戦国最強は誰だ!?徹底検証!   
トップページ > 織田信長 
実力派大名
上杉謙信
武田信玄
長宗我部元親
前田利家
毛利元就
今川義元
斉藤道三
上杉景勝
徳川家康
浅井長政
毛利輝元
織田信長
豊臣秀吉
伊達政宗










織田信長 〜自ら第六天魔王と名乗った戦国時代の代表的大名〜
 

織田 信長(おだ のぶなが)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。

見識の広さや合理性と冷徹さを兼ね備えた知性により、尾張国守護代の一家老に過ぎなかった織田家(弾正忠家)を、全国第一勢力にまで押し上げた人物である。強力な中央政権の基礎を築き、天下統一を目指したが、志半ばにして死亡。その遺志は豊臣秀吉徳川家康に引き継がれた。

概要

尾張国・古渡城主・織田信秀の嫡男として生まれ、幼少時に那古屋城主となっている。

天文20年(1551年)、急死した父の後を受けて家督を継ぐも、同母弟・織田信行(信勝)と家督争いが発生する。これに勝利すると、その後は敵対勢力を次々と下していき、尾張国を統一した。

永禄3年(1560年)、兵力的に圧倒的優位にあった今川義元を桶狭間の戦いで破り世に名を轟かせた。永禄10年(1567年)には美濃国の斎藤氏を滅ぼし、その翌年には足利義昭を奉じて上洛を果たした。義昭を将軍職につけ擁立するも次第に関係が悪化し、元亀4年(1573年)にはこれを追放した。以後、天下布武を推し進め、楽市楽座、検地などの政策を用いた(織田政権)。

その事業は重臣の一人・明智光秀の謀反に遭い頓挫、自身も横死した。その後、政権を簒奪した羽柴秀吉が、信長の築いた足場をもとに天下統一を進め、ついには成し遂げることとなったことから、秀吉が継ぎ徳川家康が完成させる形となった日本近世の形成事業の創始と言うべき位置づけにあった人物である。

生涯

少年期

天文3年(1534年)5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の次男として、勝幡城(那古野城説もある)で生誕。幼名は吉法師。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の守護大名・斯波氏の被官、下四郡(海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡)の守護代に補任された織田大和守家、即ち清洲織田家の家臣にして分家でもあった清洲三奉行・古渡城主の織田家という家柄であった。

母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇矯な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称された。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。

まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、今川氏へ人質として護送されていたが、松平氏家中の戸田康光の裏切りにより、織田氏に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期をともに過ごし、のちに両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。

天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、織田上総介信長と称する。天文17年(1548年)、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘・濃姫と政略結婚した。天文18年(1549年)(異説では天文22年(1553年))に信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。

天文20年(1551年)、父・信秀が没したため、家督を継ぐ。天文22年(1553年)、信長の教育係であった平手政秀が自害。これは、奇行が目立つ信長を諌めるための死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、沢彦和尚を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った。

家督争いから尾張統一

当時、尾張国は守護大名の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡を支配した守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していた。しかし、信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにもかかわらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大していった。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟織田信行(信勝)の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てた。しかし、信友により傀儡にされていた守護・斯波義統が、その計画を事前に信長に密告した。斯波義統の息子斯波義銀が斯波家の手勢を率いて川狩に出た隙に、これに激怒した織田信友は斯波義統を殺害する。

このため、義銀が信長を頼って落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君義統を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めた。織田氏の庶家であった信長が名実ともに織田氏の頭領となった。叔父の信光も死亡しているが、死因は不明である。

弘治2年(1556年)4月、義父斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死(長良川の戦い)。信長も道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り、勢いに乗った義龍軍に苦戦、道三敗死の知らせにより退却した。

こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞・林通具・柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた信長の同母弟信勝を擁立しようとした。これに対して信長には森可成・佐久間盛重・佐久間信盛らが味方し、両派は対立する。

道三の死去を好機と見た信勝派は同年8月24日、挙兵して信長と戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、信長は末盛城に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てる事件も起きたが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏、信長はこれも赦免している。しかし、弘治3年(1557年)信勝は再び謀反を企てる。このとき、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは河尻秀隆とされている。

さらに信長は、同族の犬山城主織田信清と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が、斯波一族の石橋氏と、同じく足利氏一門にあたる吉良氏と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、信長は尾張守護家の斯波義銀を尾張から追放した。こうして信長は、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立した。

一度目の上洛

永禄2年(1559年)2月2日、織田信長は尾張から100名ほどの軍勢を引き連れて室町幕府のある京都へ上洛し、13代将軍足利義輝に謁見した。当時、将軍足利義輝は尾張守護斯波家(武衛家)の邸宅を改修して住しており、信長は、そこへ出仕した。

桶狭間の戦いから清洲同盟へ

尾張国統一を果たした、翌・永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻。駿河国・遠江国・三河国を支配する義元の軍勢は、2万人とも4万人とも号する大軍であった。織田軍は、これに対して防戦したが総兵力は5,000人。今川軍は、三河国の松平元康(後の徳川家康)率いる三河勢を先鋒にして、織田軍の城砦は次々と陥落していった。

信長は静寂を保っていたが、永禄3年(1560年)5月19日、午後一時幸若舞『敦盛』を舞った後、昆布と勝ち栗を前に立ったまま、湯漬け(出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし)を食べ、装具を身に着け馬に乗り出陣し、先ず熱田神宮に参拝。その後、善照寺砦で4,000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ義元を討ち取った。総大将を失った今川軍は、本国駿河国に潰走した(桶狭間の戦い)。

桶狭間の戦いの後、今川氏はその勢力を急激に衰退させる。これを機に、今川氏の支配から独立していた、三河国の徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる。当時、信長は美濃国の攻略の為に斎藤氏と交戦しており、家康も甲斐国の武田信玄や、駿河国の今川氏真らに対抗する必要があった為、利害関係が一致していた。両者は永禄5年(1562年)、同盟を結んで互いに背後を固めた(清洲同盟)。

美濃攻略

斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、斎藤氏は家中で分裂が始まる。対斎藤戦で優位に立った信長は、永禄7年(1564年)には北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・お市を輿入れさせた。

永禄9年(1566年)には美濃国の多くの諸城を戦いと調略によって手に入れ、さらに西美濃三人衆(稲葉良通、氏家直元、安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、美濃国を手に入れた(稲葉山城の戦い)。こうして尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になったとき、信長は33歳であった。このとき、井ノ口を岐阜と改称している[6]。 また、この頃から「天下布武」の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになった。

