戦国最強は誰だ!?徹底検証!   
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立花宗茂 〜連歌・茶道・香道・蹴鞠・狂言・剣術などに長ける文武両道の名将〜
 

立花 宗茂(たちばな むねしげ、永禄10年11月18日(1567年12月18日)? - 寛永19年11月25日(1643年1月15日))は安土桃山時代の武将。大友氏の一族。江戸時代前期の大名。陸奥棚倉藩主。のちに筑後柳河藩の初代藩主。関ヶ原で改易後、大名として旧領に復帰した唯一の武将である。

  • 宗茂は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えている。本項では便宜を以て宗茂と表記を統一する。
  • 大正4年(1915年)11月10日に贈従三位。

生涯

少年時代

永禄10年(1567年)11月18日、大友家の重臣・高橋鎮種(吉弘鎮理・紹運)の長男として生まれる。

宗茂が8歳の時、見世物があった。見物中、群集の中で争論が起り、ついには殺される者がでた。人々は慌てふためき逃げ散る中、宗茂は少しも恐れる様子もなく「今日の見世物はこれで終わりか」と付き添いの者に尋ねた。早く逃げましょうという付き添いに対し宗茂は笑って「お前たちが慌てるとはおかしな事だ。我々はあの争論の相手ではないのだから、どうしてこちらに切りかかってくることがあろうか。まだ見世物も終わっていないのに、ここから立ち去る必要もあるまい」といい、すべてを見終ってから帰ったという。

立花家相続

天正9年(1581年)、男児の無かった大友氏の家臣・戸次鑑連(立花道雪)は立花氏の跡継ぎとして高橋紹運の子の高橋統虎(むねとら、宗茂の初名)を養嗣子として迎えようとした(道雪と紹運は共に大友氏の庶流にあたる)。紹運は宗茂の優秀な器量と、高橋氏の嫡男であるという理由から最初は拒絶しようとしたが、道雪が何度にもわたって請うてきたために拒絶できず、宗茂を道雪の養子として出している。このとき、宗茂は実質的に立花家の家督を継いでいた道雪の娘・ァ千代と結婚して、娘婿となることでァ千代に代わって道雪から家督を譲られたが、ァ千代とは険悪な仲だった上に子に恵まれず、道雪の死後程なくして、二人は別居したという。

同年7月(一説は11月6日)、父とともに出陣し、対秋月氏戦の嘉麻、穂波の戦い(潤野原の戦い、八木山の戦いともいう)で初陣を飾る。その帰還途上の大友勢を秋月氏は追撃し、石坂で両軍は接触、戦闘となった。この合戦の宗茂は騎射で秋月方の勇将堀江備前の左腕に鏑矢を命中させた、左腕の自由を奪われた堀江は大長刀を捨て、すぐに宗茂に組みかかって来たが、相撲得意の宗茂は彼を壓制し、家臣の萩尾大学が堀江を討ち取って手柄を立てた。天正12年(1584年)8月、道雪・紹運の両将は大友氏の筑後奪回戦に参加するべく出陣。宗茂は道雪出陣後の立花山城の留守を預かる事となった。この時、秋月種実率いる八千の兵が攻め寄せたが宗茂は夜襲や火計でこれを撃破した。

豊臣時代

天正14年(1586年)、島津忠長・伊集院忠棟率いる島津軍が筑前に侵攻し、父の紹運は岩屋城にて徹底抗戦の末に玉砕した(岩屋城の戦い)。このとき宗茂も立花山城で徹底抗戦を行い、積極的に遊撃戦術を使った。更に詐降の計を用いて島津本陣への奇襲を成功させ、数百人の首級をあげた。島津軍は紹運との戦いですでに消耗していたため、立花山城を攻めあぐんで撤退した。このとき宗茂は、島津軍を追撃、高鳥居城を攻略、岩屋・宝満の2城を奪還する武功を挙げている。その時、大友宗麟から豊臣秀吉へ「義を専ら一に、忠誠無二の者でありますれば、ご家人となしたまわりますよう」と要請された。

その後も秀吉の九州征伐で活躍し、戦後、秀吉はその功を認めて筑後柳川13万2000石を与え、大友氏から独立した直臣大名に取り立てた。このとき秀吉は宗茂を「その忠義も武勇も九州随一である(原文:その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。)」「九州の逸物」と高く評価したという。

