戦国最強は誰だ!?徹底検証!   
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伊達 政宗 〜「独眼竜」と称される野心の男、豪華絢爛を好む屈指の教養人〜

 

伊達 政宗(だて まさむね)は、戦国時代の武将。出羽国(羽州)と陸奥国(奥州)の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。
本姓は藤原氏。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。第16代当主・伊達輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男。幼名は梵天丸、字は藤次郎、諡号は貞山。神号は武振彦命で、青葉神社に祀られる。

幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し隻眼となったことから、後世には「独眼竜」と称されている。また、天下取りを狙い続けた野心の男として(後述の#政宗の野望を参照)、豪華絢爛を好む戦国屈指の教養人として知られている。

生涯

幼年期

家督相続から摺上原の戦いまで

天正5年(1577年)に元服、天正7年(1579年)には仙道の戦国大名で三春城主田村清顕の娘愛姫を正室とする。天正9年(1581年)、隣接する戦国大名・相馬氏への侵攻に15歳で初陣し、勝利を収める。

天正12年(1584年)に18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する。父・輝宗は41歳の働き盛りでもあり、政宗は当初、若年を理由に辞退を申し出たが、政宗の武将としての素質を見抜いていた輝宗の決意は固く、家督を相続することとなった。

小手森城主・大内定綱は二本松城主・二本松義継と手を組み、田村氏の支配から脱却し、政宗に対抗しようとした。天正13年(1585年)、政宗は小手森城へ兵を進める。討伐の際は、降伏を認めないなどの徹底した粛清(小手森城の撫で切り)を行い、非道な一面を見せた。豪族が殆ど親戚・縁戚同士という奥州では皆殺し戦術は前代未聞の大事件であり、近隣の戦国大名を恐怖に陥れた。これは、近隣諸国への見せしめである。しかし、一方で政宗は後年、戦略的見地から定綱を家臣の列に加えている。

大内定綱の没落を間近で見た二本松義継は和議を申し出、輝宗の取りなしにより5ヶ村のみを畠山領として安堵することになった。ところが輝宗が、所領安堵の件などの礼に来ていた義継を城門まで見送りに行った所を拉致される。政宗は事件の時、狩りに出かけていたが急遽戻って一行を追跡し、輝宗もろとも鉄砲を放って一人も残さず殺害したという。この事件は、輝宗が自分とともに義継を撃てと命じたとの説や追跡してきた政宗の軍勢がすでに鉄砲で武装していたことから、政宗の父殺しの陰謀だったとする説など発生原因も含めて諸説ある。

その後、初七日法要を済ますと輝宗の弔い合戦のため早くも二本松城を包囲し、二本松氏救出のため集結した、佐竹氏・蘆名氏など3万の反伊達連合軍と安達郡人取橋で死闘を演じた。数の上で5分の1以下の戦力であった伊達軍は重臣・鬼庭良直を討たれ窮地に立つものの辛くも持ち堪え、反伊達連合軍の撤退により政宗は勝利を収めた(人取橋の戦い)。

政宗は更なる侵攻を行い、天正16年(1588年)に郡山合戦にて相手国の領土を奪う。正妻・愛姫の実家・田村氏の協力を得て、現在の福島県中通り中部にあたる地域まで支配下に置く。

関白・豊臣秀吉は関東・東北の諸大名、特に関東の北条氏と東北の伊達氏に対して、惣無事令(私戦禁止令)を発令した。しかし、政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行した。

同年、北方の大崎氏家中の内紛に介入、兵1万を以て攻め入ったものの大崎氏の頑強な抵抗、及び味方であった黒川月舟斎の裏切りと大雪により敗北。これに乗じて伊達領南部に蘆名氏、二階堂氏らが侵攻。また伯父・最上義光とも一触即発の事態となるが母・義姫の仲介により和議が成立し窮地を脱した(大崎合戦)。