一方で信長は永禄8年(1565年)より滝川一益の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、神戸具盛など当地の諸氏とも戦っている。

二度目の上洛

この頃、中央では、永禄8年(1565年)、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の有力者三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀が、室町幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた第13代将軍足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟足利義栄を傀儡として擁立する(永禄の変)。

久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶(足利義昭)の暗殺も謀ったが、義昭は一色藤長・和田惟政ら幕臣の支援を受けて京から脱出し、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年(1568年)7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。

一方で、美濃国において領国を接する甲斐の武田信玄とは永禄年間から外交関係が見られるが[7]、武田氏とは信玄の四男諏訪勝頼(武田勝頼)に養女(遠山夫人)を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年(1567年)11月武田信勝を出産した直後に早世したため、同年末には嫡男信忠と信玄の六女松姫との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。

そして9月、信長は天下布武への大義名分として第15代将軍に足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。これに対して抵抗した南近江の六角義賢・義治父子は織田軍の猛攻を受けて観音寺城が落城する(観音寺城の戦い)。六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した。 信長が上洛すると、三好長慶死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった三好義継・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、他の三好三人衆に属した勢力の多くは阿波国へ逃亡する。唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。こうして足利義昭を第15代将軍として擁立した信長は、和泉一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国(このとき、信長は義昭から管領代・副将軍の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる)。

永禄12年(1569年)1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の御所である六条本圀寺を攻撃した(六条合戦)。しかし、信長は豪雪の中を僅か2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せたといわれている。

もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。

1月10日には三好軍と共同して決起した高槻城の入江春景を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず、処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、摂津国を守護池田勝正を筆頭とし伊丹氏と惟政の3人に統治させた(摂津三守護)。同日、信長は堺に2万貫の矢銭と服属を要求する。これに対して堺の会合衆は三好三人衆を頼りに抵抗するが、三人衆が織田軍に敗退すると支払いを余儀なくされた。

伊勢攻略

伊勢国への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の国司である北畠具教が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年(1568年)北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の織田信孝を神戸氏の養子として送り込んだ。更に具教の次男・長野具藤を内応により追放し、弟・織田信包を長野家当主とした。そして翌・永禄12年(1569年)8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・木造具政が信長側に転じると、信長はその日のうちに岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の大河内城を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・織田信雄を北畠氏の養子として送り込んだ。のち北畠具教は幽閉され、天正4年(1576年)信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により北伊勢攻略を終える。

第一次信長包囲網


1570年(元亀1年)の戦国大名勢力図永禄12年(1569年)、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『殿中御掟』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。しかし、これによって義昭と信長の対立は決定的なものになる。

元亀元年(1570年)4月、信長は度重なる上洛命令を無視する越前国の朝倉義景を討伐するため、浅井氏との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍を開始する。織田・徳川連合軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎へ進軍したところで北近江の盟友であった浅井氏に背後を突かれる形となった。挟撃される形となり窮地に追い込まれた織田・徳川連合軍であったが、殿を務めた池田勝正・明智光秀木下秀吉徳川家康らの働きもあり、なんとか京に逃れた(金ヶ崎の戦い)。信長が京に帰還したとき、従う者は僅か10名ほどであった。

これを機に、将軍・足利義昭と信長の対立は先鋭化した。義昭は打倒信長に向けて御内書を諸国に発し、朝倉義景、浅井長政武田信玄毛利輝元、三好三人衆、さらに比叡山延暦寺、石山本願寺などの寺社勢力に呼びかけて「信長包囲網」を結成した。

対して信長は浅井を討つべく、元亀元年(1570年)6月、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙する。浅井軍の先鋒・磯野員昌に15段の備えの内13段まで破られるなど[10]苦戦しつつも、織田・徳川連合軍は勝利した(姉川の戦い)。

元亀元年(1570年)8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、石山本願寺の援軍などもあって苦戦する(野田城・福島城の戦い)。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・坂本に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・織田信治を喪った。対して信長は、9月23日未明に急ぎ本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)。しかし、その間に石山本願寺の法主・顕如の命を受けた伊勢長島一向一揆衆が叛旗を翻し、信長の実弟・織田信興を戦死に追い込んだ。いよいよ進退に窮した信長は正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功した。大久保忠教の記した『三河物語』によれば、このとき信長は義景に対して「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。

所蔵元亀2年(1571年)9月、信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちにした(比叡山焼き討ち)。

元亀3年(1572年)7月、信長は嫡男・奇妙丸(後の織田信忠)を初陣させた。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた。しかし戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の武将・前波吉継と富田長繁、戸田与次らが信長に寝返った。

10月、足利義昭の出兵要請に呼応した甲斐国の武田信玄は、遂に上洛の軍を起こした。武田軍の総兵力は3万人。その大軍が織田領の東美濃、並びに徳川領の遠江国、三河国に侵攻を開始する(西上作戦)。これに対して織田・徳川連合軍も抵抗した。

しかし、武田軍の武将・秋山信友に攻められた東美濃の岩村城では、城主・遠山景任が病死。その景任の後家・おつやの方(信長の叔母)は、信長の五男・坊丸(後の織田勝長)を養子にして城主として抵抗するが、秋山信友はこのおつやの方に対して結婚戦術を持ちかけた。おつやの方は信友と結婚することで開城・降伏し、坊丸は甲斐国に人質として送られ、東美濃の大半も武田氏の支配下に落ちた。

また、徳川領においては徳川軍が一言坂の戦いで武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000人の援軍を送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に大敗。汎秀らは討死した。

元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、2月には野田城を攻略する(野田城の戦い)。しかも信玄の上洛に呼応する形で、足利義昭が三好義継・松永久秀らと共謀して挙兵。信長は三河国にいる武田軍を無視して岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけた。4月5日、正親町天皇から勅命を賜ることによって義昭と和睦した。4月12日、武田信玄が急死。これにより武田軍は甲斐国へ帰国した。

包囲網崩壊

武田信玄の死去によって信長は態勢を立て直した。そうして7月、二条城や槇島城に立て籠もっていた足利義昭を破り、京都から追放。これをもって室町幕府は滅亡した。加えて7月28日には元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させた。

天正元年(1573年)8月、細川藤孝に命じて、淀城に立て籠もる三好三人衆の一人・岩成友通を討伐した(第二次淀古城の戦い)。信長は同月、3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。刀根坂の戦いで朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、小谷城を攻略して浅井氏に勝利し、浅井久政・長政父子は自害し、長政の母・小野殿(阿古御料人)の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した(執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明である)。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。