天正15年(1587年)、佐々成政移封後の肥後国で、大規模な国人一揆が発生したときは、1日に13度もの戦いを行い、一揆方の城を7城も落とし、650余の敵兵を討ち取るという武功を上げている。このとき、参陣中に小早川隆景を義父とし、小早川秀包とも義兄弟の契りを結ぶ。天正18年(1590年)、小田原征伐に従軍する。このとき、秀吉は諸大名の前で「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と、その武将としての器量を高く褒め称えたという。

文禄の役

朝鮮出兵頃より宗茂は、旧主家であった大友義統(吉統)の偏諱を受けた統虎という名乗りから宗虎へ名乗りを変更している。文禄元年(1592年)からの文禄の役では小早川隆景を主将とする6番隊に2,500人の軍役を課せられて参陣している。漢城会議で全羅道の攻略が割り当てたられた6番隊は忠清道から南下したが、錦山、梁丹山で数次にわたる朝鮮軍や義兵の趙憲、霊圭の攻撃を受けて後方を脅かされたため侵攻は停滞した。また、7月に遼東から来た明の援軍である祖承訓が平壌を攻撃したことにより主力の小早川隆景が漢城方面へ転出したため、宗茂などの残存兵力は全羅道の入り口の錦山や茂朱の拠点を維持するにとどまり、後に宗茂なども漢城方面への転出を命じられたため全羅道攻略を果たせなかった。

文禄2年(1593年)、李如松の率いる明軍主力が小西行長を攻撃して平壌を攻略し、更に南下を始めると日本軍は迎撃を企画し碧蹄館の戦いでは宗茂と弟高橋直次が先陣と成り、鉄砲の速射や奇襲戦を活用し、大きな被害を出しながらも明軍を食い止めたために戦機が生まれ小早川隆景などの本軍が明軍を撃破した。小早川隆景は「立花家の3000は他家の1万に匹敵する」と評価し、秀吉からも感状を拝領した。また6月の第二次晋州城攻防戦では、隆景などの5番隊として明・朝鮮軍の後巻き部隊を牽制し、援軍を寄せ付けなかった。

上記とは別に次の武勇伝が伝わっている。

  • 攻城戦前、晋州城東北方の星州一帶に明将劉挺は数万の明、朝鮮援軍を集結、6月13日、配下の琳虎というの武将が明、朝鮮軍4万を率いて晋州城へ進軍、その対応のため、第六軍の立花宗茂と小早川秀包とともに兵4千で星州へ行って撃退している。この戦闘については『懲録』では朝鮮の救援要求に明軍は動かなかったとあるので疑問がある。

慶長の役

慶長2年(1597年)、慶長の役では侵攻軍には編入されずに安骨浦の守備を命ぜられた。侵攻軍のうち井邑会議に参集した諸将は今後の作戦展望として連署注進状を秀吉に送っており、その中で「南部再布陣の当初計画では釜山の守備について日本と結ぶ重要拠点であるため、当初計画の若い立花宗茂からベテランの毛利吉成に変更したい」との要請を行い、最終的に吉成は釜山、宗茂は固城の守備が割り当てられた。続く、第一次蔚山城の戦いでは固城倭城の守備に就いており戦闘には参加しなかったとされる(島津義弘が1月6日付で石田三成に送った書状には「鍋島直茂・勝茂親子が蔚山へ救援へ出たために馬山倭城が空になった。竹島にも場合によって後詰めを行うと宗茂から連絡があった」との記述がある。固城倭城は馬山倭城と泗川倭城の間に位置する)。

慶長3年(1598年)9月、明・朝鮮軍による蔚山・泗川・順天への三方面同時攻勢の際には、固城の守備に就いていた宗茂は島津忠恒より泗川攻撃の通報を受けて9月28日付書状で返信を行っており、戦闘には参加しなかった。

秀吉が死去すると朝鮮に派遣されていた日本軍に撤退命令が下ったが、順天倭城で小西行長らが海上封鎖を受け撤退を阻まれていることを知ると、弟の高橋統増(立花直次)、島津義弘、宗義智、寺沢広高らと共に水軍を編成して救援に向かい、陳リン率いる明水軍や李舜臣率いる朝鮮水軍と戦い、小西らの救出を成功させた(露梁海戦)。