天正17年(1589年)には東北地方の覇権を賭けて会津の蘆名義広・佐竹義宣の連合軍と戦う。この戦いを摺上原の戦い(磐梯山麓・猪苗代町付近)という。蘆名氏はすでに関白、秀吉傘下の大名となっており、政宗が蘆名氏と戦うことは秀吉への挑戦を意味していた。蘆名義広は1万5000の兵を率い、政宗も2万1000を率いて磐梯山の中腹に陣を敷いた。この戦いで伊達軍は騎馬武者300騎、兵2000余りを討ち取ったという。黒川城を陥落させ蘆名氏を滅ぼし会津地方を支配した。さらに兵を須賀川へ進め二階堂氏を滅ぼした。この戦いと前後して、白河義親、石川昭光、岩城常隆が次々と政宗に服属した。

このとき政宗は現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の南部、宮城県の南部を領し全国的にも屈指の領国規模を築いた。これに加え上述の白河氏といった南陸奥の諸豪族や、また今の宮城県や岩手県の一部を支配していた大崎氏・葛西氏も政宗の勢力下にあった。

豊臣秀吉との対立

この頃、中央では豊臣秀吉が織田信長の統一事業を継承しており、政宗は秀吉と鋭く対立した。秀吉から上洛して恭順の意を示すよう促す書状が何通か届けられており、政宗はこれを黙殺していた。政宗は父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にあったため、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前まで迷っていた。しかし、天正18年(1590年)、秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉に服属し、秀吉は政宗の本領を安堵した(ただし、会津領攻略は秀吉の令に反した行為であるとされ、会津領などは没収され、72万石になった)。記録ではこのとき小田原攻めに遅参したという理由で秀吉が政宗を事実上監禁して脅したが、政宗は詰問に来た前田利家らに千利休の茶の指導を受けたいと申し出、秀吉らを感嘆させた。この行為は秀吉の派手好みの性格を知っての行いと伝えられる。政宗が秀吉に服属したため、政宗と同盟を結んでいた北条氏政・北条氏直親子は秀吉に降伏し、政宗の居城、会津・黒川城へ入城した秀吉は奥州仕置を行った。ここに秀吉の「日本統一」が達成された。

参陣前に母親に毒殺されそうになり、母親を成敗する代わりに弟の伊達小次郎を斬殺したという説が通説となっているが、毒殺創作説も存在する。母・義姫(保春院)はその後も伊達家にとどまったが、4年後に実家の兄・最上義光のいる山形城へ突如出奔した(詳細は義姫参照)。

翌天正19年(1591年)には蒲生氏郷とともに葛西大崎一揆を平定するが、政宗自身が一揆を扇動していた嫌疑をかけられる。これは氏郷が「政宗が書いた」とされる一揆勢宛の書状を入手した事に端を発する。また、京都では政宗から京都に人質として差出した夫人は偽者であるとか、一揆勢が立て篭もる城には政宗の幟(のぼり)や旗が立てられているなどの噂が立ち、秀吉の耳にも届いていた。そこで政宗は上洛。一揆扇動の書状は偽物である旨秀吉に弁明し許されるが、米沢城から玉造郡岩手沢城に58万石に減らされての転封となり、城名を岩出山城に変えた。

文禄2年(1593年)秀吉の朝鮮出兵に従軍して朝鮮半島へ渡る。また、普請事業なども行う。朝鮮出兵時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中において盛んに巷間の噂となった。3000人もしくは1500人の軍勢であったとの記録がある。他の軍勢が通過する際、静かに見守っていた京都の住民も伊達勢の軍装の見事さに歓声を上げたという。これ以来派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになった[5]、と伝えられる。これは、派手好みの秀吉が気に入るような戦装束を自分の部隊に着させることで本陣に近い配置を狙い、損害を受けやすい最前線への配置を避けるよう計算したものと言われる。

