戦国最強は誰だ!?徹底検証!   
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藤堂高虎 〜三大築城名人の一人と言われる程の城郭建築の名人〜
 

藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から安土桃山時代、江戸時代前期にかけての武将・大名。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。

何度も主君を変えた戦国武将として知られる。それは彼自身の「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という発言に表れている。

築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城した。高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。

生涯

近江時代

弘治2年(1556年)1月6日、近江犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる(長兄高則は早世)。藤堂氏は先祖代々、在地の小領主であったが、戦国時代にあって次第に没落し高虎が生まれた頃には一農民と変わらぬ状態になっていた。幼名を与吉と名乗った。

はじめ近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕え、元亀元年(1570年)の姉川の戦いに参戦して武功を挙げ、長政から感状を受ける。天正元年(1573年)に浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった阿閉貞征、次いで同じく浅井氏旧臣の磯野員昌の家臣として仕えた。

豊臣時代

やがて近江を去り、信長の甥・織田信澄の家臣として仕えるも長続きせず、天正4年(1576年)に羽柴秀長(豊臣秀長)に仕えて3,000石の所領を与えられた。秀長のもとでは中国攻め、賤ヶ岳の戦いなどに従軍する。賤ヶ岳の戦いで抜群の戦功を挙げたため、2,000石を加増された。のちに秀吉から5,000石をさらに加増され、1万石の大名となる。

天正13年(1585年)の紀州攻めに従軍し、このとき秀吉の命令で雑賀党の首領であった鈴木重意を謀略で自害に追い込んだと言われる。戦後は紀伊粉河に5,000石を与えられ、和歌山城の築城に当たって普請奉行に任命される。これが高虎の最初の築城である。また紀伊においては、方広寺大仏殿建設のための材木を熊野から調達するよう秀吉から命じられていた。天正15年(1587年)の九州の役では根白坂の戦いで島津軍に攻められた味方を救援する活躍を見せて2万石に加増される。この頃、秀吉の推挙を受けて正五位下佐渡守に叙任する。

天正19年(1591年)に秀長が死去すると、養子の豊臣秀保に仕え、秀保の代理として翌年の文禄の役に出征している。文禄4年(1595年)に秀保が早世したため、出家して高野山に上るも、その将才を惜しんだ豊臣秀吉が召還したため還俗し、5万石を加増されて伊予板島(現在の宇和島)7万石の大名となる。このとき、秀吉から日本丸という軍艦を拝領したとされる。

慶長2年(1597年)からの慶長の役にも水軍を率いて参加し、漆川梁海戦では朝鮮水軍の武将・元均率いる水軍を殲滅するという武功を挙げ、南原城の戦いにも参加し、帰国後に加増されて8万石となる。この時期に板島丸串城の大規模な改修を行い、完成後に宇和島城に改称している。

関ヶ原

慶長3年(1598年)8月の秀吉の死去直前から、徳川家康に急接近する。豊臣氏の家臣団が武断派、文治派に分裂すると、高虎は武断派の諸将に先んじて徳川家康側に与した。

慶長5年(1600年)、家康による会津征伐に従軍し、その後の織田秀信が守る岐阜城攻めに参戦する。9月15日の関ヶ原本戦では大谷吉継隊と死闘を演じた。また、留守中の伊予における毛利輝元の策動による一揆を鎮圧している四国攻め#毛利輝元の四国攻め(関ヶ原の戦い)。脇坂安治や小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らに対して、東軍への寝返りの調略を行っている。

戦後、これらの軍功により、家康から伊予今治20万石に加増されている。

江戸時代

その後、高虎は徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げたため、慶長13年(1608年)に伊賀一国、並びに伊勢8郡22万石に加増移封され、伊勢津藩主となる。家康は高虎の才と忠義を高く評価し、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用した。

慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では徳川方として参加する。翌年の大坂夏の陣でも徳川方として参戦し、自ら河内方面の先鋒を志願して、八尾において豊臣方の長宗我部盛親隊と戦う(八尾の戦い)。この戦いでは長宗我部軍の猛攻にあって、藤堂良勝や藤堂高刑(たかのり)をはじめ、600人余りの死傷者を出している。戦後、その功績により32万石に加増され、同年閏6月には従四位下に昇任した。

家康死去の際には枕元に侍ることを許された。家康没後は秀忠に仕え、元和6年(1620年)、秀忠の5女和子が入内する際には自ら志願して露払い役を務め、宮中の和子入内反対派公家の前で「和子姫が入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹する」と言い放ち、強引な手段で押し切ったという。

