戦国最強は誰だ!?徹底検証!   
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上杉景勝 〜豊臣秀吉に仕え、会津若松120万石の領主で五大老の一人〜

 

上杉 景勝(うえすぎ かげかつ(長尾 顕景(ながお あきかげ)または長尾 景勝(ながお かげかつ))は戦国時代から江戸時代にかけての武将・大名。豊臣政権の五大老の一人。出羽米沢藩初代藩主。長尾上杉家(米沢上杉家)二代で、上杉宗家(重房を初代として)17代目。

本姓は平氏後に藤原氏、豊臣氏を経て藤原氏となる。家系は桓武平氏の血をひく長尾氏の生まれで、叔父・上杉謙信の養子となり上杉氏となる。

生涯

出生から家督争いまで

弘治元年(1555年)、越後国魚沼郡上田庄(現・新潟県南魚沼市)の坂戸城下に上田長尾家当主・長尾政景の次男として生まれる。生母は上杉輝虎(上杉謙信)の実姉・仙桃院。彼は輝虎の甥に当たる。長兄が早世したので世子となるが、永禄7年(1564年)の父・政景の溺死を受け、春日山城に入って叔父・上杉謙信の養子となった。

永禄9年(1566年)、謙信の関東出兵が初陣であると言われている。景勝は、上田衆を率いて越中の将椎名康胤の取成や謙信旗本の吉江資堅の軍役を定めるなど、謙信政権下で重要な役割を担っていく。

天正3年(1575年)、名を長尾顕景から上杉景勝(一説では長尾景勝)に改めると共に、謙信から弾正少弼の位を譲られた。同年の『上杉家軍役帳』によると総勢375人の軍役を負担し、謙信への尊称であった「御実城様」と似た呼び名である「御中城様」として上杉一門衆筆頭に記載される。

天正4年(1576年)、謙信の能登平定ののちに、相模の北条氏から人質として送られてきて謙信の養子となった義兄(義弟とも)・上杉景虎とともに能登の支配を任せられた。

天正6年(1578年)3月13日、謙信が死去すると、上杉景虎との相続争いが勃発する(御館の乱)。これは謙信が後継者を指名しないで急死してしまったことや、越後の長尾諸家を中心とした、何代にも渡る権力争いなどの複雑な事情が背後に絡んでいると言われる。3月24日、いち早く春日山城本丸と金蔵を占拠した景勝側が有利となり、春日山城下の御館(上杉憲政の屋敷)に立て籠もった景虎と戦ったが、甲相同盟に基づき調停のため越後国へ出兵した甲斐国の武田勝頼により形成が逆転、一転して景勝は窮地に陥った。

しかし、東上野の割譲と多量の黄金譲渡を条件として武田氏と和睦し、これによって武田家の後ろ盾を得たことにより、景勝は戦局を覆した。またこのときに勝頼の異母妹菊姫と婚約し、翌年9月には正室として迎えることで甲越同盟を結び、武田家との関係を強化した(上杉家当主が武田家から正室を迎えたのは上杉禅秀以来)。

天正7年(1579年)、景虎正室である実姉(妹とも)・清円院は景勝からの降伏勧告を容れずに自害(没日の記録より、景虎とともに鮫ヶ尾城で自害したとの説もある)。同年3月、和議を申し出ようとした養祖父の憲政が景虎の嫡男道満丸とともに何者かによって討たれる(これには景勝の命令、景勝側の部下の裏切り、景虎側の部下の裏切り等様々な諸説があり断定はされていない。また、道満丸には信濃国の豪族市川氏に庇護され、生存していたという説がある)など徐々に立場を悪くした景虎は自害する。翌天正8年(1580年)には越後の豪族も追従し、景勝は名実ともに上杉家の当主となった。

織田家との戦い

御館の乱の混乱が続く天正9年(1581年)、乱の恩賞問題により対立状態にあった北越後の新発田重家が織田信長と通じて造反した上、柴田勝家率いる織田軍に越中にまで侵攻される。翌年には武田氏の滅亡によって、その後ろ盾を失うなど、上杉家は滅亡の危機に立たされた。