文禄2年以降浅野長政が取次として伊達政宗と豊臣政権のパイプとなっていたが、文禄5年8月14付けの書状で政宗は長政の態度に我慢がならずに絶縁状を送りつけて絶交を宣言した[6]。秀吉に早くから服属して五大老に選ばれた大名たちとは異なり、政宗は北条氏と同盟して秀吉と対立したため、五大老には選ばれなかった。

文禄4年(1595年)、秀吉から謀反の疑いをかけられた関白・豊臣秀次が切腹した。秀次と親しかった政宗の周辺は緊迫した状況となり、この時母方の従姉妹に当たる最上義光の娘・駒姫は、秀次の側室になる為に上京したばかりであったが、秀次の妻子らと共に処刑されてしまう。政宗も秀吉から謀反への関与を疑われるも、最終的には無関係であるとされ連座の難を逃れた。

秀吉の死後、五大老・徳川家康と政宗は秀吉の遺言を破り、慶長4年(1599年)、政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝を婚約させた。

関ヶ原合戦と最上陣

豊臣秀吉死後の慶長5年(1600年)に家康が会津領主・上杉景勝に謀反容疑をかけ、上杉討伐を行うと従軍して、7月25日に上杉の支城で登坂式部勝乃が守る白石城を陥落させた。家康の留守中に五奉行の石田三成らが家康に対して毛利輝元を総大将として挙兵し、小山まで北上していた家康は西へ向かった。この際、家康は政宗に、戦勝の暁には現在の所領58万石に加え、新たに49万石の領土を与えるという内容の書状(「百万石のお墨付き」仙台市博物館・蔵)を送っている。これは、家康が上杉景勝を会津に釘付けにしておくため、政宗の東軍参加が是非とも必要であったことから、100万石のお墨付きを与え、東軍参加を促したとされる。

同年9月、関ヶ原の戦いが勃発すると、東軍に属した政宗は、上杉氏の将直江兼続率いる軍が最上氏居城山形城を攻撃した際、留守政景を名代として最上に援軍を派遣した(長谷堂城の戦い)。9月25日には茂庭綱元に命じて、上杉領の湯原城を攻略させた。

政宗は長谷堂城の戦い後、直江兼続が米沢に帰ったのを見て取ると、仙道方面への侵略を開始、10月6日宮代で本庄繁長の上杉軍を破った。伊達軍は更に福島城を囲んだが、城の防御は堅く、翌日には撤退した(宮代表合戦、上杉家俗称松川の戦い)。

戦後、政宗が密かに白石宗直に支援させて、南部氏領国で和賀忠親に一揆を煽動させていた策略が発覚した(一揆軍は翌慶長6年4月に敗北)。この「和賀一件」を重く見た家康は、事件追及の構えを見せ、49万石加増、すなわち計100万石の約束手形を反故にした。結果的に政宗への恩賞は、仙台開府の許可と陸奥国刈田郡(白石)合わせて2万石の加増のみにとどまり、領地は60万石となった(後に近江国と常陸国に小領土の飛び地2万石の加増で62万石となる)。

仙台開府と慶長遣欧使節

ローマ教皇から政宗にあてられた書簡慶長6年(1601年)には仙台城、仙台城下町の建設を始め、居城を移す。ここに、伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生した。石高62万石は加賀・前田氏、薩摩・島津氏に次ぐ全国第3位である。

仙台城は山城で天然の地形を利用した防御であるものの、仙台の城下町は全面的な開発であるため、のべ100万人を動員した大工事となった。藩内の統治には48ヶ所の館を置き家臣を配置した。

政宗は仙台藩とエスパーニャとの通商(太平洋貿易)を企図し、慶長18年(1613年)、仙台領内において、エスパーニャ国王・フェリペ3世の使節セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船・サン・フアン・バウティスタ号を建造した。政宗は家康の承認を得ると、ルイス・ソテロを外交使節に任命し、家臣・支倉常長ら一行180余人をヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、エスパーニャ、およびローマへ派遣した(慶長遣欧使節)。

