戦国最強は誰だ!?徹底検証!   
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実力派大名
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上杉謙信 〜多くの人々に軍神といわれる軍略の天才〜

 

上杉 謙信(うえすぎ けんしん)/上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の武将・大名。後世、越後の虎とも越後の龍とも呼ばれた

内乱続きであった越後国を武力で統一し、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、多大な戦果をあげた。武田信玄、北条氏康等の敵対勢力と同時に対抗しながら、その軍事的手腕を発揮して敵の侵略を阻止。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大した。

概要

上杉重房を初代として16代の世系にあたる。 上杉氏の下で越後国の守護代を務めた長尾氏出身で、初名は長尾景虎(ながお かげとら)。兄である晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。主君・上杉定実から見て「正妻の甥」且つ「娘婿の弟」にあたる。

のちに関東管領上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて上杉氏が世襲する室町幕府の重職関東管領に任命される。後に将軍足利義輝より偏諱(へんき)を受けて最終的には上杉輝虎と名乗った。49年の生涯の中で武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に五回に及んだとされる武田信玄との川中島の合戦は、後世たびたび物語として描かれており、よく知られている。

自ら毘沙門天の転生であると信じていたとされる。また、女性であったとする俗説もあるが、後年の創作である。

生涯

出生

春日山城享禄3年(1530年)1月21日、越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男(または三男とも)・虎千代として春日山城に生まれる。母は同じく越後栖吉城主・長尾房景(古志長尾家)の娘・虎御前。

当時の越後国は内乱が激しく、下剋上の時代にあって父・為景は戦を繰り返していた。越後守護・上杉房能を自害に追い込み、次いで関東管領・上杉顕定を長森原の戦いで討ち取った。次の守護・上杉定実を傀儡化して勢威を振るったものの、越後国を平定するには至らなかった。虎千代誕生直後の享禄3年(1530年)10月には上条城主・上杉定憲が旧上杉家勢力を糾合し、為景に反旗を翻す。この兵乱に阿賀野川以北に割拠する揚北衆らだけでなく、同族の長尾一族である上田長尾家当主・長尾房長までもが呼応した。越後長尾家は、蒲原郡三条を所領し府内に居住した三条(府内)長尾家、古志郡を根拠地とする古志長尾家、魚沼郡上田庄を地盤とする上田長尾家の三家に分かれて守護代の地位を争っていた。しかしやがて三条長尾家が守護代職を独占するようになる。上田長尾房長はそれに不満を抱いて、定憲の兵乱に味方したのであった。為景は三分一原の戦いで勝利するも、上田長尾家との抗争は以後も続き、次代の上田長尾家当主・長尾政景の謀反や御館の乱へと発展する。


林泉寺天文5年(1536年)8月、為景は隠居し虎千代の兄・晴景が家督を継いだ。虎千代は城下の林泉寺に入門して住職の天室光育の教えを受けたとされる。実父と仲が良くなかったため、為景から避けられる形で寺に入れられたとされている。天文11年(1542年)12月、為景は病没したが、敵対勢力が春日山城に迫ったため、虎千代達は甲冑を着けて葬儀に臨むほどであった。兄・晴景に越後国をまとめる才覚はなく、守護・上杉定実が復権し、上田長尾家、上杉定憲、揚北衆らの守護派が主流派となって国政を牛耳る勢いであった。虎千代は天文12年(1543年)8月15日に元服して長尾景虎と名乗り、9月には晴景の命を受け、古志郡司として春日山城を出立して三条城、次いで栃尾城に入る。その目的は中郡(なかごおり)の反守護代勢力を討平した上で長尾家領を統治し、さらに下郡(しもごおり)の揚北衆を制圧することであった。

当時、越後では守護・上杉定実が伊達稙宗の子・時宗丸(伊達実元)を婿養子に迎える件で内乱が起こっており、越後の国人衆も養子縁組に賛成派と反対派に二分されていたが、兄の晴景は病弱なこともあって内紛を治めることはできなかった。景虎が元服した翌年の天文13年(1544年)春、晴景を侮って越後の豪族が謀反を起こした。15歳の景虎を若輩と軽んじた近辺の豪族は栃尾城に攻めよせた。しかし景虎は少数の城兵を二手に分け、一隊に傘松に陣を張る敵本陣の背後を急襲させた。混乱する敵軍に対し、さらに城内から本隊を突撃させることで壊滅させることに成功。謀反を鎮圧することで初陣を飾った(栃尾城の戦い)。

家督相続・越後統一

上杉神社内にある上杉謙信像天文14年(1545年)10月、守護上杉家の老臣で黒滝城主の黒田秀忠が長尾氏に対して謀反を起こした。秀忠は守護代・晴景の居城である春日山城にまで攻め込み、景虎の兄・長尾景康らを殺害、その後黒滝城に立て籠もった。景虎は、兄に代わって上杉定実から討伐を命じられ、総大将として攻撃を指揮し、秀忠を降伏させた(黒滝城の戦い)。しかし翌年の天文15年(1546年)2月、秀忠が再び兵を挙げるに及び再び攻め寄せて猛攻を加え、二度は許さず黒田氏を滅ぼした。するとかねてから晴景に不満をもっていた越後の国人の一部は景虎を擁立し晴景に退陣を迫るようになり、晴景と景虎との関係は険悪なものとなった。

天文17年(1548年)になると晴景に代わって景虎を守護代に擁立しようとの動きが盛んになる。その中心的役割を担ったのは揚北衆の鳥坂城主・中条藤資と、北信濃の豪族で景虎の叔父でもある中野城主・高梨政頼であった。さらに栃尾城にあって景虎を補佐する本庄実乃、景虎の母・虎御前の実家である栖吉城主・長尾景信(古志長尾家)、与板城主・直江実綱、三条城主・山吉行盛らが協調し、景虎派を形成した。これに対し、坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)や蒲原郡奥山荘の黒川城主・黒川清実らは晴景についた。しかし同年12月30日、守護・上杉定実の調停のもと、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退する。景虎は春日山城に入り、19歳で家督を相続し、守護代となる。

2年後の天文19年(1550年)には、定実が後継者を遺さずに死去したため、将軍・足利義輝は景虎の越後国主の地位を認めた。同年12月、一族の坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)が景虎の家督相続に不満を持って反乱を起こした。不満の原因は景虎が越後国主となったことで、晴景を推していた政景の立場が苦しくなったこと。そして長年に渡り上田長尾家と対立関係にあった古志長尾家が、景虎を支持してきたために発言力が増してきたことであった。しかし景虎は翌年天文20年(1551年)1月、政景方の発智長芳(ほっち ながよし)の居城・板木城を攻撃し、これに勝利。さらに同年8月、坂戸城を包囲することで、これを鎮圧した(坂戸城の戦い)。

降伏した政景は景虎の姉・仙桃院の夫であったこと等から助命され、以降は景虎の重臣として重きをなす。一方で上田長尾家と古志長尾家の敵対関係は根深く残り、後の御館の乱において、上田長尾家は政景の実子である上杉景勝に、古志長尾家は上杉景虎に加担。その結果、敗れた古志長尾家は滅亡するに至った。しかし政景の反乱を鎮圧したことで越後国の内乱は一応収まり、景虎は22歳の若さで越後統一を成し遂げたのである。

第一次〜第三次川中島の戦い


川中島一帯天文21年(1552年)1月、関東管領・上杉憲政は相模国の北条氏康に領国の上野国を攻められ、居城の平井城を棄て、景虎を頼り越後国へ逃亡してきた。景虎は憲政を迎え、御館に住まわせる。これにより氏康と敵対関係となった。8月、景虎は平子孫三郎、本庄繁長等を関東に派兵し、上野沼田城を攻める北条軍を撃退、さらに平井城・平井金山城の奪還に成功する。北条軍を率いる北条幻庵長綱は上野国から撤退、武蔵松山城へ逃れた。なおこの年の4月23日、従五位下弾正少弼に叙任される[3]。

同年、武田晴信(後の武田信玄)の信濃侵攻によって、領国を追われた信濃守護・小笠原長時が景虎に救いを求めてくる。さらに翌・天文22年(1553年)4月、信濃国埴科郡葛尾城主の村上義清が晴信との抗争に敗れて葛尾城を脱出し、景虎に援軍を要請した。義清は景虎に援軍を与えられ村上領を武田軍から奪還するため出陣、同月に武田軍を八幡の戦いで破ると武田軍を村上領から駆逐し、葛尾城も奪還する。しかし一端兵を引いた晴信軍だったが、7月に再度晴信自ら大軍を率いて村上領へ侵攻すると、義清は再び越後国へ逃亡。ここに及んで景虎は晴信討伐を決意し、ついに8月、自ら軍を率いて信濃国に出陣。30日、布施の戦いで晴信軍の先鋒を圧倒、これを撃破する。9月1日には八幡でも武田軍を破り、さらに武田領内へ深く侵攻し荒砥城・青柳城・虚空蔵山城等、武田方の諸城を攻め落とした。これに対し晴信は本陣を塩田城に置き決戦を避けたため、上洛の予定があった景虎は深追いをせず、9月に越後へ引き上げた(第一次川中島の戦い)。

