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本田忠勝 〜参加した合戦は五十七回に及び、かすり傷一つ負わなかった〜 |
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本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総国大多喜藩初代藩主、伊勢国桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。 生涯安祥松平家(徳川本家)の最古参の安祥譜代の本多氏で、本多忠高の長男として天文17年(1548年)、三河国額田郡蔵前(愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれる。天文18年(1549年)、2歳の時に父・忠高が戦死し、叔父・忠真のもとで育つ。 幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する。このとき、同時に元服した。 永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、多くの本多一族が敵となる中で、一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して家康側に残り武功を挙げた。永禄9年(1566年)には19歳にして同年齢の榊原康政や本多正重、都築秀綱らとともに旗本先手役に抜擢されて、与力50騎を付属される。以後、忠勝は常に家康の居城の城下に住み、旗本部隊の将として活躍した。 元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加し、元亀3年(1572年)の二俣城の戦いの前哨戦たる一言坂の戦いで殿軍を努め、武田方の小杉左近から「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」との狂歌の落書をもって賞賛されたことが有名である(「唐のかしら」は家康が趣味で集めていたヤクの尾毛を飾りに使った兜を指す)。12月の三方ヶ原の戦いにも参戦した。天正3年(1575年)の長篠の戦いにも参加する。 天正10年(1582年)、本能寺の変が起きたとき、家康は忠勝ら少数の随行とともに堺に滞在していたが、家康が京都に行って信長の後を追おうと取り乱したのを忠勝が諌めて、「伊賀越え」を行わせたという。 鹿角脇立兜(現存しており重要文化財)がシンボルで、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでの活躍などにより、豊臣秀吉からも東国一の勇士と賞賛され、徳川氏が豊臣氏の傘下に入ると天正14年(1586年)11月9日、従五位下・中務大輔に叙位・任官された。天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると上総国夷隅郡大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)に康政と共に、家臣団中第2位の10万石(1位は井伊直政の12万石)を与えられる。江戸から遠くなっているのは、「譜代の将は敵が攻めてくる国境に配置する」との、家康の配置方針による。榊原康政は北の真田や上杉に対する備え、忠勝は安房の里見に対する備えである。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本軍に従軍し、諸大名に書状を送って東軍方につける工作にも活躍した 。この功績により、慶長6年(1601年)、伊勢国桑名藩(三重県桑名市)10万石(一説に15万石)に移されると、旧領・大多喜は次男・本多忠朝に別家5万石で与えられた。 晩年は、戦乱の収束により本多正純などの若く文治に優れた者(吏僚派)が家康・秀忠の側近として台頭してきたため、忠勝のような武功派は次第に江戸幕府の中枢から遠ざけられ、不遇であった。 慶長14年(1609年)6月、嫡男・本多忠政に家督を譲って隠居する。慶長15年(1610年)10月18日に桑名で死去した。享年63。 子孫忠勝の子孫は、その後転封を繰り返して、姫路藩などを経由し、三河岡崎藩5万石に落ち着いた。しかし忠勝の死後、その息子である本多忠政・本多忠朝を除いて、本多氏は幕府から重用されることは、ほとんど無かったと言われている。ただしこれは、歴代の本多家藩主が夭折・不行跡を繰り返したためとも考えられる。。 人物・逸話
蜻蛉切(とんぼきり)蜻蛉切は元々服部氏の所有であったが、本多忠勝が後にそれを譲り受けた。蜻蛉切は、忠勝が多くの功績を挙げた槍の号(あだ名)であり、その活躍により、この槍は「天下三名槍」の一つに数えられている。 穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つになったという逸話から、この名が付いた。茎には村正の一派と言われる「藤原正真作」の銘があり、刃長43.8cmの笹穂型の大身槍である。柄の長さは6mほどであったといわれる(通常の長槍は4.5m)。 しかし、晩年にはやはり体力の衰えが出てきたと見え、「槍は自分の力に合うものが一番」と言って槍の柄を短く詰めてしまった。岡崎城などでそのレプリカを見ることができる。 ■その他戦国武将紹介についてはトップページまたはメニューから。 ⇒戦国武将大百科トップページ |
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