大坂の役

慶長19年(1614年)の大坂の役(夏の陣)では大和口方面軍の後見役として参加し、道明寺の戦いでは後藤基次らと戦った。基次は伊達家家中・片倉重長の攻撃を受けて負傷し自刃したといわれる。道明寺口の要衝小松山に布陣をする後藤隊を壊滅させた大和方面軍は誉田村に兵を進めるが、ここで伊達隊は真田信繁(幸村)の反撃を受けて後退を余儀なくされた。これに対し先鋒大将の水野勝成は政宗に真田隊への再攻撃を再三に渡り要請するが、政宗は弾薬の不足や兵の負傷などを理由にこれを悉く拒否し、最後は政宗自ら勝成の陣に赴き要請を断った。このため信繁は悠々と大坂城に引き返し「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」(「関東武者は100万あっても、男と呼べる者は誰一人として居ない」)と嘲笑したという。なお、誉田村での戦闘中に政宗勢は水野家家中3人を味方討ちにし、水野家の馬を奪っているが、勝成は政宗の軍勢を待ち伏せにし兵を斬り殺して馬を奪い返した。しかし、これに政宗が異議を唱えることはなかった。

翌5月7日の天王寺の戦いで政宗は船場口に進軍し明石全登隊と交戦していた水野勝成勢の神保相茂隊約300人を味方討ちにする(6日とする説もある)。神保隊は味方であることを必死に訴えたが、政宗の軍勢は攻撃をやめず神保隊は全滅し相茂自身も討ち死にすることになったという。神保家の遺臣は水野勝成らを通じて政宗に抗議するが、政宗は開き直り「神保隊が明石隊によって総崩れになったため、これに自軍が巻き込まれるのを防ぐため仕方なく処分した。伊達の軍法には敵味方の区別はない」と主張して諸大名の笑いものになった(薩藩旧記巻六)。

しかし、幕府は伊達家を不問とし記録(寛政重修諸家譜)にも神保相茂は「奮戦して死す」とのみ記述される。この事件は直後から様々な興味と憶測を生み、講談本(『難波戦記』)では休息中の神保隊に有無を言わさずに銃撃を加えたとする説も書かれている(詳細は神保相茂の項を参照)。また、味方討ちは5月7日の天王寺の戦いではなく、5月6日の道明寺の戦いの際であるとの説もあり、前述のように道明寺の戦いでは水野家家中3人を撃ち殺しているので7日説では2日連続で味方討ちを行ったことになるが、6日説であれば水野隊も銃撃に巻き込んだ可能性が高いことになる。

晩年

伊達政宗 平和像世情が落ち着いてからは、もっぱら領国の開発に力を入れ、後に貞山堀と呼ばれる運河を整備した。北上川水系の流域を整理し開拓、現代まで続く穀倉地帯とした。この結果、仙台藩は表高62万石に対し、実高100万石を越える米の生産量を確保した。文化的には上方の文化を積極的に導入し、技師・大工らの招聘を行い、桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出し、国宝の大崎八幡宮、瑞巌寺、また鹽竈神社、陸奥国分寺薬師堂などの建造物を残した。さらに近江在住の技師・川村孫兵衛を招き、北上川の河口に石巻港を設けた。これにより北上川流域水運を通じ石巻から江戸へ東廻り航路で米を移出する体制が整う(江戸時代の多くの期間において、江戸で流通する米の半分は仙台藩石巻港からの廻米であった)。

2代将軍徳川秀忠、3代徳川家光の頃まで仕えるが、寛永13年(1636年)正月頃から食事が喉につかえるといった体調不良を訴え始める。しかし前年より始まった参勤交代制に従い、同年5月1日には江戸城で将軍家光に謁見。病をおして参府した政宗に感激した家光は、その後しばしば政宗の居留する桜田の伊達家上屋敷に見舞いのため老中を派遣した。5月21日政宗危篤。この報を受けた家光は直ちに自ら伊達家上屋敷に赴き政宗を見舞った。感激した政宗は髪を整え、裃を来て3人の老中に身体を支えられながら家光を迎えたという。