天文22年(1553年)9月、初めての上洛を果たし、後奈良天皇および室町幕府第13代将軍・足利義輝に拝謁している。京で参内して後奈良天皇に拝謁した折、御剣と天盃を下賜され、敵を討伐せよとの勅命を受けた。この上洛時に堺を遊覧し、高野山を詣で、京へ戻って前大徳寺住持の徹岫宗九(てつしゅうそうく)のもとに参禅して「宗心」の法名を授けられた。

天文23年(1554年)、家臣の北条高広(きたじょう たかひろ)が武田と通じて謀反を起こしたが、天文24年(1555年)には自らが出陣して高広の居城・北条城を包囲し、これを鎮圧した(北条城の戦い)。高広は帰参を許される。この間、晴信は善光寺別当栗田鶴寿を味方につけ旭山城を支配下に置いた。これに対抗するため景虎は同年4月に再び信濃国へ出兵し、晴信と川中島の犀川を挟んで対峙した(第二次川中島の戦い)。また、裾花川を挟んで旭山城と相対する葛山城を築いて付城とし、旭山城の武田軍を牽制させた。景虎は、犀川の渡河を試みるなど攻勢をかけたものの、小競り合いに終始して決着はつかず。対陣5ヶ月に及び最終的に晴信が景虎に、駿河国の今川義元の仲介のもとで和睦を願い出る。武田方の旭山城を破却し武田が奪った川中島の所領をもとの領主に返すという、景虎側に有利な条件であったため、景虎は和睦を受け入れ軍を引き上げた。

ところが弘治2年(1556年)6月、家臣同士の領土争いの調停で心身が疲れ果てたためか、突然出家することを宣言し、高野山(一説に比叡山)に向かう。しかしその間、晴信に内通した家臣・大熊朝秀が反旗を翻す。天室光育、長尾政景らの説得で出家を断念した景虎は越後国へ帰国。一端越中へ退き再び越後へ侵入しようとした朝秀を打ち破る(駒帰の戦い)。

弘治3年(1557年)2月、晴信は盟約を反故にして長尾方の葛山城を攻略、さらに信越国境付近まで進軍し、景虎方の信濃豪族・高梨政頼の居城・飯山城を攻撃した。景虎は政頼から救援要請を受けるも、信越国境が積雪で閉ざされていたため出兵が遅れる。雪解けの4月、晴信の盟約違反に激怒した景虎は再び川中島に出陣する(第三次川中島の戦い)。高井郡山田城、福島城を攻め落とし、長沼城と善光寺を奪還。横山城に着陣して、さらに破却されていた旭山城を再興して本営とした。5月、景虎は武田領内へ深く侵攻、埴科郡・小県郡境・坂木の岩鼻まで進軍する。しかし景虎の強さを知る晴信は、深志城から先へは進まず決戦を避けた。7月、武田軍の別働隊が長尾方の安雲郡小谷城を攻略。一方の長尾軍は背後を脅かされたため、飯山城まで兵を引き、高井郡野沢城・尼巌城(あまかざりじょう)を攻撃する。その後8月、両軍は髻山城(もとどりやまじょう)近くの水内郡上野原で交戦するも、決定的な戦いではなかった。さらに越中国で一向一揆が起きたため、[要出典]景虎は軍を引き上げた。

弘治4年(1558年)、将軍・義輝から上洛要請があり、翌年上洛することを伝える。その翌年の永禄2年(1559年)3月、高梨政頼の本城・中野城が武田方の高坂昌信の攻撃により落城。景虎が信濃国へ出兵できない時期を見計って、晴信は徐々に善光寺平を支配下に入れていった。

小田原城の戦い

松山城本丸跡永禄2年(1559年)4月、再度上洛して正親町天皇や将軍・足利義輝に拝謁する。このとき、義輝から管領並の待遇を与えられた(上杉の七免許)。景虎と義輝との関係は親密なものであったが、義輝が幕府の重臣である大舘晴光を派遣して長尾・武田・北条の三者の和睦を斡旋し三好長慶の勢力を駆逐するために協力するよう説得した際には、三者の考え方の溝は大きく実現しなかった。

永禄3年(1560年)3月、越中の椎名康胤が神保長職に攻められ、景虎に支援を要請する。これを受け景虎は初めて越中へ出陣、すぐに長職の居城・富山城を落城させる。さらに長職が逃げのびた増山城も攻め落して逃亡させ、康胤を援けた。

5月、ついに景虎は北条氏康を討伐するため越後国から関東へ向けて出陣、三国峠を越える。上野国に入った景虎は、小川城・名胡桃城・明間城・沼田城・岩下城・白井城・那波城・厩橋城など北条方の諸城を次々に攻略。厩橋城を関東における拠点とし、この城で越年した。この間、関東諸将に対して北条討伐の号令を下し、檄を飛ばして参陣を求めた。景虎の攻勢を見た関東諸将は、次々に景虎のもとへ結集、兵の数は日増しに膨れ上がった。

景虎は、年が明けると軍を率いて上野国から武蔵国へ進撃。深谷城・忍城・羽生城等を支配下に治めつつ、さらに氏康の居城・小田原城を目指し相模国にまで侵攻、2月には鎌倉を落とした。氏康は、押し寄せる大軍の総大将が武略に優れる景虎であるため、野戦は不利と判断。相模の小田原城や玉縄城、武蔵の滝山城や河越城などへ退却し、篭城策をとる。永禄4年(1561年)3月、景虎は関東管領・上杉憲政を擁して、宇都宮広綱、佐竹義昭、小山秀綱、里見義弘、小田氏治、那須資胤、太田資正、三田綱秀、成田長泰ら旧上杉家家臣団を中心とする10万余の大軍で、小田原城をはじめとする諸城を包囲、攻撃を開始した(小田原城の戦い)。小田原城の蓮池門へ突入するなど攻勢をかけ、籠城する氏康を窮地に追い込む。

また小田原へ向かう途上には、関東公方の在所で当時は関東の中心と目されていた古河御所を制圧し、北条氏に擁された足利義氏を放逐のうえ足利藤氏を替りに古河御所内に迎え入れた。

小田原城を包囲はしたものの、氏康と同盟を結ぶ武田信玄が川中島で軍事行動を起こす気配を見せ、景虎の背後を牽制。景虎が関東で氏康と戦っている間に、川中島に海津城を完成させてこれを前線基地とし、信濃善光寺平における勢力圏を拡大させた。こうした情勢の中、長期に渡る出兵を維持できない佐竹義昭らが撤兵を要求、無断で陣を引き払うなどした。このため景虎は、北条氏の本拠地・小田原城にまで攻め入りながら、これを落城させるには至らず。1ヶ月にも及ぶ包囲の後、鎌倉に兵を引いた。この後、越後へ帰還途上の4月、武蔵国の中原を押さえる要衝松山城を攻撃し、北条方の城主・上田朝直の抗戦を受けるも、これを落城させる(松山城の戦い)。松山城には城将として上杉憲勝を残し、厩橋城には城代に義弟・長尾謙忠をおいて帰国した。

関東管領就任

この間に景虎は、上杉憲政の要請もあって鎌倉府の鶴岡八幡宮において永禄4年(1561年)閏3月16日、山内上杉家の家督と関東管領職を相続、名を上杉政虎(うえすぎ まさとら)と改めた。もともと上杉家は足利宗家の外戚として名門の地位にあり、関東管領職はその縁で代々任じられてきた役職であった。長尾家は上杉家の家臣筋であり、しかも上杉家の本姓が藤原氏なのに対して長尾家は桓武平氏であった。異姓にして家臣筋の長尾景虎が上杉氏の名跡を継承するに至った背景には、かねてから上杉家に養子を招くことを望んでいた上杉憲政が、上杉家から養子を出したことのある佐竹家からの養子を断られ、苦悩の末に越後の実力者である長尾景虎に継がせたという経緯がある[要出典]。

ただし、『藩翰譜』によると、政虎自身が上杉頼成の男系子孫であるという記述がある。『応仁武鑑』や『萩原家譜案』にも、上杉頼成の男子(長尾藤景)が長尾氏へ入嗣した旨が記されている。しかし、他の系図では上杉家から養子を迎えたのは下総に分家した長尾であって、越後長尾氏には直接関係無いとする系図がほとんど(景為或いは景能の流れ)である。実際の血統が繋がっていなくとも、長尾家も佐竹家と同じく上杉家からの養子を迎えた家系ということになる。

