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井伊直政 〜"井伊の赤備え"と呼ばれる精鋭部隊の大将〜

 

井伊 直政(いい なおまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。井伊氏第24代当主。上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩の藩主。さらにその後に近江国彦根藩の初代藩主。徳川氏の家臣(家臣になった当時は外様)。徳川四天王の一人。自身が組織した井伊の赤備えは戦国屈指の精鋭部隊として特に有名である。徳川氏きっての政治家・外交官としても名高い。

遠江国井伊谷の出身で若手の武将でありながら、柳営秘鑑では榊原氏や鳥居氏と並び、三河岡崎御普代として記載されている(譜代の最古参は、安城譜代)。また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となった人物であり、現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。

生涯

家康の家臣になるまで

永禄4年(1561年)2月19日、今川氏の家臣である井伊直親の長男として、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で生まれる。井伊氏は先祖代々、井伊谷の国人領主であり、直政の祖父(または一族)井伊直盛は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死した。父の井伊直親は、直政の生まれた翌、永禄5年(1562年)に謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺される。直親の死によって、遺児直政(当時の名は虎松)は僅か2歳であったため、新たに直親の従兄妹に当たる祐圓尼が井伊直虎と名乗り、中継ぎとして井伊氏の当主となった。その後、直政の生母は今川氏の家臣である松下清景と再婚したため、井伊氏の家督相続権を失う。

しかし、やがて井伊氏は井伊谷の所領を失い、まだ幼かった直政も今川氏に命を狙われる日々を送っていたが、新野親矩に救出されて、その後は養母である直虎に育てられた。天正3年(1575年)、徳川家康に見出され、井伊氏に復することを許され虎松を万千代と改めて、万千代と名乗るようになる。さらにかつての井伊氏の旧領である井伊谷を与えられ、家康の小姓として取り立てられた。同年、家督を代行していた養母の直虎が亡くなったため、正式に当主となった。

安土・桃山時代

直政は、高天神城の攻略を初めとする武田氏との戦いで数々の戦功(家康の寝所に忍び込んで来た武田軍の忍者の討ち取りなど)を立て、その勇名を轟かせた。天正10年(1582年)、22歳で元服を終え、直政と名乗る。この年、家康の養女で松平康親の娘である花(後の唐梅院)と結婚する。その後、旗本先手役に任ぜられて、家康子飼いの武将である本多忠勝榊原康政の同僚となる。同年の本能寺の変では、家康の伊賀越えに従い、無事に滞在先の堺から三河国に帰還する。

さらに武田氏が滅亡した後、北条氏との交渉で徳川方の使者として政治的手腕を発揮し、家康が武田氏の旧領である信濃国、甲斐国を併呑すると、武田家の旧臣達を多数与力に付属され、山県昌景の朱色の軍装を復活させて井伊の赤備えと呼ばれる精鋭部隊の大将となった。また、同時に井伊谷4万石に加増された。

直政は家臣に非常に厳しく、少しでも戦で失敗をした者がいれば容赦せず処罰し、一軍の将となっても自ら先陣に立って戦うことを好むなど激烈な性格で、短所も多かった。そのため、戦の際に陣に留まって指揮を執ることはほとんどなく、筆頭家老である木俣守勝がその役目を果たしたという。「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられた。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは初めて井伊の赤備えを率いて池田恒興を討ち取るなどの武功を挙げ、一躍天下に名を知られるようになる。直政の武力・政治的手腕は豊臣秀吉にも高く評され、家康と秀吉が和解すると、従五位下侍従・兵部少輔に叙任される。天正13年(1585年)には真田攻めにも出陣する。この後、井伊谷6万石に加増される。

直政は新参ながら数々の戦功を評価され、天正18年(1590年)の小田原の役では数ある武将の中で唯一夜襲をかけて小田原城内にまで攻め込んだ武将としてその名を天下に轟かせる。その後、北条氏に代わって家康が江戸に入ると、直政は上野国箕輪城12万石(群馬県高崎市)に封ぜられる。石高は徳川氏家臣団の中で最高で、因みに10万石以上を与えられた者は、直政、本多忠勝榊原康政の3人のみである。慶長3年(1598年)には、家康の命によって箕輪城を廃し、南の和田城を改築して高崎城と改称して新たな居城とした(地名の由来に関しては高崎市の項目を参照)。この時、箕輪城下に住んでいた民衆達も高崎に移っている。