5月24日早朝死去。享年70(満68歳没)。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌(食道噴門癌)と推定されている。「伊達男」の名にふさわしく、臨終の際、妻子にも死に顔を見せない心意気であったという。5月26日には嫡男・伊達忠宗への遺領相続が許された。遺体は束帯姿で木棺に納められ、防腐処置のため水銀、石灰、塩を詰めた上で駕籠に載せられ、生前そのままの大名行列により6月3日に仙台へ戻った。殉死者は家臣15名、陪臣5名。「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という政宗の考えから死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられている。将軍家は、江戸で7日、京都で3日人々に服喪するよう命令を発した。これは御三家以外で異例のことであった。

辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」。


法名:瑞巌寺殿貞山禅利大居士(尊称:貞山公)。

遺訓

  • 一、仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐれば諂(へつらい)となる。智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする。
  • 一、気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備ふべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし。
  • 一、朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ。
  • 一、今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申すがよし。

墓所

墓所:仙台市青葉区霊屋下の瑞鳳殿(ずいほうでん)。これは政宗の死後、伊達忠宗によって寛永14年(1637年)10月に建立された。昭和6年(1931年)に国宝に指定されたが、昭和20年(1945年)の戦災で焼失し、現在の瑞鳳殿は昭和54年(1979年)に再建されたものである。

再建に先駆けて、昭和49年(1974年)には発掘調査が行われ、遺骨の学術的調査から身長は159.4cm(当時の平均的身長)であることや、 遺骸毛髪から血液型がB型であることが判明した。歯槽膿漏により上あごの左右の犬歯以外はすべて抜け落ちていた。天正17年(1589年)に米沢で落馬し骨折した時のものと思われる、左腓骨の骨折の跡も見つかった。また、副葬品として太刀、具足、蒔絵を施した硯箱、鉛筆、懐中日時計兼磁石、懐中鏡、煙管、銀製ペンダント、黄金製のロザリオなど、30余点が確認されている。

政宗の野望

政宗は豊臣政権時代から、隙あらば天下を簒奪しようと何度も策略していたとされている。

  • 秀吉の小田原征伐のとき、参陣に遅延したのは、奥州、特に新たに手に入れた蘆名氏領土の「経略多端」の故と弁明している。佐竹氏一派と対抗し、同盟関係にあった後北条氏と手を結んで秀吉を倒そうとした。秀吉は、伊達氏を従えて奥州仕置を行なった。また、伊達家を中心に奥州の諸大名の連合軍を組織し後北条氏と連携、徳川家康ら豊臣家中の不穏分子の蜂起を待つという構想も持っていたようだ。
  • 葛西大崎一揆を扇動して、密かに領土拡大を狙ったという説がある。
  • 関ヶ原の戦いのとき、和賀忠親を扇動して南部利直の領土を侵略しようとしたが失敗した。
  • 政宗の裏切りに対して家康は報復し、刈田郡のみの加増にとどめた。これは東軍参加の武将の中では加増の伸び率が最も少ない部類である。
  • 政宗の関ヶ原直前の所領58万石は度量衡改定以前の1反360歩で計算されたものという説があり、これが正しいとすると豊臣政権において定められた1反300歩で計算した場合、67万石にまで上昇する。また仙台平野には開墾に適した三角州などの土地が多数存在し、当初から土地には余裕があった。政宗は関ヶ原以降、開拓地を知行として与える方式を取りら各領主に開墾を奨励、仙台平野の新田開発を推し進めた(寛永5年(1628年)には、白石城主片倉重長が新田開発を行い1000石相当の石高を新たに獲得している)。この政宗に始まる開墾事業は後の藩主たちにも受け継がれ、仙台藩の実高はみるみる増大した。寛文年間以降は藩自らが主動した新田開発も行われた。100年後の江戸時代中期には実高200万石とも謳われる日本最大級の藩に成長した。政宗が江戸に廻送を始めて以降、江戸に供給される米の大半は仙台の米となり、作の豊凶は江戸の米相場を支配するほどであった。最盛期には表高の1/3にあたる20万石もの米が江戸に出荷されていた。享保17年(1732年)には、西国の蝗害により江戸で米価の暴騰が起こり、例年の倍以上の米が出荷されたとある。なお、このときの収益は約50万両にものぼったという。この豊かさは広く知られており、安井息軒の『読書余滴』に「二百万石余」、帆足万里の『東潜夫論』には「二百五十万石」との記述がある。
  • 政宗は幕府転覆を図るために、支倉常長を使者としてローマに派遣した(慶長遣欧使節)。このときのことを示す有力な史料もある。支倉常長はローマとの軍事同盟交渉のとき、国王・フェリペ3世に対して、「政宗は勢力あり。また勇武にして、諸人が皆、皇帝となるべしと認める人なり。けだし日本においては、継承の権は一に武力によりて得るものなり」と発言している。また、仙台藩の庇護を受けていた宣教師のジェロニモ・デ・アンジェリスも、次のような手紙を本国に送っている。