9月24日、信長は尾張国・美濃国・伊勢国の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落としたが、一向一揆による抵抗も激しく、長期戦を嫌った信長は10月25日に撤退を開始する。ところが撤退途中に一揆軍による追撃が始まると織田軍は苦戦し、林通政が討死した。

11月、河内国の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・若江三人衆らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、大和国の松永久秀も多聞山城を明け渡し、信長に降伏した。

長島一向一揆

天正2年(1574年)1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、地侍や本願寺門徒による反乱が起こり、守護代の前波吉継(桂田長俊)は一乗谷で殺された。それに呼応する形で、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。信長はこれを信忠とともに迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の明知城が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した。

3月、信長は上洛して従三位参議に叙任された。

7月、信長は3万人の大軍と、織田信雄、滝川一益、九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍を率いて、伊勢長島を水陸から完全に包囲し、兵糧攻めに追い込んだ。一揆軍も地侍や旧北畠家臣なども含んでおり戦に関して全くの素人という訳では無く抵抗は激しいものであった。しかし、8月に入ると兵糧不足に陥り、さらに織田軍の猛攻により大鳥居城が落城して一揆勢1,000人余が討ち取られるなど、次第に戦況は織田軍有利に傾く。

9月29日、兵糧に欠乏した長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去することを信長に申し出ると信長もこれを了承した。しかし、弟の信興や家臣を殺された信長は、敵の油断を突き船で移動する門徒に一斉射撃を浴びせ掛けた。しかし、これに激怒した一揆側の一部が織田軍に襲いかかり、信長の庶兄・織田信広、信長の弟・織田秀成など多くの織田一族の将が討ち取られた。

さらに信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒に対しては、城の周囲から包囲して討ち取った。このとき、一揆衆は2万人が織田軍によって撫で斬りされたと言われる。この戦によって信長は長島を占領することに成功した。

翌天正3年(1575年)3月荒木村重が大和田城を占領したのをきっかけに、織田信長は石山本願寺、高屋城周辺に10万兵の大軍で出軍した(高屋城の戦い)。高屋城、石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた新堀城が落城すると、三好康長は降伏を申し出これを受け入れ、高屋城を含む河内国の城は破城となる。その後、松井友閑と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立する。

長篠の戦いから越前侵攻

天正3年(1575年)4月、武田勝頼は父・信玄の死後、武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、1万5,000人の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。その間の5月12日に信長は3万人の大軍を率いて岐阜から出陣し、5月17日に三河国の野田で徳川軍8,000人と合流する。

3万8,000人に増大した織田・徳川連合軍は5月18日、設楽原に陣を敷いた。そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる。この長篠の戦いで、信長は1,000丁余りの火縄銃を用いた一斉射撃(『信長公記』による)を行わせ、武田軍に圧勝する。 この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より偏諱を賜り信昌と改名している。

この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年(1575年)1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を一揆の持ちたる国とした。そして顕如の命令で守護代として下間頼照が派遣されたが、この下間頼照が前の領主である桂田長俊以上の悪政を敷いたために、一揆の内部分裂が進んでいた。

これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。これに対して既に内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や朝倉景健らを始め、12,250人を数える越前国・加賀国の門徒が織田軍によって討伐されたと言われている[13][14]。こうして越前国は再び織田領となり、信長は越前八郡を柴田勝家に与えた。このとき、信長は勝家に対して北国経営の掟を与えたと言われている。

第二次信長包囲網

天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言、11月7日に右近衛大将に叙任する。

11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠に織田氏の家督ならびに美濃国・尾張国などの領地を譲って建前上隠居した。しかし、引き続き信長は織田氏の政治・軍事を執行する立場にあった。

天正4年(1576年)1月、信長自身の指揮のもと琵琶湖湖岸に安土城の築城を開始する。安土城は天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。天守内部は吹き抜けとなっていたと言われている。イエズス会の宣教師は「このような豪華な城は欧州にも存在しない」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に天下統一に邁進することとなる。

天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた丹波国の波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。これに対し信長は4月、明智光秀、荒木村重、塙直政を大将とした3万人の軍勢を大坂に派遣したが伏兵の襲撃にあって大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。

大坂の織田軍は勢いづく本願寺軍の攻勢に窮して天王寺砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。信長は5月5日に若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。しかし信長は5月7日早朝、その3,000人の軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入った。信長自身も負傷する激戦となったが、信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、本願寺軍を撃破した(天王寺砦の戦い)。

その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた毛利水軍800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧弾薬が運び込まれた(第一次木津川口の戦い)。

この頃、越後国の上杉謙信と信長との関係は悪化し、謙信は天正4年(1576年)に石山本願寺と和睦し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元、石山本願寺、波多野秀治、紀州雑賀衆などが反信長に同調し結託した。

これに対し信長は、天正5年(1577年)2月、紀州雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣(紀州攻め)するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の能登国侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・雑賀孫一を降伏させたという(人質の提供も無い、形だけのものと言われている)。こうして形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、加賀国の手取川を越えて焼き討ちを行っている。

大和国の松永久秀が信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を総大将とした大軍を信貴山城に派遣し、10月に松永を討ち取った(信貴山城の戦い)。松永を討った10月、信長に抵抗していた丹波亀山城の内藤定政が病死する。織田軍はこの機を逃さず、亀山城、籾井城、笹山城などの丹波国の諸城を攻略した。

11月、能登、加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻、織田軍は手取川において1000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれる。 天正6年(1578年)3月13日には上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めることなく急死したため、養子の上杉景勝と上杉景虎が後継ぎ争いを始めた(御館の乱)。この好機を活かし織田軍は上杉領の能登国、加賀国を攻略する。かくして謙信の死を契機に、またも信長包囲網は崩壊した。

織田方面軍団

天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に大名級の所領を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。

上杉謙信の死後、お家騒動を経て上杉氏の家督を継いだ上杉景勝に対しては柴田勝家、前田利家、佐々成政らを、武田勝頼に対しては嫡男・信忠、河尻秀隆、森長可らを、波多野秀治に対しては明智光秀、細川藤孝らを(黒井城の戦い)、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。

織田軍は謙信の死後、上杉氏との戦いを優位に進め、能登国・加賀国を奪い、越中国にも侵攻する勢いを見せた。

天正6年(1578年)3月、播磨国の別所長治の謀反(三木合戦)が起こる、また毛利軍が、同年7月、上月城を攻略し、信長の命により放置された山中幸盛ら尼子氏再興軍は処刑される(上月城の戦い)。10月には摂津国の荒木村重が有岡城に籠って信長から離反し(有岡城の戦い)、本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、荒木の与力の一人であり東摂津に所領を持つ中川清秀、高山右近は信長に寝返る。