天正10年(1582年)、織田軍は越中を完全に制圧(魚津城の戦い)して上杉氏は窮地に立たされるが、6月2日、信長が本能寺にて自害(本能寺の変)したために織田軍の北征は頓挫し、上杉家は九死に一生を得た。しかし、織田氏の侵攻に加えて御館の乱が長期化したため、領内に対する統治力が低下したことから、謙信が一代で拡大した上杉氏の国力は著しく衰退した。

豊臣政権時代

信長の死後は北信濃に侵攻して北条氏直と争うが、北信濃4郡の割譲を条件に北条氏と講和した(天正壬午の乱)。その後、信長の天下統一事業を継いだ羽柴秀吉(豊臣秀吉)と好を通じ、天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは秀吉より、越中侵攻を命ぜられた。しかし、柴田方に組した佐々成政と睨み合いになり、本国から動けず合戦には参加できなかった。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦い、天正13年(1585年)、富山の役でも秀吉に味方し、佐々成政を牽制した。また同年、信濃国の真田昌幸を一時的に従属下に置いた。

天正14年(1586年)6月、上洛し、秀吉と会見し、秀吉に養子であった畠山義真(当時は上杉姓)を人質として差し出し、臣従して命脈を保った。その際に、越中と上野(真田氏の大名としての独立)の領有を放棄、換わりに佐渡・出羽の切り取りを許可される。このとき、景勝は正親町天皇に拝謁して右近衛少将に任じられた。

天正15年(1587年)、秀吉の後ろ盾と協力を得た景勝は、長年にわたり抗争状態にあった新発田重家を討ち(新発田重家の乱)、再び越後統一を果たした。天正16年(1588年)には上洛し、従三位・参議に昇叙された。この時、豊臣姓と羽柴の名字を与えられている。天正17年(1589年)には佐渡国の本間氏を討伐し、佐渡国を平定した。これにより、越後・佐渡二国に出羽庄内三郡・信濃川中島四郡、併せて約90万石の支配領域が確定した。

天正18年(1590年)、後北条氏との小田原合戦にも、山浦景国を先鋒として出兵し、前田利家や真田昌幸らとともに、上野・武蔵の北条方諸城を攻略した。

文禄元年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵が始まると、5,000人を率いて肥前名護屋に駐屯し、翌文禄2年(1593年)の6月6日から9月8日まで、秀吉の名代として家臣の高梨頼親らを伴って渡鮮する。このとき朝鮮における日本軍最前線基地として熊川に城(倭城)を築城している。 文禄3年(1594年)には権中納言となり、「越後中納言」と呼ばれた。

文禄4年(1595年)1月、秀吉より、越後・佐渡の金銀山の支配を任せられた。同年豊臣家五大老の一人小早川隆景が家督を小早川秀秋に譲り隠居したため、空いた五大老に景勝が任命された。

慶長3年(1598年)、秀吉の命により会津120万石に加増移封され、以後は「会津中納言」と呼ばれた。一説によると当初、秀吉は家康ではなく景勝を関東管領の位置付けとして、関東に移封するつもりであったともいわれる。[要出典]旧領地から引き続き統治が認められたのは、佐渡一国及び越後のごく一部(東蒲原)と本庄繁長が最上義光と激しい争奪戦をして奪った出羽庄内地方のみで、後は戦国時代伊達氏の領地だった出羽置賜地方、陸奥伊達郡、信夫郡、刈田郡と伊達政宗が征服した会津地方であった。また、各地は山地で隔絶され、現在でも交通の難所と呼ばれる峠道で結ばれているだけであった。常に北側に境を接する最上義光、伊達政宗と衝突の危険性が有り、改易された蒲生氏に代わり東北諸大名の監視と牽制のための配置であった。

景勝は要となる米沢城に家老の直江兼続を配置、対伊達氏最前線の白石城の甘糟景継、福島城の本庄繁長、梁川城の須田長義、東禅寺城の志駄義秀を指揮させた。

会津征伐

慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、家老の直江兼続が五奉行の石田三成と懇意にあった事などの経緯から徳川家康と対立する。同年9月、秀吉の葬儀のため、上洛。慶長5年(1600年)2月になると、景勝は夏までに領内諸城の補修を命ずる。3月になると鶴ヶ城が将来手狭になると考え、会津盆地のほぼ中央に位置する神指に新城(神指城)の建築を命ずる。