テンカドノ(家康)は政宗がスペイン国王に遣わした使節のことを知っており、政宗はテンカに対して謀反を起こす気であると考えていた。彼ら(家康・秀忠父子)は政宗がテンカに対して謀反を起こすため、スペイン国王およびキリシタンと手を結ぶ目的で大使(支倉常長)を派遣したと考えた。

  • 支倉常長はローマ教皇にも謁見した。この時代の日本人がローマ教皇に謁見した史実は、日本の外交史の中で特筆される実績であり、今でもスペインのコリア・デル・リオには現地に留まった仙台藩士の末裔が多数存在する。彼らは「日本」を意味する「ハポン」を姓として名乗っている。
  • 政宗は幕府軍と天下を賭けて戦うことになった場合には、「仙台御陣の御触に付御内試」という、幕府軍との決戦に備えた図上演習、すなわち作戦立案をしていたとされる。
  • 元和二年大坂御陣落去以後。仙台出馬之由にて御陣触御座候。此時貞山(政宗)様御内試に。御家中の妻子人しち御取なされ。さて仙台川を藤塚閑上辺にてせき留藤塚へ番勢を被指置。御裏林より砂押へ御馬を被出。砂押御鉄砲薬蔵の南の山。にか峯に御旗を被立。御対陣可被成との御内試にて。其節ひしと御裏林よりかの地へ。御出御見分被遊候。
    (仙台川(現在の名取川)を堰き止めて仙台南部を水浸しにして幕府軍の進軍を阻止し、さらに狭隘地に幕府軍を誘い込んで迎撃する一方で、一揆衆を幕府軍後方で扇動し、後方を撹乱するつもりだった)
  • 大軍を御引受。御境目之御一戦。万一御おくれの刻。右に書付御内試之通。横川筋へ御馬を被入候節。御定かかりの地と申候。自然御運命尽夫も不被為叶時節に候はば。御最期之場と思召にて、瑞巌寺御菩提所に御取立被成候よし。
    (政宗は幕府軍に敗れた場合は、松島瑞巌寺にて自害するつもりだった)