晩年には眼病を患って失明している。寛永7年(1630年)10月5日に死去。享年75。後を長男の高次が継いだ。

人物・逸話

人物

  • 6尺2寸(約190センチメートル)を誇る大男だったと言われている
  • 高虎は何人も主君を変えたことから、変節漢あるいは走狗といわれ、歴史小説などでは否定的に描かれる傾向が多い。しかし、江戸時代に儒教の教えが武士に浸透する以前の日本では、家臣は自分の働きに見合った恩賞を与え、かつ将来性のある主君を自ら選ぶのが当たり前であり、何度も主君を変えるのは不忠でも卑しい事でもなかった(高虎も当時としては当然の行動をしただけであるが、同輩からの大名に出世した嫉妬と、外様でありながら家康の覚えが良い事を嫌う徳川譜代との確執が背景にあると思われる)。
  • 一方で豊臣秀長に対しては生涯義理を貫いており、晩年に荒れてしまった秀長の墓の修繕費を出している]
  • 慶長の役において加藤嘉明と功を競い、終生仲が良くなかった。高虎の領地が今治藩、嘉明のそれが伊予松山藩と隣接していたことも事情にあるとされる。
  • 武勇だけではなく、津藩の藩政の基礎を築き上げた内政手腕のほか、文学や能楽、茶の湯を嗜む文化人でもあった]
  • 「常に死を覚悟していれば、心は動じない」の言葉を残す。
  • 関ヶ原の合戦では大谷吉継、大坂夏の陣では長宗我部盛親隊という常に相手方の特に士気の高い主力と激突している。関ヶ原以降、徳川軍の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂というのが例となった。なお、高虎は大谷吉継の墓を建立している。
  • 関ヶ原の合戦後、捕えられた石田三成に自分の軍の欠点を聞き、「鉄砲隊の指揮官をしかるべき身分にすべき」との助言を得、それを受け入れ千石以上の侍大将にした]
  • 三大築城名人の一人と言われる程の城郭建築の名人として知られる。慶長の役では順天倭城築城の指揮をとった。この城は明・朝鮮軍による陸海からの攻撃を受けた。しかし全く敵を寄せ付けず撃退に成功し、城の堅固さが実戦で証明された。また層塔式天守築造を創始し伊賀上野城や丹波亀山城などを築いた。

逸話

  • 講談、浪曲『藤堂高虎、出世の白餅』では、阿閉氏の元を出奔し浪人生活を送っていた若き日の高虎(当時、与右衛門)が三河国吉田宿(現・豊橋市)の吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食するが、主の吉田屋彦兵衛に故郷に帰って親孝行するようにと諭され路銀まで与えられる。吉田屋の細君もたまたま近江の出であったという。後日、大名として出世した高虎が参勤交代の折に立ち寄り、餅代を返すという人情話が伝えられている。ちなみに高虎の旗指物は「三つ餅」。白餅は、「城持ち」にひっかけられているともいう。
  • あるとき2人の家臣(遊女好きの家臣と博打打ち好きの家臣)が喧嘩を起こして、それを高虎自らが裁いた。このとき高虎は遊女好きの家臣を追放し、博打打ち好きの家臣はまだ見込みがあるとして家中に置いたという。博打打ちなら計算高いであろうということかららしい。

実力主義者

  • 高虎は、いわゆる実力主義者であった。取り立てて血筋がよかったわけでもない。にも関わらず、彼は己の実力だけで生き抜いてきた。織田信澄に仕えていたときにも大いに功績を挙げたが、信澄は高虎を嫌って加増しようとしなかった。そのため、高虎は知行を捨てて浪人し、羽柴秀長のもとで仕えたと言われている。
  • 秀吉の死後、豊臣氏恩顧の大名でありながら徳川家康に対し、「自分を家臣と思って使ってください」といち早く且つ露骨に接近したことは、多くの諸大名から咎められた。それに対し、史書に伝えられる高虎の言葉は「己の立場を明確にできない者こそ、いざというときに一番頼りにならない」という言葉を残している。高虎は豊臣秀長に仕えていた時分には忠実な家臣であり、四国攻めの時には秀長に従って多大な功績を立てている。また秀長が亡くなるまで忠節を尽くしている。
  • 家康は大坂夏の陣で功を挙げた高虎を賞賛し、「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と述べたと言われている。徳川家臣の多くは主君をたびたび変えた高虎をあまり好いていなかったらしいが、家康はその実力を認めていたようである。大坂夏の陣で高虎がとった捨て身の忠誠心を認め、晩年は家康は高虎に信頼を寄せたようである。臨終の席では、外様の中で高虎のみが枕元に侍ることを許された
  • 幕末の鳥羽・伏見の戦いで、藤堂氏の津藩は彦根藩と共に官軍を迎え撃ったが、幕府軍の劣勢を察すると真っ先に官軍に寝返り、幕府側に砲撃を開始した。そのため幕府軍側から「さすが藩祖の薫陶著しいことじゃ」と、藩祖高虎の処世訓に仮託して皮肉られたという。だが一方、寝返った藤堂家は、官軍の日光東照宮に対する攻撃命令は「藩祖が賜った大恩がある」として拒否している。
  • 本領の津藩のほかに幕府の命で、息女の輿入れ先である会津藩蒲生家と高松藩生駒家、さらには加藤清正死後の熊本藩の執政を務めて家臣団の対立を調停し、都合160万石余りを統治した。これらの大名家は、高虎の存在でかろうじて家名を保ったと言え、彼の死後はことごとく改易されている。
 
 
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