トップページ > 山県昌景 |
|
|||
山県昌景 〜武勇・内政・外交の感覚に優れた武田家の軍政の中枢〜 |
||||
山県 昌景(やまがた まさかげ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で、武田四名臣の一人である。 生涯信玄時代飯富虎昌の弟とされているが、甥であるとも言われている(詳細は後述)。旧名は飯富源四郎。はじめ武田信玄の近習として仕え、続いて使番となる。信濃伊奈攻めにおいて初陣を果たし、神之峰城攻めで一番乗りの功名を立てた。天文21年(1552年)、信濃攻めの功績により騎馬150持の侍大将に抜擢される。その後も虎昌に勝るとも劣らない武者振りを発揮し、「源四郎の赴くところ敵なし」とまで言われた。永禄6年(1563年)、三郎兵衛尉を名乗る。その後も順調に戦功を挙げて、譜代家老衆に列せられて300騎持の大将となった。 しかし永禄8年(1565年)、信玄の嫡男・武田義信と彼の傅役だった虎昌が謀反を起こすと、血族である虎昌が関与している事を承知の上でこれを信玄に訴え、虎昌を誅殺する。この功績により虎昌の赤備え部隊を引き継ぐとともに、飯富の姓から信玄の父・武田信虎の代に断絶していた山県の名跡を与えられて山県昌景と名を改めた。板垣・甘利の両老臣亡き後、武田家の政治最高機関である「職」を原昌胤と共に務める。 その後も上野箕輪城攻略戦、駿河侵攻、小田原城攻めなど、信玄に従って主な戦争の大半に参戦して武功を重ねた。また、武勇だけではなく内政・外交の感覚に優れ、竜朱印奏者となり武田家の軍政の中枢に位置した。永禄12年(1569年)には駿河江尻城代に任じられた。 元亀2年(1571年)、武田軍の三河侵攻が活発化すると、山家三方衆のような三河の北部山間部を領有していた弱小領主を屈服させている。唯一、服属を拒んだ菅沼定盈に対しては同年4月28日に居城・大野田城を押し潰し、定盈を退散させた。この時の進撃はそれだけに止まらず、徳川における東三河最重要拠点の吉田城さえも攻囲。武田軍の威風を示した。 元亀3年(1572年)10月、信玄が上洛作戦を開始すると、信玄の下命で兵5000を率いた別働隊として信濃から三河に侵攻。武田氏に従属した菅沼氏や奥平氏などは山県の指揮下に組み込まれていたため、これらに先導させて三河東部の長篠城経由で浜松方面へ進軍。三河八名郡の柿本城、更に越国して遠江の井平城も落とし、南進。浜松城を圧迫する下地作りを完了させた上で信玄本隊に合流。同年12月22日には武田軍が圧勝した三方ヶ原の戦いにおいて徳川家康本陣に突進し、武田軍の背後を狙ったはずの家康軍を返り討ちにした。その後も効果的な追撃戦を展開し、家康に一時は自害を覚悟させたとまで言われている。 元亀4年(1573年)4月、信玄が病没した際、「わしの死を3年間秘せ。そして勝頼を補佐してくれ」、「明日は瀬田に旗を立てよ」と遺命を託され、馬場信春とともに重鎮の筆頭として信玄の嫡子・武田勝頼を補佐することになった。しかし、勝頼との折り合いは悪く、疎まれたという。 最期天正3年(1575年)の長篠の戦いでは撤退を進言したが容れられず、逆に「いくつになっても命は惜しいものらしい」と勝頼に皮肉られたという。しかしこれは後の創作らしい。 そして5月21日の設楽原決戦では武田軍左翼の中核を担い、徳川陣への突撃をかける。討ち死にを覚悟した上での奮戦は敵陣を切り裂き、ついには敵防衛の要・馬防柵を突破せん、という所で体中に銃弾を浴びて戦死する。この決戦で屈辱の大敗を喫した武田勢は数多の戦死者を出しているが、その多数は劣勢、乱戦状態、もしくは敗走退却中でのもの。武田軍が攻勢を保てていた中での戦死者は、昌景や土屋昌次などに限られてくる。一説によると昌景の最期は前田利家隊の銃弾に倒れた際、采配を咥えたままの壮絶なものだったとも、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱・昌輝兄弟等と同様に敗走退却中での戦死とも言う。享年47。長篠合戦屏風に、戦死した昌景の首級を家臣の志村光家が敵に奪われない様持ち去る描写がある。 人物
逸話
■その他戦国武将紹介についてはトップページまたはメニューから。 ⇒戦国武将大百科トップページ |
||||
copyright2009 "〜戦国最強徹底検証!〜 戦国武将大百科"サイト内の文章の複製は禁止しています。 |