同年11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した鉄甲船を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破(第二次木津川口の戦い)。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。天正7年(1579年)夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった備前国の宇喜多直家が信長に服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。同年4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、但馬国をも攻略。天正9年(1581年)には鳥取城を兵糧攻めで落とし因幡国を攻略、さらには岩屋城を落として淡路国を攻略した。

天正7年(1579年)、伊勢国の出城構築を伊賀国の国人に妨害されて立腹した織田信雄は、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責するとともに、伊賀国人への敵意をも募らせた(第一次天正伊賀の乱)。そして天正9年(1581年)、信雄を総大将とする4万人の軍勢で伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった(第二次天正伊賀の乱)。

天正7年(1579年)、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じた。表向きの理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させた。これに関しては異説もあり、家康・信康父子の対立が真因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだという説もある(詳細は松平信康#信康自刃事件を参照 )。

天正8年(1580年)8月、信長は譜代の老臣・佐久間信盛とその嫡男・佐久間正勝に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際を理由に追放処分とした。さらに、古参の林秀貞と安藤守就も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。

天正7年(1579年)11月、信長は織田家の二条の京屋敷(本邸)に皇太子である誠仁親王を住まわせることを思いつき、直ちに実行された。

武田征伐

天正9年(1581年)、信長は絶頂期にあった。2月28日には京都の内裏東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる京都御馬揃えであるが、これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった[17]。 このときの馬揃えには正親町天皇を招待している。

同年5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。3月23日には高天神城を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。

同年に荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、高野山が信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』では信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害したという主張が記録されている。一方、高野春秋では荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における高野聖数百人を捕らえるとともに、河内国や大和国の諸大名に命じて高野山を包囲させた。

天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る。長篠合戦の敗退後、武田勝頼は越後上杉氏との甲越同盟の締結や新府城築城など領国再建や、人質であった織田信房を返還し信長との和睦(甲江和与)を模索していたが良好に進まず、同年2月3日に信長は武田領国へのに本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令した。そして、駿河国から徳川家康、相模国から北条氏直、飛騨国から金森長近、木曽から信忠が、それぞれ武田領への攻略を開始した。信忠軍は、軍監・滝川一益と、信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可・毛利長秀等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上ったと言われている。これに対して武田軍は、伊那城の城兵が城将・下条信氏を追い出して織田軍に降伏。さらに信濃国の松尾城主・小笠原信嶺、江尻城主・穴山信君らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。

信長が武田征伐に出陣したのは3月8日であるが、その日に信忠は武田領国の本拠である甲府を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が、武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した。武田氏滅亡後に信長は、「武田に属していた者はたとえ恭順の意思を示そうとも容赦無く一族まとめて根絶やしにせよ」とする、いわゆる「武田狩り」を命じた。

武田氏滅亡後、信長は駿河国を徳川家康に、上野国を滝川一益、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与えて北条氏直への抑えとしつつも、同盟関係を保った。

本能寺の変

天正10年(1582年)夏、信長は四国の長宗我部元親攻略に、三男・神戸信孝、重臣・丹羽長秀、蜂屋頼隆、津田信澄の軍団を派遣する準備を進めていた。

3月11日、北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃(魚津城の戦い)。上杉家は、北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。

5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。

家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。「毛利氏が大軍を率い、高松城への救援に向かう動きがある」とのことであった。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。のち『明智軍記』などによって江戸時代以降流布される俗説では、このとき、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は小姓の森成利(蘭丸)に命じて光秀の頭をはたかせた、としている。

信長は5月29日、中国遠征の出兵準備のために上洛し、その後は京の本能寺に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、6月2日に本能寺を襲撃する。この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたと言われる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら槍を手に奮闘したとされている。しかし圧倒的多数の明智軍を前には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害したと伝えられている。享年49(満48歳没)(本能寺の変)。

光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかった。これは当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われており、火薬が備蓄されており、信長の遺体は爆散したものと考えられる。しかしながら、密かに脱出し別の場所で自害したという別説がある。また信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に黒人の家来・弥助がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明となっている。

平成19年(2007年)に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。

人物

性格

  • 「なかぬなら 殺してしまへ 時鳥」(時鳥はホトトギス)という歌がその性格を表していると言われているが、これは本人が作ったものではなく平戸藩主・松浦清(松浦静山)の随筆『甲子夜話』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である。また、この歌の続きには「鳥屋にやれよ…」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍はあまりに気骨が無いと批判するもので、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。
  • 『信長公記』によれば、浅井久政・長政父子と朝倉義景の3人の頭蓋骨に金箔を貼り、「他国衆退出の已後 御馬廻ばかり」の酒宴の際に披露した。これは後世、髑髏を杯にして家臣に飲ませたという話になっているが、小説家の潤色であり、実際には使用していない。髑髏を薄濃(はくだみ)にするというのは、死者への敬意を表すものである。
  • ルイス・フロイスは信長の人物像を「長身、痩躯で髭は少ない。声は甲高く、常に武技を好み、粗野である。正義や慈悲の行いを好み、傲慢で名誉を尊ぶ。決断力に富み、戦術に巧みであるが規律を守らず、部下の進言に従うことはほとんど無い。人々からは異常なほどの畏敬を受けている。酒は飲まない。自分をへりくだることはほとんど無く、自分以外の大名のほとんどを軽蔑しており、まるで自分の部下のごとく語る。よき理解力、明晰な判断力に優れ、神仏など偶像を軽視し、占いは一切信じない。名義上法華宗ということになっているが、宇宙の造主、霊魂の不滅、死後の世界などありはしないと明言している。その事業は完全かつ巧妙を極めている。人と語るときには遠回しな言い方を嫌う」と記した。
  • 世間の評判を重視しており、常に正しい戦いであると主張することに腐心していたことが、京都の公家などが記した日記などから窺い知ることができる。
  • 弟・信勝の暗殺や叔母・おつやの方の処刑により、「身内にも厳しい人物」との印象もある。一方では、反乱を計画した兄・信広を赦免後には重用する、前述の信勝も一度は許している上に彼の遺児(津田信澄)の養育を責任を以って手配しており、叔母の処刑も自身が降伏しただけでなく信長の実子までも武田に差し出した行為の怒りからとも推測できる。自分の弟が戦死した場合には相手を徹底的に攻撃する(比叡山焼き討ち、長島一向一揆殲滅)、信長の親族と婚姻した家とは自身から直接的な敵対行動をとらない(武田・浅井共に先に最初に敵対行動をとったのは相手側である)など「(当時の大名階級としては)身内に優しい人物」との評価もある。
  • また、非常に律儀な性格であり、信長の側から盟約・和睦を破った事は一度も無い。一時は和睦しながら再び信長と敵対した勢力は数多いが、それら勢力は自ら先んじて信長との盟約・和睦を反古にしている。例外として不戦の盟約を破って朝倉氏を攻撃した事例があるが、この盟約は浅井氏と交わしたものであって、直接朝倉氏と不戦の盟約を交わした訳ではない。
  • 長女の徳姫を除くと生前に縁組させた冬姫らの娘達は個人的にも親交のある家臣である前田家、丹羽家、若しくは少年時代から面倒を見てきた蒲生氏郷に嫁入りさせており、信長の死後も夫から大事にされ続けている。このことから、「娘を大事にしてくれそうな婿を厳選する」甘い父親とも評されることもある。
  • 尾張から岐阜に単身赴任した部下を叱る、羽柴秀吉夫妻の夫婦喧嘩を仲裁する等家庭内での妻の役割を重視した言動が残されている。

