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柴田勝家 〜武骨の性格で、秀でた武勇から"鬼柴田”と呼ばれた〜 | ||||
柴田 勝家(しばた かついえ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将・大名。 生涯織田信秀時代大永2年(1522年)、『張州府誌』によると尾張国愛知郡上社村(現:愛知県名古屋市名東区)で生まれる(異説あり)。生年には大永6年(1526年)説や大永7年(1527年)説もあり、明確ではない。出自は不明で柴田勝義の子といわれるが、確実な資料はない。おそらく土豪階層の家の出身であると思われる。若いころから尾張の織田信秀の家臣として仕え、尾張愛知郡下社村を領したという。地位はわからないが信長継承の頃には織田家の重鎮であった。天文20年(1551年)に信秀が死去すると、子の織田信行(信勝)に家老として仕えた。 織田信勝時代天文21年(1552年)の尾張下四郡を支配する守護代で清洲城主の織田信友との戦いでは、中条家忠とともに敵方の家老坂井甚介を討ち取り、翌年には清洲城攻めで大将格で出陣し、30騎を討ち取る武功を立てた(萱津の戦い)。信勝を信秀の後継者にしようとと林秀貞と共に画策し、信勝の兄・織田信長の排除を試みたが、弘治2年(1556年)8月に信長との戦いに敗れて剃髪し、信長に降伏した(稲生の戦い)。以後信長に心を寄せるようになり、弘治3年(1557年)に信勝が謀反の計画を企んだときには信長に事前に密告したとされており、信勝は自刃に追いやられている(また1558年とも)。信勝が津々木蔵人ら新参の家臣を重用したため、見限ったといわれる(また一度信長に助命されたにも関わらず、再度信長を廃しようとした信勝の器量の小ささに限界を感じたためともいわれる)。信勝の遺児の津田信澄は、信長の命令により勝家が養育することになった。織田信長時代信勝の死後、罪を許され、信長の家臣となった。しかし、信勝に与して信長に逆らったことが響いたのか信長の尾張統一戦や美濃斎藤氏攻めではもちいられなかった。上洛作戦になって再度重用され、畿内平定戦などでは常に織田軍の4人の先鋒の内として参加し(勝竜寺城の戦いなど)、信長の重臣として武功を挙げた。信長とともに岐阜に引き上げるが、永禄12年(1569年)1月、三好三人衆による本國寺の将軍・足利義昭襲撃(本圀寺の変)の際に信長と共に再度来京し、4月上旬まで京都・畿内行政に担当5人の内としてあたった。元亀元年(1570年)1月、信長は義昭に将軍権限を奪う条書を認めさせ、3月には朝廷より天下静謐権を与えられる。5月、六角義賢が琵琶湖南岸に再進出し、岐阜への道を絶ったため、南岸確保に城付きの4人の武将の内として長光寺城に配属され、下旬には戦闘となったが、佐久間信盛と共に撃退した。 元亀2年(1571年)、最初の長島攻めに参加するが戦局不利で攻撃をあきらめて退却する。勝家は殿を努めるが困難を極め負傷し旗指物を奪われた。このため、氏家直元(卜全)に交代するがその氏家が戦死する(長島一向一揆)。 天正元年(1573年)2月、信長と将軍・義昭が対立して石山と今堅田の砦に兵を入れると、勝家を含めた4武将が攻撃してこれらを陥落させた。そして4月、信長出陣のもとに信長に反抗的な上京に勝家が総司令官として放火させ焼き払わせた。だがまたもや義昭は槙島城に立てこもるが勝家も加わった7万という総力戦で降伏させた。やがて義昭は追放され室町幕府は滅びるが、毛利氏に保護された義昭により信長包囲網が敷かれると、織田軍の有力武将として近江、摂津など各地を転戦する。9月の越前の朝倉義景攻めは、信長軍総動員となり滅ぼした。北近江の浅井長政攻めなどにも参加したが、秀吉が先鋒を務めた。この直後に長島攻めに参加するが、またも退却する。天正2年(1574年)、3回目の長島攻めに参加する。三手の内右翼を佐久間信盛と共に指揮する。砦を陥落させ城に逃げ込ませて2月、兵糧攻めをしてたまらず和解に応じたところを銃撃し兵で襲撃、残った農民も柵を築いて2万人を焼き殺した。天正3年(1575年)には高屋城の戦い、長篠の戦いにも参加する。 朝倉氏滅亡後、信長は朝倉旧臣前波吉継を越前の守護としたが、同じく朝倉旧臣の富田長繁が内乱に一向一揆を誘って前波を殺すが、一揆勢は富田をも殺し越前は一揆持ちの国となっていた。信長はこれに総軍を率いて出陣し、一向一揆を平定。勝家は越前国八郡49万石、北ノ庄城(現在の福井市)を与えられた。この際、前田利家、佐々成政、不破光治らの与力を付けられ、90年間一揆持ちだった加賀の平定を任され北陸方面軍総司令官となった。 天正5年(1577年)、越後の上杉謙信が加賀にまで進出してきた。勝家は七尾城の救援に向かうが、間に合わずに七尾城が陥落してしまい、撤退中に手取川で上杉謙信に襲撃されてしまった。。 しかし天正6年(1578年)に謙信が死去すると、織田信忠軍の将・斎藤新五郎が越中中部から上杉軍を逐った。天正8年(1580年)3月、信長と本願寺に講和が結ばれた途端に北陸方面は活発化し、勝家は一向一揆の司令塔金沢御堂を攻め滅ぼして、軍を北加賀・越中境まで進めた。天正8年(1580年)11月、加賀一向一揆を制圧して、さらに能登・越中にも進出を果たした。また、佐久間信盛が失脚したことによって、名実ともに織田家の筆頭家老に位置することになる。 翌天正9年(1581年)2月28日、信長の京都馬揃えでは配下の前田利家ら越前衆を率いて、上洛し、参加した。また、この頃から対上杉政策の為か、伊達氏の家臣・遠藤基信と連絡を盛んに取り、伊達氏との外交政策の一端を担っている(伊達治家記録など)。 天正10年(1582年)、上杉氏方の越中国魚津城、松倉城(富山県魚津市)を攻囲中に本能寺の変があって織田信長が横死する。しかし勝家は上杉景勝の反撃に遭って越中国東部制圧に手間取り、京都に向かうことができなかった。最期本能寺の変後、織田氏の後継者問題では信長の三男・織田信孝の烏帽子親を務めていたこともあり、信孝を推したが、明智光秀を討伐したことで実績や発言力が大きかった羽柴秀吉(豊臣秀吉)が信長の嫡孫・三法師(織田秀信)を擁立したため、織田氏の家督は三法師が継ぐこととなり、信長の遺領配分においても河内や丹波、山城を増領した秀吉に対し、勝家は北近江3郡、長浜城(現在の長浜市)を得るにとどまり、勝家と秀吉の立場は逆転してしまった(清洲会議)。なお、この後に羽柴秀吉の仲介を受けてお市の方と結婚している(従来は信孝の仲介とされて来たが、秀吉の仲介の書状により、秀吉による仲介説が有力となっている)。その後勝家は滝川一益、織田信孝と手を結んで秀吉と対抗するが、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、越前北ノ庄にてお市とともに自害した。享年62。辞世の句は「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」。菩提寺は、福井県福井市の西光寺と滋賀県高島市の幡岳寺。位牌も現存している。 昭和3年(1928年)11月10日、宮内省より贈従三位に叙位された。 人物・逸話
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