第四次川中島の戦いと北条の反撃

上杉謙信(右)・武田信玄(左)一騎討像関東から帰国後の永禄4年(1561年)8月、政虎は武田信玄との雌雄を決するため、1万8,000の兵を率いて川中島へ出陣する(第四次川中島の戦い)。荷駄隊と兵5,000を善光寺に残し1万3,000の兵を率いて武田領内へ深く侵攻、妻女山に布陣する。このとき武田軍と大決戦に及び、武田信繁・山本勘助・両角虎定・初鹿野源五郎・三枝守直ら多くの敵将を討ち取り総大将の信玄をも負傷させ、武田軍に大打撃を与えた。特に信玄が最も信頼する実弟で武田軍副将格の信繁を討ち取ったことは、武田側にとって致命的な痛手となった。上杉軍の死傷者も甚大であったため痛み分けに終わったが、上杉軍の最高幹部級の武将に戦死者が一人もいないため、戦術的には上杉軍の勝利とされる。

しかしこの間に北条氏康が関東で反撃を開始、政虎が奪取していた武蔵松山城を奪還すべく攻撃した。これをうけて政虎は11月、再び関東へ出陣、武蔵国北部において氏康と戦う(生野山の戦い)。しかし川中島で甚大な損害を受けたことが響いたか、これに敗退(内閣文庫所蔵・小幡家文書)。ただし、この合戦で謙信自身が直接指揮を執ったという記録は発見されていない。生野山の戦いには敗れたものの、松山城を攻撃する北条軍を撤退させた。

その後、古河御所付近から一時撤退する(近衛氏書状)。その結果、成田長泰や佐野昌綱を始め、武蔵国の同族上杉憲盛が北条方に降ってしまう。政虎は寝返った昌綱を再び服従させるため下野唐沢山城を攻撃するが、関東一の山城と謳われる難攻不落のこの城を攻略するのに手を焼いた。これ以降、政虎は唐沢山城の支配権を得るため昌綱と幾度となく攻防戦を繰り広げることになる(唐沢山城の戦い)。12月、将軍義輝の一字を賜り、諱を輝虎(てるとら)と改めた。輝虎は越後へ帰国せず、上野厩橋城で越年する。

北条・武田との戦い

関東の戦線は当初、大軍で小田原城を攻囲するなど輝虎が優勢であったが、武田・北条両軍に相次いで攻撃されるに及び劣勢を強いられる。永禄4年、それまで信玄の上野国への侵攻に徹底抗戦していた箕輪城主・長野業正が病死したため、この機を逃さず信玄は上野国へ攻勢をかける。同時に北条氏康が反撃に転じ、松山城を奪還するなど勢力を北へ伸ばす。これに対し関東の諸将は、輝虎が関東へ出兵してくれば上杉方に恭順・降伏し、輝虎が越後国へ引き上げれば北条方へ寝返ることを繰り返した。信玄と同盟して関東で勢力を伸ばす氏康に対し、輝虎は安房国の里見義堯・義弘父子と同盟を結ぶことで対抗する。

関東出兵

館林城本丸跡永禄5年(1562年)、上野館林城主の赤井氏を滅ぼしたが、佐野昌綱が籠城する唐沢山城を攻めたものの落城させるには至らなかった。この後7月には越中国に出陣し、椎名康胤を圧迫する神保長職を降伏させた。しかし輝虎が越後国へ戻ると再び長職が挙兵したため、9月に再び越中国へ取って返し、長職を降伏させた。

ところが関東を空けている間に、武蔵国における上杉方の拠点・松山城が再度、北条方の攻撃を受ける。信玄からの援軍を加え、5万を超える大軍となった北条・武田連合軍に対し、松山城を守る上杉軍は寡兵であった。既に越後国から関東へ行く国境の三国峠は深い雪に閉ざされていたが、輝虎は松山城を救援するため峠越えを強行。12月には上野国の沼田城に入った。兵を募って救援に向かったものの、永禄6年(1563年)2月、わずかに間に合わず松山城は落城。

しかし輝虎は反撃に出て武蔵国へ侵攻、小田朝興の守る騎西城を攻め落とし、朝興の兄である武蔵忍城主・成田長泰をも降伏させた。次いで下野に転戦して4月には唐沢山城を攻め佐野昌綱を降伏させ、小山秀綱の守る下野の小山城も攻略。さらに下総国にまで進出し、秀綱の弟である結城城城主・結城晴朝を降伏させ、関東の諸城を次々に攻略した。なおこの年、武田・北条連合軍により上野・厩橋城を奪われたがすぐに奪回し、北条高広を城代に据えている。閏12月に上野和田城を攻めた後、この年も厩橋城で越年。永禄7年(1564年)、常陸国へ入り1月に小田氏治の居城・小田城を攻略。

同年2月、三度目の反抗に及んだ佐野昌綱を降伏させるため、下野国へ出陣し唐沢山城に攻め寄せた。しかしこの時、10回に及ぶ唐沢山城での攻防戦の中でも最大の激戦となる。輝虎は総攻撃をかけるも昌綱は徹底抗戦した。結局、昌綱は佐竹義昭や宇都宮広綱の意見に従い降伏。輝虎は義昭や広綱に昌綱の助命を嘆願され、これを受け入れた。3月、上野国の和田城を攻めるも武田軍が信濃国で動きを見せたため、越後国へ帰国した。

第五次川中島の戦い

永禄7年(1564年)4月、武田信玄と手を結んで越後へ攻め込んだ蘆名盛氏軍を撃破。その間に信玄に信濃国水内郡の野尻城を攻略されたが奪還し、8月には輝虎は信玄と川中島で再び対峙した(第五次川中島の戦い)。しかし信玄が本陣を塩崎城に置いて輝虎との決戦を避けたため、60日に及ぶ対峙の末に越後に軍を引き、決着は着かなかった。

これ以降、輝虎と信玄が川中島で相見えることはない。川中島の戦いにおいて、信濃守護を兼ねる信玄の使命である信濃統一を頓挫させ、信玄の越後国侵攻を阻止することに成功した。一方で領土的には信濃の北辺を掌握したのみで、村上氏・高梨氏らの旧領を回復することはできなかった。10月、佐野昌綱が再び北条方へ寝返ったため唐沢山城を攻撃し、降伏させると人質をとって帰国した。

関東の上杉方諸将の離反

臼井城本丸空堀永禄8年(1565年)3月、関東の中原をおさえる要衝・関宿城が北条氏康の攻撃に晒される(第一次関宿合戦)。氏康は岩付城や江戸城を拠点に、利根川水系など関東における水運の要となるこの城の奪取に傾注していた。輝虎は、関宿城主・簗田晴助を救援するため下総国へ侵攻、常陸の佐竹義重も関宿城へ援軍を送る。このため氏康は攻城を中断、謙信と戦わずして撤退した。

6月、信玄が西上野へ攻勢をかけ、上杉方の倉賀野尚行が守る倉賀野城を攻略。9月、輝虎は信玄の攻勢を食い止めようと、大軍を率いて武田軍の上野における拠点・和田城を攻めたが成功しなかった。なおこの年、2月に越前守護・朝倉義景が一向一揆との戦いで苦戦していたため、輝虎に救援を要請している。さらに5月には、将軍・足利義輝が三好義継・松永久秀の謀反により世を去った(永禄の変)

永禄9年(1566年)、輝虎は常陸国へ出兵して再び小田城に入った小田氏治を降伏させるなど、積極的に攻勢をかける。また輝虎と同盟を結ぶ安房国の里見氏が北条氏に追い詰められていたため、これを救援すべく下総国にまで奥深く侵出。北条氏に従う千葉氏の拠点・臼井城に攻め寄せた。だが城自体は陥落寸前まで追い詰めたものの原胤貞より指揮を受け継いだ軍師・白井入道浄三の知謀の前に、結果的には撤退することとなった(臼井城の戦い)。

臼井城攻めに失敗したことにより、輝虎に味方・降伏していた関東の豪族らが次々と北条氏に降る。9月には上野金山城主・由良成繁が輝虎に背く。さらに同月、西上野の最後の拠点・箕輪城が信玄の攻撃を受けて落城。城主・長野業盛は自刃し、西上野全域に武田の勢力が伸びた。関東において、北条氏康・武田信玄の両者と同時に戦う状況となり守勢に回る。さらに輝虎は関東進出を目指す常陸の佐竹氏とも対立するようになる。

永禄10年(1567年)、輝虎は再び背いた佐野昌綱を降伏させるため唐沢山城を攻撃、一度は撃退されるも再び攻め寄せ、3月に昌綱を降伏させた。しかし厩橋城代を務める上杉の直臣・北条高広までもが北条に通じて謀反を起こす。4月、高広を破り、厩橋城を奪還。上野における上杉方の拠点を再び手中にして劣勢の挽回を図る。輝虎は上野・武蔵・常陸・下野・下総などで転戦するも、関東における領土は主に東上野にとどまった(但し謙信没時、上野・下野・常陸の豪族の一部は上杉方)。