苛烈と云われる所業

  • 赤ん坊の頃は非常に癇が強く、何人もの乳母の乳房を噛み切ったという逸話がある。そのため家中では乳母捜しに大変苦労したと言われている。
  • 比叡山焼き討ちなど仏教勢力に対する軍事行動が目立つ。当時の寺院が世俗の権力と一体化して宗教としての意義を忘れていたことや僧侶の腐敗ぶりを批判し、後世の新井白石は「そのことは残忍なりといえども 長く僧侶の凶悪を除けり これもまた 天下の功有事の一つと成すべし」と評価している。同時代では批判的な声が多く、天皇家は「ちか比(ごろ)ことのはもなき事にて、天下のため笑止なること、筆にもつくしかたき事なり」と嘆いている。
  • 茶坊主に何らかの不手際があり、信長が激怒したことがあった。茶坊主は怒りを怖れて棚の下に隠れたが、信長は棚の下に刀を差しいれて、押し切る様に茶坊主を斬り殺したという逸話がある(棚ごと切ったと言うのは間違いで、振りかぶらずに押し切ったと言うのが正しい)。そのときの刀は切れ味の良さから「圧し切り長谷部(へしきりはせべ)」と名づけられたという。
  • 元亀元年(1570年)5月6日、杉谷善住坊という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとしたことがあったが未遂に終わり、天正元年(1573年)に善住坊は捕らえられた。信長は善住坊の首から下を土に生き埋めにし、切れ味の悪い竹製の鋸(のこぎり)で首をひかせ、長期間激痛を与え続ける拷問を科した。ちなみに、これは徳川家康も大賀弥四郎という家臣に対して行っており、江戸時代では公事方御定書に極刑の一つとして紹介されている(鋸挽き)。
  • 天正元年(1573年)11月、足利義昭の帰洛交渉のため、毛利輝元から信長の元に派遣された毛利氏の家臣・安国寺恵瓊は「信長の代、五年三年は持たるべく候、来年あたりは、公家などに成らる可しと見及び候、左候て後、高転びに転ばれ候ずると見申し候、秀吉さりとてはのものにて候」と国許へ書状を送っている。
  • 天正6年(1578年)、畿内の高野聖1,383人を捕え殺害した。高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せたことへの報復であったという。また、高野聖に成り済まし密偵活動を行う者がおり、これに手を焼いた末の行動でもあったとも云われている。
  • 天正6年(1578年)12月13日、尼ヶ崎近くの七松で荒木村重の一族郎党の婦女子122人を磔にし、鉄砲で次々と撃ち、槍・長刀で刺し殺した。さらに女388人男124人を4つの家に押し込め、周囲に草を積んで焼き殺した。『信長公記』ではその様を「魚をのけぞるように上を下へと波のように動き焦熱、大焦地獄そのままに炎にむせんで踊り上がり飛び上がった」と記している。
  • 天正10年(1582年)4月10日、琵琶湖の竹生島参詣のために安土城を発った。安土城と竹生島は距離があるため、信長は今日は帰ってこないと判断した侍女たちは桑実寺に参詣に行ったり、城下町で買い物をしたりと城を空けていた。しかし、一泊すると思われていた信長は日帰りで帰還。侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女を数珠つなぎにした上で、老若問わず全て惨殺した。侍女の助命嘆願を行った桑実寺の長老も、同じ方法で信長に殺された。ただし、桑実寺ではこのとき殺害されたはずの長老の記録が本能寺の変以降も残っているため、実際には殺されていないとしている。また、文献に「成敗された」とはあるが、侍女たちも殺害されたとは記録に無い。当時、縄目を受けるという成敗(処罰)の方法もあったことから、殺害にまでは至らなかったとの説もある。
  • 信長の敵勢力に対する行為の大半は、当時としては取り立てて残虐というわけではなく、実際これ等の所業・処刑方法には、徳川家康等の大名も行ったものがあり、豊臣秀吉が天正5年に備前国・美作国・播磨国の国境付近で毛利氏への見せしめに、女・子供200人以上を子供は串刺しに、女は磔にして処刑した行為(同年12月5日の羽柴秀吉書状)、武田信玄上杉謙信等の敵を奴隷として売却すること(ルイス・ソテロ等、当時の伝道師の日記)や敵方の女性を競売にかけたり(小田井原の戦い)といった行為等もことさら珍しいことではなかった。このように当時の状況や道徳の違いを考慮してその行動を評価する必要がある。

肖像画

  • 信長の肖像画としては、愛知県豊田市の長興寺所蔵のもの、および、兵庫県氷上町が所蔵する坐像が、そのように伝えられている。
  • このほか、ヨーロッパから来た画家によって写実的な肖像画が描かれていたともされるが、太平洋戦争時の空襲により焼失している。現存する写真によれば、太く力強い眉毛、大きく鋭い眼、鼻筋の通った高い鼻、引き締まった口、面長で鋭い輪郭、男らしくたくわえられた髭(ひげ)などが特徴である。ただし、この肖像画に関しては史料的裏付けが無く、明治時代に行われた「忠臣」の顕彰事業時に作成されたとも言われている。青年の頃は、女子と見まがう美男子であったとする記録もある。身長は約170cm程度で、500m向こうから声が聞こえたという逸話があるほど、かなり甲高い声であったという。