4月、家康から上洛して領内諸城改修の申し開きをするように召還命令が出るがこれを拒否する。この召還命令は景勝を排除するための策だと見られている。この際、兼続による挑発的な返答が、家康の会津征伐を煽ったとされる(直江状)。ともあれ、家康は大軍を率いて景勝討伐に出陣する。景勝は神指城の突貫工事を命ずるが、6月になると普請を中断して家康軍の対応にあたる。7月、討伐に向かった家康の留守中に三成らが挙兵(関ヶ原の戦い)し、家康が西上するとなると会津から出兵。東軍に与した伊達政宗や最上義光らと戦った(慶長出羽合戦)。しかし、9月15日の本戦で三成ら西軍が敗れたため、12月に家康に降伏することを余儀なくされた。

慶長6年(1601年)2月上旬、家康は結城秀康のとりなしで豊光寺の西笑承兌を介して兼続に音信させ、景勝の上洛陳謝を促した。景勝が兼続と共に上洛、家康に謝罪した上で上杉氏の存続は正式に許された。なお、文禄4年(1595年)、景勝夫人菊姫、兼続夫人お船の方は証人として伏見邸に入っていたが、両夫人は引き続き徳川の証人として、伏見邸に留め置かれた(『米沢市史・近世編1』より)。しかし改易は免れたものの、置賜、信夫、伊達の3郡からなる出羽米沢(30万石[8])藩主として減移封され、上杉家は景勝一代において北信越の大大名から出羽半国の一大名へと没落した。

江戸時代

減封後は米沢藩の藩政確立に尽力した。

慶長19年(1614年)の松平忠輝の居城高田城築城の際、伊達政宗の指揮の下天下普請を行なった。同年、大坂冬の陣では徳川方について先鋒として鴫野の戦いなどで大功を挙げる。翌慶長20年(1615年)2月、下国し、同年4月、大坂夏の陣では京都警備を担当し、八幡山に布陣した。