越中への進出

永禄11年(1568年)、新しく将軍となった足利義昭からも関東管領に任命された。この頃から次第に越中国へ出兵することが多くなる。一方で武田信玄は上洛のため西上し、これにより北信濃での信玄の脅威は弱まる。北条氏康は信玄と敵対関係となったため、輝虎との和睦を模索し同盟の交渉をはじめる。

永禄11年(1568年)3月、越中国の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中国を制圧するために一向一揆と戦うも決着は付かず(放生津の戦い)。7月には武田軍が信濃最北部の飯山城に攻め寄せ、支城を陥落させる等して越後国を脅かしたが、上杉方の守備隊がこれを撃退。さらに輝虎から離反した康胤を討つべく越中国へ入り、堅城・松倉城をはじめ、守山城を攻撃した。

ところが時を同じくして、5月に信玄と通じた上杉家重臣で揚北衆(あがきたしゅう)の本庄繁長が謀反を起こしたため、越後国への帰国を余儀なくされる。反乱を鎮めるため輝虎はまず、繁長と手を組む出羽尾浦城主・大宝寺義増を降伏させ、繁長を孤立させた。その上で11月に繁長の居城・本圧城に猛攻を加え、謀反を鎮圧する(本庄繁長の乱)。12月、武田家と断交した今川氏真に救援を懇願される。永禄12年(1569年)には蘆名盛氏・伊達輝宗の仲介を受け、本庄繁長から嫡男・本庄顕長を人質として差し出させることで、繁長の帰参を許した。また繁長と手を結んでいた大宝寺義増の降伏により、出羽庄内地方を手にする。

越相同盟

永禄11年(1568年)12月、氏康は甲相駿三国同盟を破って駿河国へ侵攻していた信玄と断交、長年敵対してきた輝虎との和睦を探るようになる。信玄はさらに氏真を破り駿府城を攻略した。これにより力の均衡が崩れて氏康の居城・小田原城に危機が迫ったため、氏康はそれまで盟友であった信玄と激しく敵対する。北条氏は東に里見氏、北に上杉氏、西に武田氏と、三方向に敵を抱える苦しい情勢となった。

永禄12年(1569年)1月、氏康は輝虎に和を請う。これに対し輝虎は当初、この和睦に積極的でなかった。しかし度重なる関東出兵で国内の不満が高まっており、また上杉方の関宿城が北条氏照の攻撃に晒されており(第二次関宿合戦)、これを救うためにも北条氏との和議を模索し始める。3月、信玄への牽制の意図もあり北条氏との講和を受諾、宿敵ともいえる氏康と同盟する(越相同盟)。

この同盟に基づき、北条氏照は関宿城の包囲を解除、上野国の北条方の豪族は輝虎に降る。北条高広も帰参が許された。輝虎は北条氏に関東管領職を認めさせた上、上野国を確保したため、これより本格的に北陸諸国の平定を目指すことになる。しかし一方で、越相同盟により上杉方の関東諸将は輝虎に対して不信感を抱く結果となった。長年に渡り北条氏と敵対してきた里見氏は輝虎との同盟を破棄し、信玄と同盟を結ぶなど北条氏と敵対する姿勢を崩さなかった。なお輝虎はこの年の閏5月、足利義昭の入洛を祝し、織田信長に鷹を贈っている。


松倉城内にある『松倉城主の碑』永禄12年(1569年)8月、前年に続いて越中へ出兵し、椎名康胤を討つため大軍を率いて松倉城を百日間に渡り攻囲(松倉城の戦い)。支城の金山城を攻め落としたものの、信玄が上野国へ侵攻したため松倉城の攻城途中で帰国し、上野国の沼田城に入城した。元亀元年(1570年)1月、下野において再び佐野昌綱が背いたため唐沢山城を攻撃するも、攻め落とすことは出来なかった。10月、氏康から支援要請を受けたため上野へ出陣し、武田軍と交戦した後、年内に帰国した。

元亀元年(1570年)4月、氏康の7男(異説あり)である北条三郎を養子として迎えた輝虎は、三郎のことを大いに気に入って景虎という自身の初名を与えるとともに、一族衆として厚遇したという。12月には法号「不識庵謙信」を称した。

元亀2年(1571年)2月、2万8千の兵を率いて再び越中国へ出陣。椎名康胤が立て籠もる富山城をはじめ、数年に渡り謙信を苦しめた松倉城や新庄城・守山城などを攻撃した。康胤の激しい抗戦を受けるも、これらを落城させる。しかし康胤は落ち延びて越中一向一揆と手を組み、協同して謙信への抵抗を続ける。その後、幾度となく富山城を奪い合うことになり、越中支配をかけた謙信と越中一向一揆の戦いは熾烈を極めることになる(越中大乱)。 11月には北条氏政から支援要請があったため関東へ出兵。佐竹義重が信玄に通じて小田氏治を攻めたため、謙信は上野総社城に出陣して氏治を援助した。なおこの年の2月、謙信と共に信玄と敵対している徳川家康は、新春を祝して謙信に太刀を贈っている。

尻垂坂の戦い

元亀3年(1572年)1月、利根川を挟んで厩橋城の対岸に位置する武田方の付城・石倉城を攻略する。相前後して押し寄せてきた武田・北条両軍と利根川を挟み対峙した(第一次利根川の対陣)。

元亀3年(1572年)5月、信玄に通じて加賀一向一揆と合流した越中一向一揆が日宮城・白鳥城・富山城など上杉方の諸城を攻略するなど、一向一揆の攻勢は頂点に達する。8月、謙信は越中へ出陣し、一向一揆の大軍と戦い激戦となった。謙信は新庄城に本陣を置き一揆軍の立て籠もる富山城を攻めたが、抵抗が激しく一度は兵を引く。しかし9月に双方が城を出るに至り、野戦での決戦となった。謙信は尻垂坂の戦いで一向一揆に圧勝。その結果、苦戦の末に富山城・滝山城を陥落させ、年末にこれを制圧した。11月には大規模に動員した信玄と交戦状態に入った織田信長から、同盟の申し出を受け、謙信は信長と同盟を締結。翌元亀3年(1574年)3月、信玄の画策により再起した越中一向一揆が再度富山城を奪った。このため越中国から越後国への帰路についていた謙信はすかさず兵を返し、未だ抵抗を続ける椎名康胤の守る富山城を再度攻め落とす。

元亀4年(1573年)4月、宿敵・武田信玄が病没して武田氏の影響力が薄らぐ。8月、謙信は越中国へ出陣して増山城・守山城など諸城を攻略。さらに上洛への道を開くため加賀国まで足を伸ばし、一向一揆が立て籠もる加賀・越中国境近くの朝日山城を攻撃、これにより越中の過半を制圧した。一向一揆は謙信が越中から軍を引き上げる度に蜂起するため、業を煮やした謙信は、ついに越中を自国領にする方針を決める。さらに江馬氏の服属で飛騨国にも力を伸ばした。12月、足利義昭に足利家再興を依頼される。

北条氏政との戦い

金山城址天正元年(1573年)8月、謙信が越中朝日山城を攻撃していた時、北条氏政が上野国に侵攻していた。上洛を目指す謙信の主戦場は既に関東でなく越中国であったが、後顧の憂いを無くすため天正2年(1574年)、関東に出陣して上野金山城主の由良成繁を攻撃、3月には膳山城・女淵城・深沢城・山上城・御覧田城を立て続けに攻め落とし戦果をあげた。しかし成繁の居城である要害堅固な金山城を陥落させるに至らず(金山城の戦い)。さらに武蔵における上杉方最後の拠点である羽生城を救援するため4月、氏政と再び利根川を挟んで相対する(第二次利根川の対陣)。しかし、増水していた利根川を渡ることは出来ず、5月に越後国へ帰国。羽生城は閏11月に自落させた。

天正2年(1574年)、北条氏政が下総関宿城の簗田持助を攻撃するや、10月に謙信は関東へ出陣、武蔵国に攻め入って後方かく乱を狙った。しかし既に謙信は越中平定に力を注いでいたため本格的な戦闘は起きず、北条方の騎西城・忍城・鉢形城・菖蒲城など諸城の領内に火を放ったのみである。上杉軍の援軍が期待できない関宿城は結局降伏している(第三次関宿合戦)。閏11月に謙信は北条方の古河公方・足利義氏を古河城に攻めている。12月19日、剃髪して法印大和尚に任ぜられる。なおこの年の3月、織田信長から狩野永徳筆の『洛中洛外図屏風』を贈られる。