上記の他に次のような武勇伝も伝わっている。

  • 慶長3年(1598年)1月2日、明将高策率いる明軍2万2千、朝鮮軍3万は日本軍本陣を偸襲するために釜山へ進軍、般丹に現れた。本陣の宇喜多秀家は、宗茂を呼びかけて釜山へ出撃を求めた。宗茂は8百の兵を率いて高策2万2千の兵を夜襲と火計を使い撃破、7百の首を取った戦功を挙げ、これは般丹の戦いを称えたという。)。
  • 明将・麻貴率いる明・朝鮮軍2万9500人が蔚山倭城を再度攻撃し(第二次蔚山城の戦い)、守備に当たった加藤清正が包囲され窮地に陥っていることを知ると、釜山で近所の日本軍諸将は会議を行う。日夜対策が評議されたがなかなか結論が出ず、辛抱強く議論を聞いていた宗茂もさすがにしびれを切らし「評定のみに日を送っても無駄なことです。思いますに、まず蔚山城の敵を追い払えば泗川の敵は退き、泗川の敵が退却すれば順天の敵もおのずから退却いたすでありましょう。拙者が蔚山城を救援いたしましょう」と進言した。それを聞いた小早川秀秋は「それはよいことを申された、わずか3,000にも満たない兵であれば、万一やり損なっても味方の難儀にはなりますまい」と言い放った。宗茂はわずか1千の兵を率いて救援に駆けつけ5百の兵を率いて夜襲を敢行、別の5百兵が鉄砲で攻撃し明軍の先陣5,000人を撃破し、その後は偽情報を拡散するために先の夜襲した際の捕虜40人余を解放し、その夜、偽の陣地や營火と伏兵を使って明軍を引して分断包囲撃破し、翌日蔚山城に到着、加藤清正を援助した 。その後、清正も5,000の軍勢で明軍を追撃し、戦後とともに蔚山城を入り、清正から「日本軍第一の勇将」と絶賛され。

なお、これらの武勇伝は同時代史料に記録が無く、話の信憑性には疑問符が付く。

関ヶ原

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、その直前に徳川家康から法外な恩賞を約束に東軍に付くように誘われたが、宗茂は「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い拒絶した。家中でも重臣の1人・薦野増時(立花賢賀)は西軍に勝ち目なしと東軍への味方を進言したが、「勝敗に拘らず」と薦野増時を留守に残し西軍に参加。そして石田三成率いる西軍に属し、伊勢方面に進出する。

その後、毛利元康、毛利秀包(小早川秀包)、宗義智、筑紫広門と共に東軍の京極高次が守る大津城を攻めた、この時、宗茂は塹壕を掘り起こして、ここより兵士に鉄砲射撃を行わせた、そして養父道雪の発案した「早込」(「早合」ともいう。一発分の火薬を詰めた竹筒の束を鉄砲隊の肩にかけさせる工夫)で、立花勢は他家の鉄砲隊の3倍速で銃撃し、一番乗りを果たしたという。しかし、9月15日の関ヶ原本戦には大津城を攻めていたために参加できず、本戦での西軍壊滅を知って大坂城に引き返した。

大坂城に退いた後、宗茂は大坂城に籠もって徹底抗戦しようと総大将の毛利輝元に進言したが、輝元はその進言を容れずに徳川家康に恭順したため、宗茂は自領の柳川に引き揚げた。なお、柳川に引き上げる時に実父・高橋紹運の仇である島津義弘と同行した。関ヶ原での戦で兵の殆どを失っていた島津義弘に対し「今こそ父君の仇を討つ好機なり」といきり立つ家臣たちの進言を「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と言って退け、むしろ島津軍の護衛を申し出でて島津義弘と友誼を結び、無事に柳川まで帰りついた。

しかしその後、加藤清正や鍋島直茂、黒田孝高(如水)が柳川を攻める形勢となった。10月14日、鍋島勢3万2千(『葉隠』聞書第六によると1万2千、『太宰管内誌』は2万余、『立斎旧聞記』は1万余としている)は二手に分かれて佐賀を進発。これに対し、立花勢は迎撃のために出陣するが、家康への恭順を示すため宗茂は城に残った。立花勢1万3千のうち、城を出て八院方面へ出陣したのは家老の小野鎮幸を総大将とする約3千人(一?2千、うち小野の直卒する中軍は1千余騎)である。鍋島軍は、10月16日には筑後川を渡河し立花方の海津城を落城させ、続いて19日朝には城島城を攻略、翌20日には江上八院で立花勢本隊と激突した。