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行し、本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在となった。同時に全国の諸大名を東軍につける工作を行い、また合戦においても家康の四男・松平忠吉(直政の娘婿)をよく補佐して忠吉と共に当初、東軍の先鋒を任されていた福島正則を差し置いて先鋒を務めた(本来ならば、直政も忠吉も軍令違反で処罰の対象になるが、家康は直政の駆け抜けを認めたため、処罰を命じなかった)。その後の直政と忠吉の行動に関しては2つの説がある。1つは宇喜多秀家の軍・小西行長の軍と戦ったと言う説。もう1つは、敵中突破退却を図ろうとする島津義弘の軍と戦ったと言う説。最近では島津軍と戦ったという説が有力であるとされており、直政は開戦当初から義弘の軍と戦う決意を固めていた。この戦いで義弘の甥である島津豊久を討ち取った。しかし、義弘の軍を追撃している際に敵の銃弾が右肘関節(記述によっては右肩または左腕)に命中し、落馬してしまう。

関ヶ原の戦いの後は西軍の総大将を務めた毛利輝元との講和、山内一豊の土佐入国の援助、徳川氏と島津氏の和平交渉の仲立ち(直政自身は和平交渉が完全に終了する前に亡くなったので、その後の和平交渉の仲立ちの役目は本多正信に引き継がれた)などと言った戦後処理と江戸幕府の基礎固めに尽力し、これらの功によって、石田三成の旧領である近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を与えられた。

また、この頃家康が直政・大久保忠隣・本多正信本多忠勝榊原康政・平岩親吉ら6人の重臣を呼び集め、自分の世嗣を誰にするか尋ねているが、直政はこの時自分の娘婿である忠吉を推している。しかし結果的には忠隣が推した徳川秀忠が世嗣となった。

江戸時代

慶長7年(1602年)2月1日に、おそらくは長年の家康に対する奉公による過労と関ヶ原で受けた鉄砲傷が癒えないまま、破傷風が元で死去した。直政が死去した当初、地元の民衆達の間で三成の亡霊が城下を彷徨っているという噂が広まって、このことが家康の耳に入り、家康の命によって、佐和山城を始めとする三成に関係する物の全てを廃した。

その後、彦根城の築城が開始されると同時に佐和山藩は廃藩となった。代わってこの地には新たに彦根藩が置かれた。それ以来、この地は明治時代になるまで井伊氏の藩として大いに栄えることとなった。

家康は、非常時に皇室を守るため、京都に近い彦根に代々勤皇の家柄である井伊家を配したと伝えられ、これを見ても徳川家から強い信頼を受けていたと考えられる。

井伊氏の跡継ぎ問題に将軍家が口出しをすることもあった。実際、直政の次男である井伊直孝を彦根藩の第2代藩主(記述によっては第3代藩主)に命じたのは家康である。

家康との衆道による関係

天正3年(1575年)のある日、家康は鷹狩りに出かけた。すると、家康はそこにいた少年のあまりの美しさに本気で惚れ込んでしまった。この少年こそが、後の直政(当時の名前は虎松)だったのである。その後、家康は直政がかつて桶狭間の戦いの後に自分と内通していた疑いで殺害された井伊直親の実子であることを知り、直政を自分の小姓(児小姓)として取り立て、衆道相手として深く寵愛したとい。当時の武士階級では衆道は武士の嗜みともいわれるほど一般的であり、主君の寵童出身であることは出世への近道でもあった。直政は衆道をあまり好まなかった家康が唯一愛した男性とされる

直政の忠義

直政は家康に対する忠義心が最も篤かった。直政は常に家康の片腕として彼の下を離れず、戦だけでなく、政治や私生活の面でも全力で家康のために働き続けたことがその証拠と言える。また、家康を裏切り、秀吉の下に寝返って家臣となった石川数正には激しい憎しみを抱いていた。実際に直政は、自分の怒りを数正にぶつけたことがあった。なお、家康自身も直政の武力や政治的手腕における才能を高く評価し、直政を我が子または恋人のような扱いをして]見守り続けていた。これらのようなことから、直政は家康に最も厚く信頼されていた家臣だとされている。

井伊の赤備え

天正10年(1582年)の後北条氏との講和によって、武田氏の旧臣達約120人と家康の旗本の一部が配属されたことから始まる。この時、直政は兜や鎧を始めとする戦で使用する全ての装備品を赤色で統一させた。これはかつて武田の赤備えの将であった山県昌景の意志を継ぐという意味もあったが、その他に赤色だと目立ちやすく、戦の最中にどこに自分の部下達がいるのかが一目で分かるという意味もあった。初陣の小牧・長久手の戦いでは大いに活躍し、徳川・織田連合軍の約10倍近くの兵を有していた羽柴軍の総大将である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)やその配下の武将達もこの井伊の赤備えには大変手こずったという。この頃から井伊の赤備えは、「戦国屈指の精鋭部隊」または、「徳川家臣団最強の部隊」と見なされ、諸大名に恐れられるようになる。以後、井伊氏の軍装は幕末まで赤備えを基本とされた。