天正3年(1575年)1月11日、養子の喜平次顕景の名を景勝と改めさせ、弾正少弼の官途を譲った。

織田信長との戦い

天正4年(1576年)2月、織田信長との戦いで苦境に立たされていた本願寺顕如と講和する。前年に信長は本願寺を攻撃、さらに越前国に侵攻したため、顕如と越前の一向宗徒は謙信に援助を求めていた。顕如は謙信を悩ませ続けていた一向一揆の指導者であり、これにより上洛への道が開けた。このとき謙信は武田勝頼とも和睦して信長との同盟を破棄し、新たに謙信を盟主とする信長包囲網を築き上げたのである。10月には足利義昭から信長討伐を求められており、謙信は上洛を急ぐことになる。

越中・能登平定

天正4年(1576年)9月、名目上管領畠山氏が守護をつとめる越中国に侵攻して、一向一揆支配下の富山城・栂尾城・増山城・守山城・湯山城を次々に攻め落とした。次いで椎名康胤(越中守護代)の蓮沼城を陥落させ康胤を討ち取り、ついに騒乱の越中を平定した。

上洛を急ぐ謙信の次の狙いは、能登国の平定であった。特に能登国の拠点・七尾城を抑えることは、軍勢を越後国から京へ進める際、兵站線を確保する上で非常に重要であった。当時の七尾城主は戦国大名畠山氏の幼い当主・畠山春王丸であったが、実権は重臣の長続連・綱連父子が握っていた。城内では信長に付こうとする長父子と謙信に頼ろうとする遊佐続光が、主導権争いをしており、激しい内部対立があった。謙信は平和裏に七尾城を接収しようとするも、畠山勢は評議の結果、徹底抗戦を決した。これにより能登国の覇権を懸けた七尾城の戦いが勃発する。

七尾城の戦い

七尾城址(桜馬場石垣)天正4年(1576年)11月、謙信は能登国に進み、熊木城・穴水城・甲山城(かぶとやまじょう)・正院川尻城(しょういんかわしりじょう)・富来城(とぎじょう)など能登国の諸城を次々に攻略した後、七尾城を囲んだ(第一次七尾城の戦い)。しかし七尾城は石動山系の北端・松尾山山上に築かれた難攻不落の巨城であり、力攻めは困難であった。付城として石動山城を築くものの攻めあぐねて越年する。天正5年(1577年)、関東での北条氏政の進軍もあり春日山に一時撤退した。その間に敵軍によって上杉軍が前年に奪っていた能登の諸城は次々に落とされた。関東諸将から救援要請を受けていた謙信のもとに、能登国での戦況悪化に加え、足利義昭や毛利輝元から早期の上洛を促す密書が届く。

これに至り謙信は反転を決意し同年閏7月、再び能登に侵攻して諸城を攻め落とし、七尾城を再び包囲する(第二次七尾城の戦い)。このとき城内で疫病が流行、傀儡国主である畠山春王丸までもが病没したことにより厭戦気分が蔓延していた。しかし守将の長続連は、織田信長の援軍に望みをつないで降伏しようとはしなかった。このため謙信は力攻めは困難とみて調略を試みる。そして9月15日、遊佐続光らが謙信と通じて反乱を起こした。信長と通じていた長続連らは殺され、ついに七尾城は落城。この2日後の17日には加賀国との国境に近い能登末森城を攻略。こうして能登国は全て謙信の支配下に入った。謙信には名門畠山家の復興が思慮にあり、有力国人を廃したうえで畠山義春を能登の国主として擁立する計画であったといわれている。

また、この戦いの後、畠山義隆の息子を養子にすると書かれた謙信書状が出されており、この子は春王丸自身や実際には畠山義続の子であるともされる。また春王丸に弟がいた可能性もあり、その弟という説があるが定説にはなってはいない。

手取川の戦い

謙信が七尾城を攻めていた天正5年(1577年)、長続連の援軍要請を受けていた信長は、七尾城を救援する軍勢の派遣を決定、謙信との戦いに踏み切る。柴田勝家を総大将とする、羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀・前田利家・佐々成政ら3万余の大軍は、8月に越前北ノ庄城に結集。同月8日には七尾城へ向けて越前国を発ち、加賀国へ入って一向一揆勢と交戦しつつ進軍した。しかし途中で秀吉が、総大将の勝家と意見が合わずに自軍を引き上げてしまうなど、足並みの乱れが生じていた。9月18日、勝家率いる織田軍は手取川を渡河、水島に陣を張ったが、既に七尾城が陥落していることすら認知していなかった。

織田軍が手取川を越えて加賀北部へ侵入したことを知るや、謙信はこれを迎え撃つため大軍を率いて一気に南下。加賀国へ入って河北郡・石川郡をたちまちのうちに制圧し、松任城にまで進出した。9月23日、ようやく織田軍は七尾城の陥落を知る。さらに謙信率いる上杉軍が目と鼻の先の松任城に着陣しているとの急報が入り、形勢不利を悟った勝家は撤退を開始。それに対して謙信率いる上杉軍は23日夜、手取川の渡河に手間取る織田軍を追撃して撃破した(手取川の戦い)。なお、戦いの規模については諸説ある。

最期

天正5年(1577年)12月18日、謙信は春日山城に帰還し、12月23日には次なる遠征に向けての大動員令を発した。天正6年(1578年)3月15日に遠征を開始する予定だったらしい。しかしその6日前である3月9日、遠征の準備中に春日山城で倒れ、3月13日、急死した。享年49。倒れてからの昏睡状態により、死因は脳溢血との見方が強い。遺骸には鎧を着せ太刀を帯びさせて甕の中へ納め漆で密封した。この甕は上杉家が米沢に移った後も米沢城本丸一角に安置され、明治維新の後、歴代藩主が眠る御廟へと移された。

未遂に終わった遠征では上洛して織田信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたとも推測されるが、詳細は不明(近年の研究では関東侵攻説が有力になりつつある)。『その時歴史が動いた』(NHK、2007年4月4日放送)では、「関東侵攻後、信長を打倒し京へ上洛」が有力説とされた。

辞世

  • 「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」
  • 「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」(「嗚呼 柳緑 花紅」と続く史料もある)

人物

  • 生まれつきのカリスマ性を持ち、兄から呼びもどされて元服すると長尾家家臣だけでなく、豪族の心もつかんだとされている。
  • 武神毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「毘」の文字を使った。時には自らを毘沙門天の化身と称したともいう。
  • 戦略家・戦術家としてだけではなく、和歌に通じ、達筆でもあり、近衛稙家から和歌の奥義を伝授されるなど、公家との交流も深い文化人でもあった。特に源氏物語を始めとする恋愛物を好んで読んでおり、上洛した際に開催した歌会でも見事な雅歌(恋歌)を読み、参加者全員を驚かせたと言う。琵琶を奏でる趣味もあった。
  • 七尾城の戦いのとき、謙信は有名な『十三夜』の詩(七言絶句の漢詩)を作ったという。この詩は頼山陽の『日本外史』に載せられて広く知られることになったが、『常山紀談』や『武辺噺聞書』ではこれと少し違っているため、頼山陽が添削したものとみられている。また、十三夜は七尾落城の二日前であり謙信が本丸に登っていないことや、和歌によく通じた謙信も漢詩はこの他に一度も作っていないことなどから、これを不自然とし、この詩自体が後世の仮託とみなす説もある。
  • 青年期までは曹洞宗の古刹、林泉寺で師の天室光育から禅を学び、上洛時には臨済宗大徳寺の宗九のもとに参禅し「宗心」という法名を受け、晩年には真言宗に傾倒し、高野山金剛峯寺の清胤から伝法潅頂を受け阿闍梨権大僧都の位階を受けている。
  • 内政面においては衣料の原料となる青苧を栽培し、日本海ルートで全国に広め、財源とするなど、領内の物産流通の精密な統制管理を行い莫大な利益を上げていた。謙信が死去した時、春日山城には2万7140両の蓄えがあったという。上杉軍の行動を支える軍費の大半は通商によって得られており、頼山陽が美談として激賞した「敵に塩を送る」という逸話も、実際には軍費調達の必要上から甲斐・信濃の商人への塩販売を禁じなかっただけと見ることも出来る。だが越後国人たちの離反には度々悩まされているように、謙信も信玄同様、国人衆の連合盟主という地位から脱することができなかった。
  • 合戦では情報を得ることを重視し、軒猿(担猿)という忍者の集団を擁していた。平時においても出羽三山・弥彦山・黒姫山の山伏も諜報組織に組み入れていたことが知られている。
  • 吉川元春の使者・佐々木定経が謙信と対面したとき、「音に聞こえし大峰の五鬼、葛城高天の大天狗(謙信)にや」と謙信のことを大天狗扱いするなど、「六尺近い偉丈夫」が有力説とされてきたが、「小柄」と表記されている文献もいくつか存在し、謙信の身長については諸説があり定かではないのが実情であった。しかし、近年の研究で遺品の甲冑の大きさなどから五尺二寸ほど(約156cm)であったことがわかっている。当時の男性の平均身長は159cm程度であったため、屈強な武将たちの中で考えると「小柄」という表現が正しいことがわかっている。
  • 死去する1か月前の2月、謙信は京都から画家を呼び寄せて自らの肖像画と後姿を描かせた。肖像画は現在でもよく知られている謙信像だが、後姿はなんと盃を描かせたという。このときのことを謙信は、「この盃すなわち我が後影なり」と語ったとされる。謙信には現存する同時代の肖像画が存在しないが、高野山無量光院にはかつて晩年期を描いた画像が所蔵されており、1893年(明治31年)の火災で焼失したという。江戸時代には信玄はじめ他の戦国諸大名と同様に軍記物による影響を受け、軍陣武者像や法体武将像、仏画風僧侶像など多様な謙信のイメージが確立する。
  • 誓文の血判から判定された血液型はAB型である。

