻城)を失ったキリシタン大名の高山右近を庇護し、築城術や科学の知識豊かな右近を高く評価し、屋敷や3万石の禄を与えたりなどをしている。北条攻め、文禄・慶長の役の後には嫡子利長が金沢城の整備などを命じるなど、彼をブレーンとして重用し、親しい関係が続いた。
- 後年には漢籍などの学問も学び、茶の湯、能などの文化的活動も積極的に行った。茶道は千利休、織田有楽に学び、茶入は秀吉から譲られた名品で天下三茄子の一つに数えられる「富士茄子」であった。利家はこの中でも特に能を好み、気晴らしや社交術として三日に一度は稽古をする程の熱の入れようであったという。
- 前田家の決済はすべて利家自身で行ったため、愛用の算盤が前田家家宝として残っている(算盤は当時に日本に伝わったばかりであり、それを使えるというだけで稀有な事であった)。利家は笄斬りによる2年間の浪人生活で金の大切さを身をもって知り、後年には「金があれば他人も世の聞こえも恐ろしくはないが、貧窮すると世間は恐ろしいものだ」とつねづね口にしていた。利家のこのような性格から前田家の財政は健全であり続けることができた。
- 時には芳春院(まつ)に「吝嗇」と揶揄された事もある利家ではあるが、北条家滅亡後に家来を養えず困っている多くの大名に金を貸しており、遺言においては「こちらから借金の催促はしてやるな、返せない奴の借金はなかった事にしてやれ」と利長に命じている事実が存在する。また死の際には、「御家騒動はいつも先代の不始末が原因だ、自分の死後、奉行らにあらぬ疑いをかけられては気の毒だ」と言ってありとあらゆる書類に対し花押を押してから没した。
- 豊臣政権では諸大名の連絡役などを務めたこともあり、多くの者達に慕われたという。秀吉側近の大野治長は「御位も国数も大納言様(利家)は下なれども、お城にて人々用ひ(人々の尊信)は、五雙倍にも大納言様つよく候。これは第一御武辺者なり。さてまた太閤様(秀吉)御前よき故にても候由、お城にても道中にても、内府(家康)より人々あがまへ、我らまでも心いさみ申す」と語っている(利家は家康より官位も領国石高も下だが、彼は武勲の者であり秀吉に信頼されているため、人望は利家のほうがはるかに大きい、という意)。なかでも傍輩衆の、蒲生氏郷、宇喜多秀家、浅野長政、毛利秀頼らから慕われたようである。利家はその信頼から晩年の秀吉に意見できる、数少ない人物であった。
- 上記の者のみに留まらず、加藤清正、福島正則らを代表する武断派と呼ばれる者達からも尊われていた利家は、秀吉死後の石田三成や小西行長らの文治派と武断派との争いの仲裁役として働いた。なかでも清正は若き頃より武勇に優れていた利家を尊敬していたと言われ、事実、利家存命中は姻戚問題で利家邸、家康邸に各大名が集結する騒ぎとなった際も、姻戚問題を起こした当人にも関わらず利家邸に出席している。また利家が没すると、その直後に清正を含む武断派七将が、石田三成を襲撃する騒ぎが起こっている。
- 清正は利家からあまり兵法や軍略の話を聞かないと言った嫡子利長に対し、「あれ程武略に通じた父上がおられるのに勿体ない」と言って羨ましがったという。利家は生涯38の戦に参戦し、その戦い方は織田信長の下で得たものであった。普段から合戦については「合戦の際は、必ず敵の領内に踏み込んで戦うべきだ、わずかでも自分の領国へ踏み込まれてはならない。信長公がそうであった」と説いていた。またある時、女婿の宇喜多秀家が利家の戦法を質したところ、「先手にいくさ上手な者を一団、二団と配備し、大将は本陣にこだわらず馬を乗り回し、先手に奮戦させて思いのままに兵を動かす」という信長流の戦い方を語ったという。
義理の甥である前田利益(慶次郎)とはソリが合わなかったとされ、慶次郎出奔の際に水風呂に入れられたとの逸話が有名だが、この逸話は後年の創作である可能性が高い。隆慶一郎の小説『一夢庵風流記』、およびそれを原作とする原哲夫の漫画『花の慶次
―雲のかなたに―』では、利家と慶次郎(慶次)の確執が滑稽かつ人情的に表現されている。なお、この漫画では利家と慶次を老人と青年として描写されているが、実際には年齢差はほとんどない(利家が2歳年上、または利益が6歳年上との資料が有力である)。また、利家自身が傾奇者であったと事や、傾きの風潮を好んでいたという史実も無視されて、むしろ傾奇者に無理解な頑固者という風に描写されている(漫画で秀吉の回想シーンに登場する若き頃の利家は、慶次の様な無鉄砲な傾奇者であり、現在のただの気の弱い老人と化した利家を見つめながら、その落差に頬を緩める描写がある)。
- 後年、捨阿弥を惨殺した罪で出仕停止処分を受け浪人暮らしをしていたときの事を語る際は、必ず「落ちぶれているときは平素親しくしていた者も声をかけてくれない。だからこそ、そのような時に声をかけてくれる者こそ真の友人(信用できる人物)だ」と言っている。この時、利家が語る真の友人とは柴田勝家、森可成である。
- 危篤の際には自ら経帷子を縫い、利家に着せようとするまつ(芳春院)が「あなたは若い頃より度々の戦に出、多くの人を殺めてきました。後生が恐ろしいものです。どうぞこの経帷子をお召しになってください」と言うと利家は、「わしはこれまで幾多の戦に出て、敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことは無い。だから地獄に落ちるはずが無い。もし地獄へ参ったら先に行った者どもと、閻魔・牛頭馬頭どもを相手にひと戦してくれよう。その経帷子はお前が後から被って来い」と言って着るのを拒んだという。(古心堂叢書利家公夜話首書)
- 加賀にはこのような歌が遺されている。
「天下 葵よ 加賀様 梅よ 梅は葵の たかに咲く」
「三葉葵紋の徳川家よ 剣梅鉢紋の前田家よ
梅の花は葵より高い所に咲く」という意味である。家康と利家は秀吉の時代、五大老の一番の上座に肩を並べて座っていたが秀吉が死ぬと徳川家が天下をおさめる大将軍となった。前田家は大々名であるとはいえ、徳川家の家来にならなければならなかった。その時の運に対し、加賀の人々はその口惜しさを歌ったと伝えられている。
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