人物・逸話

  • 直政がまだ家康の小姓だった頃、大久保忠世の陣中に招かれて他の若手の武将とともに芋汁を振舞われた。だが、戦場の事であり味噌は糠味噌、具は芋の葉や茎が混ざったものであった。だが、他の若い武将は芋汁を食べているのに、直政の食は進まない。忠世がどうしたのかを尋ねると、直政は「醤油はありませんか」と応じた。このことを聞いた他の武将達は「ここは戦場だと言うのにそのような物があるわけがないだろう」と口々に直政を非難した。忠世は直政に「同僚の者たちは皆、同じものを食べている。兵士達はこのような物でも満足には食べられない。ましてや農民達の中にはもっと苦しい生活をしている者達もいる。一軍の将になりたいのであれば、このことを絶対に忘れてはならぬぞ。そのためにここへ呼んだのだ」と言った。新参でありながらも若くして選抜され、部下にも厳しかった直政に対する周囲の目は厳しかった。これ以後、直政はよりいっそう自分にも部下にも厳しくなっていくのである(ちなみに、ここで伝えられる醤油は、味噌を作る際の「たまり」であるため、現在の醤油とは異なる。現在のような醤油が作られるようになったのは江戸時代になってからである)。
  • 直政は、三傑・徳川四天王十六神将の一人とされており、家康の天下取りを全力で支えた功臣として、現在も顕彰されている。その一例として、滋賀県彦根市では、直政が現在の彦根市の発展の基礎を築いたということを顕彰して、「井伊直政公顕彰式」という祭典が毎年行われている。
  • かつて、家康が豊臣秀吉の生母である大政所を人質にとった際に直政は大政所の警護を任されていたことがあった(この時、大政所やそれに従ってきた数多くの女性達も家康のように直政に惚れ込んだと言われている])。直政の手厚い保護に秀吉は大変喜び、自ら茶を立てて直政の疲れを癒そうとした。そこには、かつては家康の家臣であったが、今は秀吉の下に寝返って家臣となった石川数正も同席していた。このことに我慢ができなくなった直政は数正に向かって、「先祖より仕えた主君に背いて殿下に従う臆病者と同席すること、固くお断り申す」と怒鳴った。これはいかに直政が家康に対して忠義を尽くしていたかを伺える何よりの証拠と言える(秀吉自身は直政が数正に対してどのような態度を見せるのかを知りたくて数正を同席させた])。なお、数正が秀吉の下に去ったのは天正13年(1585年)で、この事件が起こったのはその1年後の天正14年(1586年)である。
  • 先祖代々、徳川氏の家臣ではない直政を家康が重用した理由は、直政が武勇だけではなく、知略や政治にも長けていたことや家康の四男・松平忠吉との姻戚関係のことももちろんだが、最大の理由は、直政があまり衆道を好まなかった家康に本気で惚れ込まれるほどの美男子だったからだと言われている
  • 関ヶ原の戦いの後、直政は石田三成の旧領を家康から賜ったが、三成は善政を敷いていたため、領民の信望が厚かった。直政はこのことを熟知していたため、佐和山城に入城すると、民政は三成のやり方を踏襲すると触れを出し、領民が三成を弔うことも黙認した。そのため、領民の心をつかむことに成功したという。また、三成が処刑される前、直政は三成の面倒を任されており、あまり三成に好感を抱いていなかったが、三成を手厚く保護した。
  • 直政は徳川家中の中では外様でありながら、徳川家臣随一の領国を与えられていた。このため、三河譜代からの家臣から嫉妬、反発されたが、直政はそれに対して常に家康に奉公することで退けたという。ただし、そのあまりに厳しすぎる奉公ぶり、そして直政自身は気性が激しく、家臣のわずかな失敗も許さずに手討ちにすることも少なくなかったため、「人斬り兵部」とも称されたという。しかし、政治的手腕は非常に優れていたため、箕輪城主の頃は、城下の民衆から慕われていた。
  • 大身になる前の頃、直政がどうしても強請るので家康が数ある愛馬の中から、特に栗毛の名馬を直政に与えた。これを聞いた本多重次がわざわざ直政のいるところで、「あのような名馬を万千代みたいな子倅にくれてやるとは、殿も目が暗くなったのではないか」といった意味のことを放言した。年が下って家康が関東に移ると直政は家中一の大身となったのに対し、重次は3000石しか与えられなかった。そして、大身になった直政は重次と顔を合わせた時、「昔、殿が名馬を下さった時に子倅だの何だのと馬鹿になされましたが、このような大身になれたのは、名馬に違わぬ働きをしたからでございます。目が暗かったのは本多殿の方でありましたな」と言い放った。このことから、直政は人に言われたことをすぐ根に持つタイプ、すなわち負けず嫌いであったということが分かる(「井伊年譜」)。
  • 毛利家の重臣である小早川隆景は直政の武勇・政治的手腕に関して「直政は小身なれど、天下の政道相成るべき器量あり」と評価したことがある。これは直政がその気になれば、天下を取ることもできるということを意味している(隆景だけでなく、地方の武将達も同じようなことを噂していた)。