逸話

性格・行動

  • 甥の喜平次(後に養子となる景勝)に宛てて身の上を案じる手紙を頻繁に送るなど、子煩悩な一面をみせている。特に関東在陣中の永禄5年(1562年)2月13日には、当時8歳だった喜平次に習字の手本として自ら『伊呂波尽手本』(いろは文字)を書いて送っている。手紙の本文も叔父らしい情け深いものだった(『上杉家文書』)。
  • 戦国時代の武将としては希有な慈悲深い人物であった。
  • 主君である謙信に対して2度も謀反を起こした家臣の北条高広を2度とも許し、帰参させている。また謙信に対し幾度も反乱を起こした佐野昌綱に対しても、降伏さえすれば命を奪うことはしなかった。同様に、家臣である本庄繁長が挙兵した際も、反乱を鎮圧した後に繁長の帰参を許している。とはいえ、苛烈な性格と伝えられる織田信長でさえ、柴田勝家の謀反の罪を問わず却って優遇し、松永久秀に対しても二度も降伏を許している。離反・反乱した家臣や国人衆を許すことは、そうせざるを得ない当時の状況などもあり、戦国時代の大名や武将にとっては取り立てて珍しいことではない。
  • 一方で規律を守るため厳しい処置を行ったという伝えもある。謙信の重臣である柿崎景家の死について、『景勝公一代略記』では景家と織田信長が内通しているとの噂を信じた謙信によって死罪に処されたものとしている。しかし近年ではこの説は疑問視されており、景家の最期は「病死、伏誅、手打ち、攻殺、逃亡」の5説があるという(『柿崎景家―川中島先陣』室岡博)。また、信長と内通した末に誅殺されたのは景家の嫡子晴家だったとする説もある(『上杉謙信と春日山城』花ヶ前盛明)。重臣・長尾政景の死についても宇佐美定満に命じて謀殺したとする伝えがあるが(『北越軍記』)、信憑性に乏しい資料であるため近年では創作された可能性が高い説であるとされている。『謙信公御年譜』では、宇佐美定満と野尻池で舟遊びの最中、暑さを凌ぐために遊泳に興じたところ、酒に酔っていたこともあり溺死したと記している。謀殺説は謙信の厳格な一面を伝えているが、従来より史料批判とともにその信憑性が問われている。他にも北条軍に対する陣頭指揮を怠った厩橋城の城代・長尾謙忠を「謀反の疑い有り」として誅殺している。
  • 長尾謙忠の誅殺については別の話もある。永禄6年(1563年)松山城が武田・北条の連合軍によって包囲されたときのこと、太田資正からの求めで謙信は、冬の峠越えの危険を侵してまで救援に向かうが、城を任されていた城主の上杉憲勝(甲陽軍鑑では上杉友貞)は3ヶ月の籠城の末、武田軍に城への水の手を絶たれたことと、北条軍に和睦を持ちかけられたことで降伏して開城。わずか数日の差でこれに間に合わなかった謙信は、開城と寝返りの報を聞いて大激怒。まず太田資正を処断しようとするが、人質の存在を知らされ、預かっていた憲勝の子の髻を掴み上げて吊るし、刀で真二つにして斬殺。それでも怒り収まらぬ謙信は、さらに近くにある北条方の騎西城に直行して蹂躙。城の老若男女の別なく数千人が犠牲となり、騎西城への案内をしなかったという理由から謀反を疑い長尾謙忠を誅殺、その家来数百人を皆殺しにしたという。これは『甲陽軍鑑』からの話であるが、謙信の勇猛果敢さを称える話としてである。武辺咄聞書などでは反証を試みられて信憑性は薄いともされており、『関八州古戦録』では人質は助けたとある。
  • 永禄2年(1559年)8月27日、二度目の上洛の折、謙信が洛中を周覧していた時に教業坊の路頭で偶然、松永久秀と行き合った。畿内一円に権勢を揮った久秀の面前においても謙信は泰然自若の構えで堂々と振舞った。異例の事態ともいえる謙信のこの態度に久秀は如何とも出来ずにいたが、その際、久秀率いる三好・松永の家臣の内二人が無礼を働いたので、謙信は三条橋辺りでこれを捕らえて首を刎ねた。この一件について三好・松永両家からは報復も苦情も無かった(『謙信公御年譜』)。この事件は謙信の威風と勇猛さを伝えるものとして記録されている。
  • 永禄4年(1561年)、関東管領の就任式では忍城城主・成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけたと書かれている書物がある。諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を率いて帰城してしまったという。原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で、武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であったとも言われている。謙信はこの故事を知らなかったと思われるが、この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東進出の大きな足かせとなったとの説もある(『北条記(相州兵乱記)』)。ただし、成田氏の地位はこのように尊大な態度を取れるほど高くはなく、義家を馬上で迎える先例も原史料では認められず、研究者間ではこの説を事実と認めていない。関東諸将の謙信への反感や離反の理由としても同様である。
  • 北条氏政により栃木城(唐沢山城)が攻囲された際、8千の兵を率い救援に向かった謙信は、自らが物見をし城主佐野昌綱の危急を感知した。謙信は「ここまで来て昌綱を死なせてしまっては後詰としての名折れだ、ここは運を天にまかせ、自分が敵の陣を駆け抜けて城に入り力を貸そう」と言い、甲冑を着けずに黒い木綿の道服と白綾の鉢巻のみを身に付け、愛用の十文字槍を持ち、またいずれも白布の鉢巻をさせた馬廻や近習などと、主従合わせ数十騎(諸説あり)ばかりで北条勢3万5千の敵中に突入した。敵方はただあぜんとして見つめ、襲えば何か奇計を用いて報いられると思い誰も攻めかからなかったため、作戦のままに謙信は入城したという(『関八州古戦録』/主従45騎と記す)。これを見聞きした北条方の将兵は謙信をして「夜叉羅刹とは是なるべし」と大いに恐れたという(『常山紀談』/13騎率いると記す)(『名将言行録』/23騎率いると記す)。

自己の正当性への確信

  • 戦場において、銃弾が頭髪をかすめようとも、自分に当たるわけがないと信じて恐れもなく戦ったり、合戦前には自分の正当性を示す願文を神仏に奉納した。

部下への配慮

  • 天正元年(1573年)8月に越中国と加賀国の国境にある朝日山城を攻めた際に、一向一揆による鉄砲の乱射を受けて謙信は一時撤退を命じたが、吉江景資の子・与次だけは弾が飛び交う中で奮戦して撤退しようとしなかったため、謙信は与次を陣内に拘禁した。驚いた周辺は与次を許すように申し入れたが、謙信は「ここで与次を戦死させたら、越後の父母(吉江景資夫妻)に面目が立たなくなる」とこれを拒んで、事情を吉江家に伝えている。与次は間もなく許されて、急死した中条景資の婿養子となって中条景泰と改名した。

出家騒動

  • 家臣団の内部抗争・国人層の離反・信玄との戦いが膠着状態に陥りつつある状況に嫌気がさした謙信は毘沙門天堂に篭ることが多くなり、次第に信仰の世界に入っていくようになった。弘治2年(1556年)3月23日、家臣団に出家の意向を伝え、6月28日には春日山城を出奔、高野山を目指した。しかし8月17日、大和国の葛城山山麓、葛上郡吐田郷村で家臣が追いつき必死に懇願した結果、謙信は出家を思いとどまった。謙信の奇矯な性格をよく表している逸話とされているが、家臣団が謙信に「以後は謹んで臣従し二心を抱かず」との誓紙を差し出したことで騒動は治まっていることから、人心掌握を目的とした計画的な行動だったともいわれている。