交友関係

  • 身分に拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった。実際、庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭をとる際等にはその姿を庶民の前に晒している。お盆では安土城の至る所に明かりをつけ城下町の住人の目を楽しませるといった行動から祭り好きでもあったようである。
  • 上京以来朝廷等の貴族階級の財政状態を改善したことから公家とも親交が深かった。特に近衛前久とは最初は敵対していたにも拘らず、趣味の一致などと相まって特に仲が良かったようである。
  • 当時の他の戦国武将同様、男色も嗜み、小姓の前田利家、堀秀政、後には森蘭丸の名で知られる森成利(異説あり)ら多くの稚児と関係を持ったと伝わる。また、側室は権力の強大さに比べ少ないが数多くの子をなしている。

南蛮への関心

  • 南蛮品を好み、正親町天皇を招き開催した「京都御馬揃え」にビロードのマント、西洋帽子を着用し参加した。晩年は戦場に赴くときも、南蛮鎧を身に付けていたと言われている。アレッサンドロ・ヴァリニャーノの使用人であった黒人に興味を示して譲り受け、彌介(やすけ)と名付け側近にした。
  • イエズス会の献上した地球儀・時計・地図などをよく理解したと言われる(当時はこの世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い、理解した)。好奇心が強く、鉄砲が一般的でない頃から火縄銃を用いていた。奇抜な性格で知られるが、ルイス・フロイスには日常生活は普通に見えたようである。ローマ教皇グレゴリウス13世に安土城の屏風絵を贈っていたが、実際に届いたのは信長の死後の1585年であったとされる。なお、この屏風絵は紛失している。

文化への関心

  • 囲碁(名人という言葉は信長発祥と言われている)・幸若舞を好み、猿楽(能)を嫌った。幸若舞『敦盛』の一節「人間五十年、下天の内を較ぶれば、夢幻の如く也。一度生を稟け、滅せぬ物の有る可き乎。」という部分は、信長の人生観と合致していたのか、特にお気に入りで、よく舞ったと言われている。
  • 大の相撲好きで、安土城などで大規模な上覧相撲をたびたび開催した。また、相撲大会は身分問わず、信長の側近と庶民が入り混じって相撲をとっていたと言われる。そのほか水術、鷹狩、馬術、弓術などの身体鍛錬、武術鍛錬に繋がるものを趣味としていた。
  • 三好義継が敗死したとき、坪内という名のある三好家の料理人が織田家の捕虜となった。このとき、信長は坪内に対して「料理がうまければ罪を許して料理人として雇う」と約束した。そして坪内が作った料理を信長は食したが、このとき「料理が水っぽい」として坪内を処刑しようとした。しかし坪内はもう一度だけ機会が欲しいと頼んだ。そして二度目に出された料理に対して、信長は「大変うまい」と認め、料理人として取り立てたという。後で坪内は、「最初から二度目の料理を出していたら良かったのではないか」と訊ねられると、「最初は京風の上品な料理、次は味の濃い田舎料理を作っただけです。しょせん信長公も田舎者ということですよ」と語った。

政策

天下布武

訓読すれば「天下に武を布く(てんがにぶをしく)」となる。「武力を以て天下を取る」という風に解釈されることが多いが、近年の研究では「武家の政権を以て天下を支配する」と解釈することが多い。上述のように信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃からこの印を用いている。

宗教政策

  • 宗門は法華宗を公称していたが、一向一揆や延暦寺に対する政策や、安土城の石垣に地蔵仏や墓石を用いたこと、ルイス・フロイスの記載などから唯物論的思考法を身に付け、当時の僧侶についてはその横暴を非難し、キリスト教の宣教師を誉め、神仏の存在や霊魂の不滅を信じることはなかったとされる。ただし、織田信長が仏教勢力に対して厳しい姿勢で臨んだとする史料のほとんどは、仏教勢力と対立関係にあったイエズス会のものであることに注意する必要がある。さらに、信長が一向一揆を滅ぼそうとしたとする史観は、江戸時代に本願寺教団によって流布されたものであるとの研究もある。
  • また一方では安土城天主内の天井、壁画に仏教、道教、儒教を題材とした絵画を使用したり、浄土真宗や延暦寺の宗教活動自体は禁止しなかった。
  • 安土城内に信長に代わる「梵山」と称する大石を安置して御神体とし、家臣や領民に礼拝を強要したと伝えられる(ルイス・フロイス『日本史』)。この自己神格化については、朝廷との関係や大陸出兵構想などの視点から肯定的な学説が数ある一方、否定的な学説も多い。また、フロイスがこのことを記述したのは信長の死後で、フロイスの記述以外の一級史料に見ることができないため、フロイスの記述そのものの信憑性について疑問視する研究もある。

朝廷政策

信長と朝廷との関係については、対立関係にあったとする説(対立説)と融和的な関係にあったとする説(融和説)で学界は二分されている。朝廷の代表者である正親町天皇と信長の関係については、織田政権の性格づけに関わる大きな問題であり、1970年代より活発な論争が行われてきた。1990年代以降は、今谷明が正親町天皇を信長への最大の対抗者として位置づけた『信長と天皇』を上梓し、桐野作人・立花京子らが実証研究に基づく本能寺の変「朝廷黒幕説」を提示するなど、本能寺の変の真相研究などと絡んで論争が活発になっている。

ただし、残存史料が不完全なこともあり、信長と朝廷の出来事をめぐっては全く違う解釈が可能である。

谷口克広は、いずれかの説をとる研究家を以下のように分類している。

対立説…秋田弘毅、朝尾直弘、池亨、今谷明、奥野高廣、立花京子、藤木久志、藤田達生
融和説…桐野作人、谷口克広、橋本政宣、堀新、三鬼清一郎、山本博文、脇田修
以下、信長と朝廷との関係についての論点と双方の説について述べる。

正親町天皇の譲位問題

天正元年(1573年)12月に信長より譲位の申し入れがあり、天皇もこれを喜んで受諾した。しかし、年が押し迫っていたため譲位は行われず、結局信長の死まで譲位は行われなかった。

「対立説」…朝尾、今谷、奥野、藤木ら
信長は朝廷に対しては金を出すだけでなく、口も出し、信長の言いなりにならない天皇と対立した。
各論
  • 誠仁親王への譲位と足利義尋(足利義昭の子)への将軍宣下を同時に行うことで、信長が両者を包摂した権力者になることを天皇が拒絶した…朝尾
「融和説」…谷口、橋本、堀、脇田ら
天皇が譲位を希望しながら、信長の経済的事情により実現しなかった。
これまで朝廷は財政難により、天皇の譲位が行われてこなかった。天皇の譲位は、信長の経済的バックアップによりはじめて可能となるのである。すなわち、天皇側が譲位を希望しても、信長が同意しない限り譲位は不可能であった。天正9年(1581年)の京都御馬揃え直後、正親町天皇から退位の希望が信長に伝えられ、朝廷の内部資料である『お湯殿の上の日記』には同年3月24日に譲位が一旦決定して「めでたいめでたい」とまで記載されたにも関わらず、『兼見卿記』4月1日には一転中止になったと記されている。