元和7年(1621年)、出羽山形藩藩主最上義俊(仇敵最上義光の孫)の改易に際して、その居城である山形城の受け取りを務めた。

元和9年(1623年)3月20日、米沢城で死去。享年69。後は嫡男の上杉定勝が継いだ。石高の変遷はあったが、その後米沢藩上杉家は幕末まで続いた。

墓所:遺骨は和歌山県高野町の高野山清浄心院、遺灰と衣冠は山形県米沢市の御廟の上杉家御廟所に、それぞれ納められている。

人物 ・逸話

  • 感情を表に出すことがほとんどなかったといわれる景勝は、ある時、飼っていた猿が景勝の座に座って、もっともらしくうなずいたり、部下に指図したりといった自分の物まねをしていたのを目にし、そのあまりの可笑しさに思わず笑みをこぼしたが、これが彼が生涯でただ一度家臣たちの目前で見せた笑顔であったという。
  • 景勝の影響により、上杉の軍兵は戦場でも無駄口一つ聞かず静まりかえっていたという。大坂冬の陣の際、家康の使者が景勝の陣を訪れたが、景勝をはじめ誰一人として口を利かず、ただ大坂城を睨み付けていた。報告を受けた家康は「それこそ不識庵(謙信)以来の軍法よ」と賞賛したという。
  • 大坂冬の陣の際、彼の近習の一部が黙って合戦の見物に出かけ、竹束に隠れて見ていたとき、そこに景勝がやってきた。これに気づいた近習たちは、竹束の外に出て草むらに行き、景勝に見つからないようにしたという。景勝は家来に恐れられていたことがわかる逸話である。
  • かなりの愛刀家であったとされる。卓越した鑑定眼を持ち、特に気に入ったものから選抜した「上杉景勝御手選三十五腰」と呼ばれる目録にまとめており、収集物には国宝や重要文化財が多数含まれている。
  • ある時、豊臣秀吉が京都・伏見城(もしくは大坂城)に各大名を招き宴が開かれたが、この宴の会場に前田慶次郎が紛れ込んでいた。宴もたけなわになった頃、慶次郎は末席から猿面をつけ手拭いで頬被りをし、扇を振りながら身振り手振り面白おかしく踊り出し、ついには列席している大名達の膝の上に座っては猿真似をやるという暴挙にまで至ったが、大名達は宴の余興ゆえに咎める者も怒り出す者もいなかった。しかし、上杉景勝の前に来ると慶次郎は膝に乗ることを避けた。その理由について尋ねられた慶次郎は、「景勝の前に出ると威風凛然としていてどうしても座ることが出来なかった」と語ったという。また「天下広しといえども、真に我が主と頼むは会津の景勝殿をおいて外にあるまい」と慶次郎が後に語ったということから、義を貫く人物は景勝をおいて他にはいないと見込んでの、慶次郎なりの敬意を示した行動だったともいわれている。
  • 叔父であり義父である上杉謙信との仲については諸説あり、尊敬、思慕の対象であったという見かたから、実は険悪であったという説まで様々である。これは謙信が後継体制を築く前に急死したことが影響しているともいわれる。また父の政景が謙信と対立していたことから謙信による政景暗殺説が存在するが、これらの影響か景勝による謙信暗殺説も存在する。しかしその一方、景勝は晩年病床に臥したとき、宗心という法名を名乗っている。これは謙信がかつて名乗ったことのある法名である。
  • 『奥羽永慶軍記』には、景勝は身辺に女を一切近づけないほど極端な女嫌いで、当然ながら正室の菊姫と非常に不仲であると共に、衆道を甚だしく好み、身辺にはもっぱら美貌の少年達のみを侍らせていたという話がある。しかし、この話には側室の四辻氏の出自を大谷刑部の家臣の娘であった遊女とし、直江兼続が世継ぎを生ませる為、この女を男装させて景勝に引き合わせて定勝を生ませたが、このことを知って激しく嫉妬した正室・菊姫の怒りを鎮めるためにこの女は自ら自害したとし、それを知って恨みを抱いた定勝が兼続を自らの手で殺害するという明らかに史実と異なる記述や考証がされており、信憑性には問題がある。景勝は慶長17年(1612年)8月に衆道禁止令を発布しており(「三重年表」)、これを根拠として男色家ではないとする説もある。
  • 米沢への減移封の際、景勝は所領を大幅に減らされたにも関わらず、家臣の召し放ちを行わなかった。この事が後世の米沢藩の財政難の原因になっている。
  • 京都府京都市伏見区にある景勝町の地名の由来は、かつてこの地に景勝の伏見の下屋敷があったことに基づく。
  • キリスト教に寛容であり、幕府が禁教令を出し、領内での取り締まりを命じられても「当領内には一人のキリシタンも御座無く候」と答えて、領内のキリシタンを護ったと『日本切支丹宗門史』に記載されている(記事の原文は、1629年7月、会津若松の宣教師からイエズス会総長に送られた報告書である)。当時のイエズス会宣教師ペドロ=モレホンは景勝を評して「異教徒中の異教徒(大いなる異教徒)」と述べており、景勝自身がキリシタンに好意を有していた訳ではないといわれているが、長年苦楽を共にしてきた有能な家臣たちを失いたくなかったためと伝えられている。実際、元和6年(1620年)の仙台藩を皮切りに東北諸藩がキリシタンへの弾圧を開始するなか、米沢藩では景勝が元和9年(1623年)3月に没するまでの間、幕府の禁教令を受ける形でキリシタン禁制の高札を領内に立てこそしたが、実際にキリシタンへの取り締まりや弾圧を行った記録などは残されていない。
  • 『名将言行録』によると会津征伐のとき、徳川家康への追撃を主張する兼続に対して、景勝は「太閤が他界する前、御前で生涯逆心しない旨の起請文を書き、その誓紙を太閤の棺に納めることは天下ことごとく知っている。この度のことは家康から仕掛けてきたので合戦の備えをしたが、家康が江戸に引き返した以上、こちらも会津へ引き返すのが道理と言うものだ。いま家康を追撃すれば先々申してきたことは全て偽りになり、天下最大の悪人として信用を失う」と述べたという。
  • 景勝が弾正少弼を謙信から譲り受けた際の2通の書状が、景勝自身の筆跡と同じであるとし、景勝が自己を正当化する為、偽作したとの説(「新潟県史」「上越市史 通史編2 中世」)がある。しかし、上杉景虎が蘆名盛氏にあてた書状には「先日申入れ候如く、少弼曲なきからいゆえ」と景勝を少弼と呼んでいる処をみると、景勝官途は上杉家中において、公の事実と見て間違いないであろう。
 
 
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