宿敵・武田信玄

  • 信玄の死を伝え聞いた食事中の謙信は、「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや(『日本外史』より)」と箸を落として号泣したという。後世の創作の可能性が高いが、「信玄亡き今こそ武田攻めの好機」と攻撃を薦める家臣の意見を「勝頼風情にそのような事をしても大人げない」と退けている。
  • 信玄との生涯にわたる因縁からか、それが転じて二人の間には友情めいたものがあったのではないかと現在でも推測されることがあるが、実際のところ謙信は信玄をかなり嫌っていたようである。信玄が父親を追放したり、謀略を駆使して敵を貶めたりするのは謙信に言わせるところの道徳観に反しており(もっとも、戦国という時代を考えれば、信玄の行いは別にあってもおかしくないものだが)、謙信は信玄の行いに激怒したという。信玄との利益を度外視した数々の闘争は、謙信が純粋に信玄を嫌っていたことが原因だという説もある(もっともこれらは道徳観に反する行いが理由とも解釈できるため、謙信がいわれもなく信玄個人を「毛嫌い」していたという確証はない)。しかし、嫌っていた信玄が今川氏真によって塩止めを受けたときは(武田氏の領国甲斐と信濃は内陸のため、塩が取れない。これを見越した氏真の行動であった)、氏真の行いを「卑怯な行為」と批判し、「私は戦いでそなたと決着をつけるつもりだ。だから、越後の塩を送ろう」といって、信玄に塩を送ったという(「敵に塩を送る」という言葉はここから派生したといわれている)。この時、感謝の印として信玄が謙信に送ったとされる福岡一文字の在銘太刀「弘口」一振(塩留めの太刀)は重要文化財に指定され、東京国立博物館に所蔵されている。

私生活

  • 謙信の部下は、謙信の食事により出陣の有無を知ったという。これは、日ごろは倹約に努め質素に過ごす謙信が、戦の前になると飯を山のように炊かせ、山海の珍味を豊富に並べ、部下将兵に大いに振舞ったためである。日ごろの倹約ぶりを知る部下たちはその豪勢な食事に喜び、結束を固くした。これが客をもてなす「お立ち飯」、「お立ち」として、今なお、新潟や山形の一部に風習として残っている(『上杉謙信傳』布施秀治)。
  • 生涯不犯(妻帯禁制)を貫いたため、その子供は全員(景勝・景虎・義春・国清)養子だった。
  • 謙信には複数の恋物語が伝わる。ひとつは、彼がまだ二十代の折、敵将の上野・平井城主千葉采女の娘である伊勢姫と恋に落ちたが、重臣(柿崎景家ら)の猛烈な反対によって引き裂かれ、娘が剃髪出家した後、ほどなくして自害してしまい、食事ものどを通らず病床に伏せてしまうほどに心を痛めたというもの(「松隣夜話」)。この他にも、謙信の侍女として仕えていた直江景綱の長女や、近衛前久の妹・絶姫との間にほぼ同様の逸話があり、このような悲痛な経験が謙信を独身主義へと導く一端になったと仄めかしている。こうした謙信の悲痛な恋物語は今日でも多くの小説やドラマなどで採り入れられているが、いずれも軍記などの不確かな史書のみで語られる伝説に過ぎず、実証はされていない。
  • 謙信が女性と交渉した事実が確認できないことについて様々な説があるが、いずれも確かな根拠に基づいたものではない。心理学的な観点から、信心深く立派な女性であった母青岩院と姉仙桃院(景勝の母)の影響があったと推測する見方(幼少期に高潔な人格の女性から深い愛情を注がれた男性は、成長すると他の女性にも同じ高潔さを無意識に求めるため、次第に周囲の女性に幻滅して興味を示さなくなる傾向にあり、謙信もその一人だったのではないかというもの)や、半陰陽説や女性説といった俗談の類から、毘沙門天あるいは飯縄権現信仰の妻帯禁制を堅く守っていたとする説などが存在する。
  • 大の酒好きであったが、他人と酒を酌み交わすような飲み方を好まず、ひとり縁側に出て、梅干だけを肴に手酌で飲んでいたと伝わっている。

健康面

左脚に関する傷病歴
  • 7歳の時、河中に落ちて左の膝を激しく打ち、後に(14歳頃)刈谷田川で長尾俊景と戦闘した際に、左の内股に矢傷を受け、大きな傷痕を残したという(『史論[上杉謙信]戦国孤高の名将の虚実』桑田忠親)。
  • 永禄4年から5年(と見られる)、左脚が気腫になり、歩く時に引きずる様子が見られた。戦場では杖代わりに三尺ばかりの青竹を引っ提げて、軍兵を指揮したという(『常山紀談』)。
その他
  • 永禄2年(1559年)6月、二度目の上洛中に腫れ物を患う。腫物医の診断によると癰(よう)という重度のおできで、気血の滞留が病因と診られた(『謙信公御年譜』)。背中に出来た腫れ物を家臣たちが口で吸い出して治療にあたり、ほどなく治癒したと伝わる(『史伝上杉謙信』池田嘉一、『越後 上杉一族』花ヶ前盛明)。
  • 永禄4年(1561年)、関東進撃中に腹痛を患っている(『上杉家文書』)。
  • 永禄8年(1565年)36歳の時、瘧(熱病)に罹る(花ヶ前盛明 年表)。卒去したとの流言蜚語が乱れ飛んだ。また、左脚が不自由になったのは、この際に併発した急性関節炎によるものとする説もある(『上杉謙信傳』布施秀治、『飛将謙信』栗岩英冶)。
  • 元亀元年(1570年)10月、41歳の時に軽い中風を発症した(『飛将謙信』栗岩英冶)。

死因

  • 過度の飲酒や食生活(塩分の摂り過ぎなど)による高血圧が原因の脳血管障害とみられ、古今を問わず最も有力視されており、定説となっている。または、胃癌もしくは食道癌と脳卒中が併発したとする説もある。他にも婦人病で亡くなったという奇説や、織田信長の派遣で雪隠隠れをしていた刺客に槍で刺殺、またはヒ素で毒殺されたなどの俗説もある。

戦国大名として

  • 謙信は織田信長と対抗できる最後の一人だったため、当時からその死は相当な衝撃を与えたようである。謙信の葬儀は3月15日に執り行なわれたが、このときのことを『北越軍談』はこう記している。

家門・宿老・侍隊将・奉行・頭人・近習・外様、出棺の前後を打囲て行列の姿堂々たれ共、獅竜の部伍に事替り、衆皆哭慟の声を呑み、喪服の袂を絞りければ、街に蹲る男女老若共に泪止め兼ねたり。彼五丈原の営中、赤星(諸葛亮)落て蜀軍傾覆するが如く、春日山の郭内は云にや及ぶ、城下に来り集る将士、宛然航路に楫を失ひ、巨海の波に漂ふに斉し。

  • 戦では無類の強さを発揮した謙信が天下を取れなかった理由は越中の一向一揆に手間取ったこともあげられる(謙信は仏教を信仰していたが、信仰していたのは真言宗)。同じく北陸の大名であった朝倉氏も加賀の一向宗に悩まされ地盤を越えた戦略を取ることが出来なかった。北陸ではないが、織田信長も一向宗との戦闘で一門や有力武将を多く失っている。