  • 井伊の赤備えは、戦国屈指の先鋭部隊として天下に名を轟かせていたが、家臣達の中には直政による厳しい軍律に耐えられなくなり、本多忠勝の下に去る者達も多かったという。近藤秀用などのように出奔してしまった例もある。筆頭家老である木俣守勝ですら、直政の下にいるのが怖くなり、家康に旗本に戻してくれるように頼んだ。
  • 一時期滅亡していた井伊氏をわずか一代で再興させ、さらに江戸幕府の譜代大名の筆頭にまで成長させた。
  • 直政は徳川氏の家臣の中で秀吉から最も気に入られていた陪臣であったため、秀吉からも厚い信頼を受けていたが、一説では、直政自身は秀吉をあまり快く思っていなかったとも言われている。その理由は、小田原の陣の後、突然、秀吉が家康が何十年間も苦労して手に入れた三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の5カ国の領地を没収して、その代わりに後北条氏の旧領である武蔵、伊豆、相模、上野、下野、上総、下総の7カ国に移封したことを不満に思っていたためだと言われている。また、直政だけでなく、他の家康の家臣も同じようにこのことを不満に思っていたとされている
  • 関ヶ原の戦いの後、直政は近江国佐和山18万石を与えられたが、自分が嫌っていた石田三成の旧領であったため、直政自身はあまり納得しておらず、家康に上野国高崎に戻してもらうように頼んだ。
  • 武家社会において、主君が亡くなった時に家臣が殉死することは当たり前であったが、直政の遺言を守った井伊家では殉死者が一人も出なかった。
  • 生涯に参加した57回の戦で軽装備であったにもかかわらず、一度も傷を負わなかった本多忠勝に対して、直政は重装備であったが、戦で常に傷を負っていたという。一方で生涯に参加した戦は16回であり、いずれの戦でも直政が負けたことは一度もないと言われている(井伊の赤備え自体は大坂冬の陣で真田信繁率いる真田の赤備えと戦って敗北している)。このため、直政はかなりの強運の持ち主であったとされている。また、上記のように直政と忠勝は度々比較の対象となったりすることがあり、この2人はお互いにライバル同士であったため、あまり仲がよくなかったとされる(記述によっては忠勝だけが直政をライバル視していたとされることもある)。なお、忠勝と同年齢の榊原康政とは、最初はあまり仲がよくなかったとされるが、家康が関東に入国してから共に行動をすることが多くなり、段々と仲がよくなっていったとされている。家康の筆頭家老である酒井忠次も家康と同じように直政に対して暖かい目で見守っていた。ちなみに忠次は直政がまだ一軍の将になったばかりの頃に康政がそのことを妬んだために叱ったことがある。
  • ある時、家康は直政の家臣達を1つの場所に集めて、直政の衣服を脱がせて体に残っていた戦傷の一つ一つを涙ぐみながら説明したという(家康は直政が常に戦で戦傷を負うことをいつも気にしていたという])。このことを聞いた直政の家臣達も家康を見てもらい泣きをし、自分達も主君である直政のために全力で武功を挙げようという決意をした。
  • 関ヶ原の戦いの後、直政は西軍の一員であった島津義弘から家康との和平交渉の仲立ちを依頼された(徳川氏の家臣の中に政治を専門とする本多正信がいるにもかかわらず)ことからその政治的手腕は、他家の者達に知れ渡っていたと思われる。
  • 直政は思慮深く、口重であったため、度々家康の内々の相談相手になっていたと言われている。そのため、他人を評価することがめったにない家康は、直政のことを「余人がいない時に直政が意見を出してくれる」と高く評価している。
  • 直政は石川数正と並んで徳川氏の家臣の中でも数少ない外交官として、大いに力を発揮し、また、家康から見て本多正信と並んで天下取りの知恵袋とされていた。
  • なお、直政が兵部少輔に叙任されたのは、最初に赤備えを組織した武田氏の家臣である飯富虎昌が兵部少輔を称していたためだとも言われている]
  • 直政は正室である唐梅院に対してはかなりの恐妻家で、誰よりも負けず嫌いであった直政もこの唐梅院だけには頭があがらなかったという。直政の次男である直孝は唐梅院の侍女を母に産まれたとされるが、直政は直孝の誕生後、十年近くも対面しようとしなかった。唐梅院に対し大いに遠慮していたためと思われる。
  • 関ヶ原の戦いの後、江戸から離れた領地に移封されて政治の表舞台からも姿を消している。かつての功績があまりにも大きいため家康に冷遇されたとも言われるが、直政は関ヶ原の戦いでの戦傷が元で破傷風を起こしているため病気で出仕できなかったとの見方が大勢である。
 
 
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