激昂の立花勢先鋒安東久照、石松政之らは次々と鍋島勢十三段の軍陣の中へ突入し、立花統次はその九段までも進んで奮戦した、鍋島勢の先鋒鍋島茂忠は一度命危の状態になって本陣の五反田へ撤退したといわれている。しかし、一騎駆で敵軍に突撃の立花統次の戦死を始め、たちまち反撃を受け、救援出撃の第2陣を指揮していた立花鎮実と鎮実の若い次男立花親雄(善次郎?17才)は後を断たれて戦死した。新田鎮実(平右衛門、掃部助)、第3陣の若武者十時惟久(新五郎?16才)、先鋒の安東久照、石松政之も次々と戦死した。総大将の小野鎮幸は本陣前の橋に堅守、鍋島勢の包囲を受け、緒戦で小野の部隊は勇戦奮戦したが、たちまち鍋島軍の反撃を受け、小野隊は供回りが14、5人になるまで討ち取られた。小野自身も銃創と矢傷を負い、戦死寸前であったが、もとに水田方面の黒田如水の軍陣を偵察するの立花成家が別動隊三百を率いて敢然と奇襲をかけ鍋島勢を混乱させた隙に無事撤退した。

剛勇を以ってなる立花勢は尚も柳川城へ篭城する構えを示したため、鍋島勢はそのまま柳川城を乗りつぶそうとしたが、鍋島直茂がこれを抑え、黒田如水、加藤清正が説得に動き、立花宗茂は降伏開城した。

島津義弘は国許へ帰ると、宗茂から受けた恩義に報いるために柳川への援軍を送った。しかし、援軍が柳川へ到着したのは開城から3日が過ぎた後だったという。

江戸時代

関ヶ原後は改易されて浪人となる。その器量を惜しんで清正や前田利長から家臣となるように誘われるが、宗茂はこれを拒絶した。そこで清正は家臣にすることを諦め、食客として遇したという。しかし彼の実力をよく知っていた徳川家康からの熱心な引き合いは断り難かったようで、慶長8年(1603年)、5000石で幕府の御書院番頭(将軍の親衛隊長)として召し出され、まもなく陸奥棚倉に1万石を与えられて大名として復帰した。翌年には同地で1万5500石、慶長15年(1610年)には9500石の加増を受け、最終的に3万5000石を知行し、この頃から宗茂と名乗っている。

大坂の陣のとき、家康は宗茂が豊臣方に与するのを恐れて、その説得に懸命に当たったという、そして大坂夏の陣は将軍・徳川秀忠の麾下に列してその警固を担当し、毛利勝永と交戦している。そして元和6年(1620年)、幕府から旧領の筑後柳河に10万9200石を与えられ、大名として完全に復帰を果たした。また、戦国武将としては世代が若く、伊達政宗や加藤嘉明、丹羽長重らとともに、秀忠から将軍職を譲り受けた徳川家光に戦国の物語を語る相伴衆としての役目も果たした。なお、相伴衆となった晩年は秀忠・家光に近侍し、重用されたようで、将軍家の茶会や諸大名の屋敷が完成した際の披露会などに頻繁に将軍と共に随伴している。その為、国元にはほとんど帰れず、特に家督を譲った後は、江戸に屋敷を構えて定住し、その傾向は一層強くなり、本領の統治にはほとんど関与せず、幕府の中枢を知る人物として地方の大名とのパイプ役を果たすという役割の方が強くなっている。

寛永14年(1637年)には島原の乱にも参陣し、戦略面の指揮、有馬城攻城時には昔日の勇姿を見せた。諸大名は武神再来と嘆賞する。翌年、家督を養子・立花忠茂に譲って致仕・剃髪し、寛永19年(1642年)、江戸柳原の藩邸で死去。享年76。戒名は大円院殿松陰宗茂大居士。俗名の宗茂がそのまま入っているのは、宗茂の名があまりに有名でありすぎるため、変えるに変えられずそうなった、との逸話が伝わる。