評価

  • 野戦においては戦国武将の中でも最高の指揮統率力を持つ戦術家とされており、武田信玄や北条氏康、織田信長に対してもしばしば優勢に戦いを進めた。そのあまりの強さゆえに謙信が敵地へ攻め込むと、殆どの敵は野戦で謙信と戦う不利を悟って籠城による持久戦をとる程であった。信玄が第4次川中島の戦いで謙信と互角に戦えたのも、謙信との野戦を避け続ける信玄を強引に決戦場に引き出すため、謙信がわざと自身にとって絶対的に不利である武田側の領地深くの妻女山に陣を置いたためとする説もある。しかし信玄はこの戦いで実弟・武田信繁を討ち取られてしまう。信玄や家臣たちが絶大な信頼を寄せていた副将・信繁を失った衝撃は大きく、謙信の強さを目の当たりにした信玄は次の第5次川中島の戦いでは本陣を塩崎城に置き、野に陣をはり決戦を挑もうとする謙信との野戦を避けた。結果的に信玄は信濃北辺の制圧を謙信に阻まれたため、信濃国の完全制覇を成し遂げるには至らなかった。また戦上手であった氏康も、謙信が関東に遠征し幾度となく北条領内深く侵攻しても、謙信を警戒していたため野戦を挑むことはほとんどなかった。
  • 軍事能力に卓越しており、「越後の龍」や「軍神」などと後世で評されている。一般には謙信は天才型で、迅速な用兵と駆け引きの的確さから生涯殆どの戦で勝利をおさめたという見方が強い。天正4年に甲斐の僧・教賀が長福寺の空陀に送った書状によれば、宿敵たる武田信玄も常々謙信をして「日本無双之名大将」と評していたそうである。
  • 謙信と他大名との鉄砲、弓、馬などの軍事編成の比はさほど差異はなく、戦術的にも大きな違いはない。だが、上杉軍は敵と敵のぶつかりあい、直接戦闘では圧倒的な強さを誇っていた。上杉軍の強さは、謙信の死後も、織田信長の支配地域において「武田軍と上杉軍の強さは天下一である」と噂されるほどのものであった(大和国興福寺蓮成院記録・天正十年三月の項を参照)。このことから上杉軍の武威は、謙信存命中から没後しばらくまでは、都周辺でも高い評価を得ていたものと思われる。その生涯で約70回もの合戦を行い、敗北は僅か2回と伝えられている。
  • 軍事面で評されることが多いが、内政面に関しても数多くの業績を残しており、綿密に計画された金山運営で大きな利益をあげることに成功しており、また日本海側の海上交易の要衝としての利益も大きかった。謙信の年貢の収納高は推定99万7,000石、武田信玄は推定83万5,000石で最盛期は100万石超。経済力では両者ほぼ互角である。豊富な資金力を生かして民政面でも成果を上げており、太田資正は、「謙信の代になって越後の民衆の生活水準が劇的に向上しており、民を慈しむ優秀な領主である」と高い評価を下している。
  • 城攻めにおいては、数多くの堅城を攻め落としてきた(七尾城、富山城、武蔵松山城、小田城、松倉城等)。しかし野戦での電光石火で神がかり的な采配に比べれば成功せず撤退することもあった(小田原城、臼井城、唐沢山城、新田金山城、上野和田城等)。小田原城といえば、巨大な総構えを持つ城塞都市というイメージが強いが、当時は総構えどころか、三の丸も存在しない程度の規模であった。小田原包囲と同時に行っていた玉縄城などの支城攻略も成功せず、その後の北条の逆襲を招く結果となった。臼井城の攻防では原胤貞2千の軍勢に上杉1万5千と7倍以上であったにもかかわらず、胤貞より指揮を受け継いだ軍師・白井入道浄三に大敗している。武田・北条両大名家と繰り広げた長期に渡る大規模な持久戦では苦戦することもあり、数多くの城を攻め落とし直接の対陣での敗北は殆ど無いものの、関東における勢力圏は広くはなかった。
  • 持久戦が必ずしも得意でなかったのは、豪雪地帯から遠く補給線の貧弱な敵地に向けて長期的な軍事行動を取ることが不可能であり、それゆえに短期的な活動で多大な成果を得なくてはならなかったことが原因であると見られる。また、当面の戦闘で勝利を得ても、戦後処理の中で占領地を直接支配しなかったがために謙信が帰国するたび関東衆の離反を許すこととなり、北条・武田に対しての長期戦略は上野の一部を得るにとどまってしまった。結果として武田の北進を阻み、北条の躍進を停滞させるなど、国防に成功したものの、関東経略は立ち行かなくなっていた。
  • 第四次川中島の合戦の直前、10万を超える東国の大連合軍を率いて一気に小田原城などに攻め込み北条氏を滅亡寸前まで追い詰めたが、隙をついて武田信玄が信濃にて軍事行動を起こした。だが、信玄は上杉氏諸将の不安をあおるために行動を起こしただけで本気で戦をする気はなかった(事実、上杉軍が動きを止めた後すぐに撤退している)。謙信は信玄の意図を見抜いていて作戦続行を主張したが、関東諸将の反対で撤退するしかなかった。一説によれば、武田信玄はこのことをさして「もしあの時、時間を置かず一気に小田原城を攻めていたら防御の十分でなかった城は陥落し、さしもの北条氏康も滅ぼされていたであろう。そうすれば甲斐の国も危なかった」と述べたと伝わる。また、足利将軍家を守るために三好・松永討伐を画策していた。上洛が出来さえすれば成功の可能性は高く(若狭・越中間は航路があり上杉氏には水軍もあったため加賀一向一揆は無視できた。また、幕臣である越前の朝倉氏・若狭の一色氏の協力は得られた可能性が高い)、謙信を警戒した三好・松永から大量の貢物を送られている。しかし、このときも家臣の反対で実行に移せなかった。いずれも謙信の電光石火・神出鬼没ぶりや戦術眼の高さがうかがえる逸話だが、家臣団の反対で中止せざるをえなくなっている所に謙信の限界があるとの意見もある。
  • 有名無実な関東管領職にこだわり続けた面から、形式に拘る形式主義者、実質よりも権威を重んじる権威主義者、室町幕府体制の復興を願う復古主義者と評する声があるが、謙信の時代の関東や越後では畿内と違い関東管領職の権威はある程度通用した、それ処か、室町時代より越後に勢力をもつ上杉一族の上に立ち、越後の各地で権力を拡大し自立を強める国人領主達を統合するためには、関東管領就任はなんとしても必要だった、との評もある。また、権威や管領職への敬意は、謙信の義理堅さをあらわしているとも言える。
  • 一方で、大義名分を盾にし自己正当化をすることに拘り(合戦する際の理由で自身を正当化するのは秀吉や家康もしており当然ではあるが)、自身を毘沙門天の転生と信じるなど、天才特有の自己愛の強さの証左である、との評価も一部にある。また、名門への羨望があったからこそ、山内上杉家を継いだとの説もある。 ただし、元来越後上杉家が守護を務め、越後上杉被官家臣が数多くいた越後を統一するには、上杉家宗家である山内上杉家の家督は必要不可欠であったとする指摘もある。
  • 関東管領職という室町幕府の役職を全うし、多くの利益を期待できない関東出陣を行う。また、数々の戦いの多くが、村上義清、小笠原長時、上杉憲政らの旧領復権のための戦いであった。
  • 生前に前もって後継者を景勝と定めていたようであるが、不徹底であったため謙信の死後、御館の乱勃発の引き金となった。これは上杉家にとって大きな痛手となり、景勝の代での衰退を辿る要因となった。謙信時代に獲得した北国(加賀・能登・越中)の大部分は、後に柴田勝家によって奪われる。
  • 謙信の義理堅さ、約束事に対する姿勢は大変有名で、北条氏康は彼について「信玄と信長は表裏常なく、頼むに足りぬ人物だ。謙信だけは請け合ったら骨になっても義理を通す人物だ。それ故、肌着を分けて若い大将の守り袋にさせたい」と発言している。ちなみに謙信の関東出陣回数は17回であり、どれもことごとく徒労に終わるものだったが、これも謙信の義理堅さを証明している。
  • また、武田信玄は死に臨んで跡継ぎの勝頼に「謙信は義理がたい武将なので、人に頼られれば決して見捨てる事はない。自分の死後は謙信を頼れ」と遺言したと『甲陽軍鑑』にある。当時は仇敵の武田側からすらも謙信は頼まれれば断れない性格だと評されていたことがわかる。
  • 藤木久志は著書である『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社・1995年刊)で「上杉謙信は越後の民衆にとっては他国に戦争と言うベンチャービジネスを企画実行した救い主であるが、襲われた関東など戦場の村々は略奪を受け地獄を見た」と、通常言われる義人・上杉謙信像とは別の上杉軍の姿こそが実態であったとしたが、この「出稼ぎ」説はを支持したのは一部の識者のみであった。しかし、市村高男は『東国の戦国合戦』(吉川弘文館・2009年刊)で「合戦の主体となる正規の軍隊はどのようにして軍資金等を確保することができたのか」、「敵地には略奪するほどの諸物資が存在したのであろうか」、「社会状況の具体的な提示があるものの、戦闘に至る直接の契機についてはもとより、それらの社会状況と合戦を開始する権力側のいきさつがどのように関連していたのか」など、数々の疑問を呈しており、今後の議論が待たれている。

墓所・霊廟

  • 謙信の遺骸は甲冑を着せて甕に納め、葬られたという。
  • 遺骸は当初春日山城内の不識院に埋葬され、林泉寺に供養塔が建立された。通説では長尾上杉家の転封に伴って、若松城、ついで米沢城内に改葬されたとされる。明治維新後は米沢藩の歴代藩主が眠る上杉家廟所(山形県米沢市)に再度、改葬された。春日山林泉寺(新潟県上越市)と高野山と栃尾市美術館の前庭(新潟県栃尾市)にも供養塔が残されている。
  • 江戸時代の米沢藩では謙信は藩祖として崇敬を集めた。明治5年(1872年)に米沢城本丸跡に創建された上杉神社(別格官幣社)に上杉鷹山と共に祀られ、明治35年に別格官幣社に昇格し、神体は謙信一柱となった(なお上杉鷹山は、松岬神社にて上杉景勝直江兼続らと共に祀られるようになった)。明治41年(1908年)9月9日、従二位が贈られた。
 
 
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