天正9年京都御馬揃え

信長が天正9年(1581年)に行った「馬揃え」への評価。

「対立説」…朝尾、今谷、立花、藤木ら
織田軍の力を見せ付けると同時に、朝廷への圧力、示威行動であった。
各論
  • なかなか譲位に応じない天皇を譲位させるための圧力…朝尾、今谷ら
  • 左大臣推任への圧力…立花
「融和説」…谷口、橋本、堀、脇田ら
正親町天皇は馬揃えにおける信長側の好待遇に喜んで信長に手紙を送って御服を下賜し、信忠にも褒賞を与えている。また、馬揃えには前関白近衛前久ら公家も参加していた。そのため、朝廷を威圧する目的はなく、京都の平和回復を宣伝するとともに天皇を厚遇して朝廷尊重の姿勢を見せる政治的な目的があった。
各論
  • 織田家中の士気の高揚と畿内制覇を天下に誇示するため…橋本
  • 誠仁親王の生母である万里小路房子の死去に伴う沈滞した朝廷の雰囲気を払拭するために、朝廷から依頼され、信長が安土城で行わせた大規模な左義長を再現した…堀

信長と官職

谷口克広は、いずれかの説をとる研究家を以下のように分類している[25]。

対立説…秋田弘毅、朝尾直弘、池亨、今谷明、奥野高廣、立花京子、藤木久志、藤田達生
融和説…桐野作人、谷口克広、橋本政宣、堀新、三鬼清一郎、山本博文、脇田修
以下、信長と朝廷との関係についての論点と双方の説について述べる。「対立説」…秋田、朝尾、今谷、藤木ら
信長が三職推任に明確に反応しなかったのは、朝廷離れの姿勢、もしくは朝廷への圧迫を示したものである。
各論
天皇を自分の権力機構に組み込もうとするため…秋田
官位制度の枠外に立つことで朝廷の枠組みから解放されようとしたため…朝尾
官職就任を天皇の譲位と交換条件にしたため…今谷
「融和説」…谷口、橋本、堀、脇田ら
朝廷離れの姿勢を示したものではない。
各論
右近衛中将の足利義昭への対抗として右近衛大将[28]に任官した以上、信長にとって官位は不要だった…谷口
宮廷儀礼から解放されるため…脇田
織田家当主とした信忠の方の官位昇進を望んだため…堀、谷口
非公式に太政大臣就任を了承していた…橋本、脇田[29]
三職推任問題については、双方の説も朝廷主導と見るのが有力であったが、立花京子が信長の意思であるとの新説を提唱し、論争となった。なお、三職推任問題については、条件提示が本能寺の変直前であったために時間がなくて返答できなかったとも考えられている。

信長の官位奏請

信長の家臣のうちで正式に叙位任官された者はそれほど多くなく、修理亮や筑前守など従五位前後のものに留まった。また一族でも嫡子信忠は従三位近衛中将まで昇ったが、その他の者の官位も高くはなかった。一方で、徳川家康や佐竹義重といった同盟大名や家臣への官位奏請も行っている。

商業政策

商工業者に楽市・楽座の朱印状を与え、不必要な関所を撤廃して経済と流通を活性化させた。ただ、全ての座を無くさせたわけではない(そんな事をすれば当時の流通は麻痺してしまう)。したがって楽座にできるところは楽座に、京都のように座が力を持っている都市では座を利用した。

人事政策

基本的に他家と比較して重臣の権限や裁量余地が大きい。柔軟であると同時に体制・統治に関する成文が非常に少なく一面では杜撰とも言える。

  • 能力主義を重視して、足軽出身の木下藤吉郎(羽柴秀吉)、浪人になっていた明智光秀、忍者出身とされている滝川一益などを登用する一方で、譜代の重臣である佐久間信盛や林秀貞らを追放した。佐久間や林にはそれなりの実績があったが、同様の譜代家臣ながら北陸方面軍の指揮官として活躍する柴田勝家などと比すと物足りないものがあった。重臣として織田家に居座りつつ、活躍以上の利権を自己主張する佐久間や林に対し、懲罰的粛清を断行したと見る向きもある。しかし、佐久間信盛には19ヶ条の折檻状を出し、それを要約するとただ有無を言わさず追放したのでは無く、隠棲するか命を懸けて手柄を立てるかを選ばせている。この折檻状や前田利家の復帰から、失敗を上回る功績を立てれば許すという方針を持っていたと言える。
  • 佐久間信盛や林秀貞ら譜代家臣および安藤守就の粛正については、家臣の所領を整理し織田家直轄領を増やす目的もあったと見る事もできる。
  • 当時流行した茶の湯を家臣団掌握の手段など、政治的に活用し、一国に値する程の価値があった「名器と称される茶道具」を領地、金銭に代わる恩賞として与えたりもした。恩賞と領地加増の関係については、どの大名にとっても多かれ少なかれ頭の痛い問題であったのだが、信長はそれをうまく改善してのけたと言える。甲斐攻略で戦功を上げた滝川一益が信長に対し、珠光小茄子という茶器を恩賞として希望したが、与えられたのは関東管領の称号と上野一国の加増でがっかりしたという逸話がある。
  • 宣教師と共にやってきた外国兵を受け入れ、出身を問わず、自らの兵として登用していた。
  • 人事においては厳しい一面があったとされるが、羽柴秀吉が子に恵まれない正室・ねねに対して辛く当たっていることを知ると、秀吉を呼び出して厳しく叱責し、ねねに対しては励ましの手紙を送るなど、人間味を見せているところがある。また、彼が追放した佐久間信盛・信栄に関しては信盛が亡くなると、信栄の帰参を許したことからも反省したと判断したのかは不明だがその動向を気にしてはいたようである。
  • 信長の側近の中に軍師・参謀的な人物は全く見受けられず、堀秀政、森成利(蘭丸)といった、命令を遂行するために必要な秘書官だけが登用されていた(竹中重治黒田孝高は信長の家臣だったが、実際には秀吉の陪臣であった。考高は信長の実力を認めながらも、信長に仕えても軍師として活躍の場が与えられないと考え、あえて秀吉を選んだという説が有力である)。ここまで成功した人物にそういった者がいないケースはそう多くない。信長自身が他人の意見に従う事を好まず、このことが、周囲の人物が信長の意図を理解できずについていけなくなっていった要因の一つとも言われている。ただ、乱世の時代に急速な改革を遂行するためには止むを得なかったという見方もある。ちなみに、日本においては軍師自体存在していない(中国の制度である)ので、竹中重治が軍師であったというのは後世の創作であり、正確な役割としては参謀だったと思われる。
  • 戦国時代に寝返りや裏切りは日常茶飯事であったにも関わらず、信長を裏切った者の大半は信長が上洛してからの家臣であり、尾張・美濃時代からの家臣の中で、信長に背く者はほとんど見受けられない。
  • 天正8年(1580年)、信長は林秀貞を昔の謀反の罪で追放したが、同じ罪にあった柴田勝家には罪を問わなかった。その上、信長は存命中、勝家に対し越前8郡75万石という織田家臣団随一の領国と、織田家筆頭家老の地位を与えていた。また、松永久秀に対してもその実力を評価し、二度も降伏を許している。このように、有能であれば、その罪を許し重用もしていた。