人物

  • 『名将言行録』では、宗茂のことを「人となり温純寛厚。徳ありて驕らず。功ありて誇らず。人を用ふる、己に由る。善に従ふ。流るるが如し。奸臣を遠ざけ、奢侈を禁じ、民に撫するに恩を以てし、士を励ますに、義を以てす。故に士、皆之が用たるを楽しめり。其兵を用ふるや、奇正天性に出づ、故に攻めれば必ず取り、戦へば必ず勝てり」と高く評価されているように、宗茂はその才能を、豊臣秀吉や徳川家康からも高く評価されていた。また、宗茂の関ヶ原の戦い後からの大名としての復帰も、幕府が寛大な処置を取った稀有な例である。
  • 少年時代、道雪の供と一緒に近くの山を散歩中、棘の付いた栗を足で踏み抜いた。当然の如く、近習の者に「これを抜いてくれ」と頼むと由布惟信が駆けつけ、抜く所か逆に栗を足に押し付けた、叫び声を上げようにも近くの駕籠の中からは養父の道雪が眉を吊上げて見ており、叫ぶ事も出来ずに大変困ったと後年述懐したそうである。お坊ちゃま育ち故、立花氏に来てからは大変厳しく教育された。
  • 立花家へ養子に出される際に実父・高橋紹運より、高橋と立花の間に戦が起こった場合はなんとすると問われて、高橋に味方すると答えたところ、養子に行ったならばもはや高橋の人間ではない。立花の人間として、高橋と戦えと諭されたという逸話もある。
  • 宗茂は軍法についてこう語っている。
    • 「特別に何流の軍法を使うわけではない。常に兵士に対してえこひいきせず、慈悲を与え、国法に触れた者はその法によって対処する。したがって戦に臨むとみな一命をなげうって力戦してくれ、それがみな拙者の功になる。その他によい方法はない」
    • 「大将がいかに采配をとって、ただ“進め”とか“死ね”とか言ってみても、そのような下知に従う者はいない。常々上は下を子のごとく情をかけ、下は上を親のように思うように人を使えば、下知をしなくとも思い通りに動くものだ」
なお、義父である立花道雪は、実際に兵を大切にし、一方で兵は道雪のために尽くした逸話があり、この宗茂の軍法は義父から継承したものと思われる。
  • 関ヶ原合戦後の浪人時代は、京都で家臣ともども乞食同然に身を落とし、その日の食べ物にも難儀したという話がよく知られる。
    • 米が足りないので家臣が雑炊を作って差し出した所、宗茂は「汁かけ飯を食べたい時は、自分で飯に汁をかけるから、余計な事をするな。」と怒ったと言われる。今まで裕福な暮らしをしていたので、米に困って雑炊を作るという意味がわからなかったのだという。
    • 家臣が乞食に出かける時には、宗茂が留守番をしていた。ある日家臣が残飯を干飯にするために日に干して出かけた所、その日突然雨が降ってきた。家臣たちは宗茂がちゃんと残飯を雨に濡れないように屋内に取り込んでくれたかどうかと語り合い、「そんな些細な事に気をかけるような殿では、再仕官などおぼつかないだろう。」という結論になった。案の定帰宅すると、宗茂は残飯を放置して雨に濡れるままにしていた。
  • ただし、実際は有力商人や旧家臣団、加藤清正や島津氏らの支援の下、それなりの客将として支援を受けており、大名時代に比べれば経済状態は当然悪化しているが、少なくとも、その日の食事に困るような生活ではなかったので、後世に藩祖としての苦労を際立たせる為に誇張された話であろうという説もある。しかしながら、上記の困窮時代の逸話は、宗茂を顕彰するような性質のものではなく、世間知らずぶりを伝えるものである。
  • 文武両道の名将で、剣術は丸目長恵から文禄5年(1596年)10月にタイ捨流の免許皆伝を受けている、自身も抜刀術隋変流を開祖し、後年の中村天風もその剣術を修得した。弓術は天正18年(1590年)に尾村連続、慶長6年(1601年)10月には中江新八、慶長7年(1602年)には吉田茂武から日置流の免許をそれぞれ受けている。また、連歌・茶道・香道・蹴鞠・狂言などにも長けていたとされる。中でも茶道は細川忠興からも一目置かれていたようで、忠興は子の細川忠利に対して、数寄の事は宗茂を見習う事と書き記している。また、忠興から宗茂が借金をして茶器を購入したり、逆に宗茂の茶器を忠興に貸したりという文書も残っているので、茶道を通じてかなり両者の関係は親密であったと思われる。香道のことも後陽成天皇の弟曼珠院宮良恕法親王が「桾ィ」を贈っている。蹴鞠も飛鳥井雅春から「鞠道」の門弟として「紫組之冠懸」を免許されている。
  • 正室のァ千代を弔うために、山門郡瀬高上荘の来迎寺の住職で、かつての柳川城主の蒲池鑑盛(蒲池宗雪)の孫である応誉上人を招き、良清寺を創建した。
 
 
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