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服部半蔵 〜「半蔵」が通称の服部半蔵家の歴代当主たち〜

 

服部 半蔵(はっとり はんぞう)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて松平氏、徳川氏の下で活躍した武士で、代々「半蔵」を通称の名乗りとした服部半蔵家の歴代当主たちである。忍者のイメージがあるが、本当に忍者だったのは初代だけで、2代目以降は忍者でないようである。有名なのは2代目である。

□初代 服部半蔵(半三)保長
 伊賀出身の忍者。生没年は不詳。伊賀を出て室町幕府12代将軍足利義晴に、続いて三河 にて松平清康に仕える。

□2代目 服部半蔵正成
 徳川家康に仕えた伊賀の支配役。いわゆる「服部半蔵」として世間でよく知られるのは 彼の事である。だがあくまで伊賀同心は配下の一部門であり、自身は甲冑を着て足軽を 率いた武士である。槍の名手として知られた。

□3代目 服部半蔵正就
 父である正成の死後、伊賀200人の支配を引継ぐ。しかし徳川家から指揮権を預けられた に過ぎない伊賀を家来扱いしたために配下の同心たちの反発を招き、ついに伊賀が寺に 篭って正就の解任を要求する騒ぎに至った。このため正就は伊賀の支配の役目は解かれ た。その後、大坂の役で行方不明になる。

□4代目 服部半蔵正重
 兄の後を継いで服部半蔵を襲名する。舅である大久保長安に巻き込まれて大久保長安事 件で失脚。その後各地を転々とした後、松平定綱に召し抱えられて二千石を得る。これ により桑名藩の家老として服部半蔵家は存続する(大服部家)。

2代目 服部半蔵について

本名、服部 正成(はっとり まさなり)。徳川十六神将、「鬼半蔵」の異名を取る。天正10年(1582年)、信長の招きで家康が少数の供のみを連れて上方を旅行中に本能寺の変が起こるが、このとき堺に滞在していた家康が甲賀・伊賀を通って伊勢から三河に抜ける神君伊賀越えに際し、先祖の出自が伊賀である正成は商人茶屋四郎次郎とともに伊賀、甲賀の地元の土豪と交渉し、彼らに警護させて一行を安全に通行させ伊勢から船で三河の岡崎まで護衛しており、彼らは後に伊賀、甲賀として徳川幕府に仕えている。

小牧・長久手の戦いでは、伊勢松島城の加勢で、伊賀甲賀者100人を指揮し、鉄砲で豊臣方を撃退している。(成島の改正三河後風土記)天正18年(1590年)の家康の関東入国後、与力30騎および伊賀200人を付属され8,000石を領めた。自身は武将であったが、父親が伊賀出身であった縁から、徳川家に召し抱えられた伊賀忍者を統率する立場になったという。

伊賀支配の役は嫡男の服部半蔵正就が継いだ。半蔵の屋敷が半蔵門の前にあり、家臣の屋敷は甲州街道沿いにあり、その門は半蔵門と呼ばれることになる。甲州街道は江戸城に直結する唯一の街道で、将軍家に非常事態が起こった場合には江戸を脱出するための要路になっていたといわれる。服部家の改易後は、伊賀組は江戸城内(大奥、中奥、表等)を警護し、甲賀組は江戸城の場外の門の警護していたという。

 
 
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