可児 吉長(かに よしなが)は戦国時代から江戸時代前期にかけての武将である。通称の才蔵(さいぞう)でよく知られており、以下本稿でも才蔵名で記す。
生涯
前半生
天文23年(1554年)、美濃国可児郡に生まれる。宝蔵院流槍術の開祖、覚禅房胤栄に槍術を学んだとされる。
はじめは斎藤龍興に仕えたが永禄10年(1567年)に斎藤氏が織田信長の侵攻により滅亡したため信長の家臣であった柴田勝家、明智光秀、前田利家らに仕えた(森可成に仕えた時期もあったとする説もある)。そして信長の三男である信孝に仕えるも、天正11年(1583年)に信孝が羽柴秀吉の攻撃を受けて自害したため秀吉の甥・秀次に仕えた。
しかし小牧・長久手の戦いで秀次が徳川家康に大敗を喫すると、秀次と対立して浪人になった。その後は佐々成政に仕えたが長続きしなかった。
福島正則の家臣
その後、伊予11万石の領主となった福島正則に仕え750石の知行を与えられた。天正18年(1590年)の小田原征伐では北条氏規が守備する韮山城攻撃に参加し、このとき先頭に自ら立って攻撃して氏規を震え上がらせたとされる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは福島軍の先鋒隊長として参加し、この戦いでも敵兵の首を17も取り家康からも大いに賞賛された。この武功により、正則から500石を新たに知行として与えられた。
最期
正則が関ヶ原の功績により安芸国広島藩に加増移封されると、それに従って広島に赴いた。才蔵は若い頃から愛宕権現を厚く信仰していたため、「我は愛宕権現の縁日に死ぬ」と予言していたとされる。その予言通り、慶長18年(1613年)の愛宕権現の縁日の日、甲冑を着けて床机に腰掛けたまま死去したと伝えられている。享年60。
人物・逸話
- 主君を何度も転々と変えているが同じ立場にある藤堂高虎に対しては非難の声が現在でも高いのに対し、才蔵の人気は当時からかなり高かった。当時、墓前を通る者は才蔵の武勇を賞賛しその墓前で下馬して礼を送ったという。
- 笹の指物を背負って戦い、戦いにおいては敵の首を討つことが常に多くてとても腰に抱えることができなかったため指物の笹の葉をとって首の切り口に入れておいた(あるいは口にくわえさせた)という。このため、才蔵の討った首と合戦の直後にすぐにわかったという。これらの経緯から、「笹の才蔵」と称された。
- 秀次が長久手の戦いで大敗したとき才蔵は真っ先に逃げ、それを見た秀次が激怒して解雇したとされる。この時、敗軍の混乱で徒歩で逃げていた秀次の横を才蔵が馬で通りかかった。それを見た秀次が「馬をよこせ」と言ったところ「雨の日の傘に候」と答え、そのまま走り去ったという。つまり(自分が逃げるのに)必要なものであるので、たとえ主君であっても譲ることはできないというのである。異説では、「この敵(徳川軍)に槍は通じない。くそくらえだ」と放言して秀次の怒りを買ったともされる。またそのほかにも、「意識無くそんなことをやったか」と述べて自分から浪人したともされる。
- 韮山城攻めのとき氏規はその剛勇に感嘆し、「あの武将は誰か」と尋ねたという。
- 関ヶ原で東軍の先鋒は正則と決まっていたが、徳川家の井伊直政と松平忠吉が抜け駆けしようとした。このとき才蔵はそれを咎めて引き止めようとしたが直政は忠吉の名をあえて持ち出したため才蔵もそれ以上咎められず道を譲り、直政らが先陣を盗むのを歯がゆい思いで見逃すしかなかったとされる。
- 自分の部下を大切にし、特にその中に武勇に優れていた者がいれば惜しみなく自らの禄を分け与えたという。
- 才蔵は武将というより大名家の一兵士的な身分だったが、それにも関わらず今も高名である理由として関ヶ原の合戦に於ける活躍を家康から大いに賞賛されたことを挙げる人がいる。
- あるとき、才蔵に対して試合を申し込む武者が現れた。すると才蔵は笹の指物を背中に指し甲冑で身を固め、さらに部下10名に鉄砲を持たせて試合の場に現れたという。相手が「これは実戦ではなく試合だ」というと、才蔵は「俺の試合は実戦が全てだ」と笑いながら答えたという。これは、才蔵がたとえ試合でも油断無く構えていたことを示していたものとされる。
- 晩年も意気は少しも衰えず、常に馬を乗り回していた(周囲の人々が「年齢を考えては」と言うと「老衰するのは人による」と笑って答えたという)。しかしさすがに重かったのか、長刀は部下に持たせることが多かった。これを受けて部下が「才蔵様も年をとられましたね」と言うと、長刀を取ってその部下の首を打ち落としたと伝えられている。
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