戦略

  • 戦略としては、入念な準備を行い相手の力を削ぎ、その上で相手よりも多くの兵によって戦うといったどちらかと言うと慎重な手段を用いることが多く、桶狭間の戦いに代表されるような敵の意表をつき寡兵で大軍を破ろうとする策はあまり取らなかった。特に信長がその存在を警戒した武田信玄・上杉謙信の両名には自分から積極的には兵を出さず慎重に対応し、贈り物を欠かさないなど外交的に下手に出ることも忘れなかった。信玄・謙信も信長へは単独では挑まず、周囲と協力して当たった。しかし、後述のように時には寡兵による戦闘を行っており、時機を考慮し遅れた援軍を待たずに交戦するなど臨機応変に対応している。
  • よく根切り(皆殺し)を命じたように思われているが、実際に相手の降伏も許さず殲滅したのは寺社勢力との戦ぐらいで、武田征伐・第二次天正伊賀の乱等の戦いでも一部の相手の降伏を受け入れている。寺社勢力との戦いでも、先に武力を行使したことは無く和睦を申し出たり仏法に則っての中立を促すなどをしていたが、相手がそれを一蹴したり破るなどをしていた。長島・越前の戦い等では相手を殲滅したが、その大元である顕如率いる本願寺との和睦も何度か受け入れている。また、高天神城の戦いでの家康方への手紙を見ると相手への威圧や敵の調略を容易にする行為として駆使していたことが窺える。
  • 個人的な武勇にも優れていたと言われる。桶狭間の戦いをはじめ、一乗谷城の戦い、石山本願寺との天王寺砦の戦いでは大将でありながら自らが先頭に立って、奮戦しているほどである。大名自身が最前線に立って戦うことは異例であった。
  • 機動力に優れており、例えば六条合戦では、本来なら3日はかかる距離を2日で(しかも豪雪の中を)踏破し、摂津に対陣している間に浅井・朝倉連合軍が京都に近づいた際にも、急いで帰還して京都を守り抜いている。

内政

  • 敵大名や一揆衆や自らの配下には苛烈であった信長だが、地味な内政や民心掌握に敏腕を発揮しており、信長が支配下に置いた尾張・美濃などの多くは信長によって終生、善政が敷かれていた。桶狭間の戦いにおいても信長が勝利することができたのは、領民の支持があったからだとされている。相次ぐ戦乱で荒廃した京都の町人たちも、銭一文でも掠奪した者は斬首する(一銭切り)といった厳正な信長の統治に対しては歓迎したという。織田軍の足軽が道を行き交う女性に絡んでいるのを見かけた信長が、京都の治安を乱す行為をしたとして自身で手討ちにしたという挿話もある。また、本能寺の変の後に、明智光秀についた国人層が少なかったことも、これを裏付けている。
  • 楽市楽座は信長が最初に行なった施策と言われることが多いが、実際には近江南部の戦国大名であった六角定頼(信長に滅ぼされた六角義賢の父)が最初に行なった施策である。しかし信長も、楽市楽座を大規模な施策とし、さらに琵琶湖などを中心とした流通による商業発展を目指すなど、やはり先見性のある内政を行なっていたと言える(流通による商業政策が重視され始めたのは江戸時代後期であり、それまでは年貢が重視されていた)。
  • 公共事業にも手を伸ばしており、道を整備し道標代わりに一里毎に木を植える(一里塚)などといった街道整備を手がけている。これにより、自軍の行軍速度が速くなり、関所の撤廃と合わさって様々な地から人の往来がしやすくなることで商業が活性化するといった効果をあげた(他国では、敵の行軍速度も速くなるという短所もあったのでなされなかった)。
  • 信長が公認した枡のそれぞれに焼印や花押を押すことによる単位の統合、質の悪い貨幣ではなく良い貨幣を使うよう呼びかける選銭令を発令したりと、社会・経済の基盤を安定させる政策を行った。

後世の評価

江戸時代においては小瀬甫庵が記した『信長記』によって知られたが、『絵本太功記』等で庶民に親しまれた豊臣秀吉に比べると、庶民の間での評価はそれほど高くなかった。明治以降は信長が行った御料所回復等の事蹟が勤皇家としての評価につながり、明治2年(1869年)に明治政府は織田信長を祀る神社の建立を指示した。明治3年(1870年)、天童藩(現在の山形県天童市)知事の織田信敏が東京の自邸内と、藩内にある舞鶴山に織田信長を祀る社を建立した。この時信長を祀る社には神祇官から建織田社、後には建勳社の社号が下賜された。その後、明治13年(1880年)には東京の建勲神社は、京都船岡山の山頂に移っている。大正6年(1917年)には正一位を追贈された。

戦後になると、信長の政治面での事蹟が評価され、改革者としてのイメージが強まった。またルイス・フロイスが記した『日本史』の研究が進み、比叡山焼き討ちや自己を神とする行動や「(信長が)自ら手紙に第六天魔王と記した」という記述から「無神論者」、「破壊者」といったイメージが生まれ、その設定を利用したフィクション作品も数多く生まれている。実際、秀吉・家康に与えた信長の影響は計り知れない。事実この2人は後継者にそれぞれ織田の血を引く者を当てており、死後もその影響力は大きかったようである。

 
 
■その他戦国武将紹介についてはトップページまたはメニューから。
戦国武将大百科トップページ
copyright2009 "〜戦国最強徹底検証!〜 戦国武将大百科"サイト内の文章の複製は禁止しています。
inserted by FC2 system