? 『東奥老子夜話』より抜粋

  • しかし、政宗と親密であった徳川家の家臣、大久保長安が死後に一族もろとも処罰され(大久保長安事件)、娘婿の松平忠輝(家康の六男)が改易され、スペインとの同盟が不調に終わり、倒幕は実現されなかった。
  • 幕府は政宗存命中は、政宗がいつ謀叛を起こすかと常に警戒していたといわれている。家康晩年の元和2年(1616年)1月23日のイギリス商館長・リチャード・コックスの日記では、「風評によれば、戦争は今や皇帝(家康)とその子カルサ様(松平上総介忠輝)との間で起こらんとし、義父政宗殿は、カルサ殿の後援をなすべし云々」と記されている。
  • 寛永5年(1628年)3月12日、政宗は徳川秀忠を仙台藩江戸屋敷に招待して供応した。このとき、政宗自らが秀忠の前に膳を運んだのだが、そのとき秀忠側近の内藤正重が、「伊達殿に鬼見(毒見)をしてほしい」と声をかけた。政宗はこれに対して、「外記(正重)言はれぬ事を被申候。政宗程の者が御成を申自身御膳を上るうへ。おにする(毒見する)所にてはなきぞ御膳に毒を入るるは、早十年前の事なり十年前にも。日本の神かけて毒などにて。殺し奉るべきとは夢々思はぬぞ。一度は乗寄てこそとは思ひ候」と激怒して返答したと、『政宗公御名語集』に記されている。つまり、10年前の元和4年(1618年)なら、(徳川幕府の基盤がまだ磐石ではなかったため)謀反を起こす気もあったが、その時でさえ、この政宗は毒殺などというせせこましいことはせず、一槍交えて戦おうとしただろうと正重を厳しく叱責しているのである。秀忠は御簾の向こうでこのやりとりを聞き、「さすがは伊達の親父殿よ」と涙したという。
  • 徳川秀忠は寛永9年(1632年)1月に死去したが、このとき秀忠は政宗を枕元に呼び、次のように述べたと『政宗公御名語集』にはある。

年月より病気次第に心重く覚候。兎角して快気難成覚候間。少も本心の有内に。其方へ掛御目度事は昔より今日至迄。御心指一ツとしてわするる事なし。大御所(家康)様駿河の御殿にて御病気重き折節悪き者の申入候にて、己に其方謀反のよし其聞へ候間。我等も御病気にもかまはず奥州へと心掛候。

(家康が駿府城で死の床に臥していたとき、政宗が謀反を起こすという噂が立ったので、家康は自分の病気にかまわず奥州討伐のための軍を起こそうとしていた)

  • 晩年の政宗は、『酔余口号』という漢詩を残している。「馬上少年過、世平白髪多、残躯天所赦、不楽是如何。」というものであり、前半の三句は「若い頃は馬に乗って戦場を駆け抜けたが、世は太平になり自分にも白髪が増えた。天に与えられた余生が残ってはいるが」と解釈できるものの、最後の句は「楽しまずんば是いかん(これを楽しまずしてどうしようか)」あるいは「楽しまず是如何に(楽しいとは思えないのはどうしたことか)」と全く違う2通りの解釈ができてしまう。政宗自身がどちらともとれるように作った可能性もあるが、政宗の残した大きな謎となっている。
  • 仙台城は山城で平和な世の治世には適さぬとして、自分の死後、平城へ移ることを奨めていた。逆に言えば生前は死の前まで天下を取る野心を捨てていなかったといわれる。

上述のように隙あらば天下を取ろうと狙っていた彼は、中央から常に警戒されていた。彼は「あと20年早く生まれていれば……(天下が取れたのに)」と悔しがっていたといわれる。

その一方で、家光の代においては「かつては天下を狙っていたが、今は家光を支える立場である」という事を示す逸話が見られる。

  • 家光の就任の宣言は「祖父、父とは違い、自分は生まれながらの将軍であるから、大名方は今後は臣従の礼をとるべきだ。異論があるならば国へ帰り戦の準備をされよ」という大変威圧的なものであった。政宗はこれに対し「政宗はもとより、異論のある者などおるはずがありませぬ」と即座に継ぎ、その場の皆が平伏したとされている。この家光の発言は政宗の助言によるものだったとも、あるいは幕閣が政宗に予め根回して即座に返答するよう依頼したとも言われている]
  • 家光が鷹狩に没頭し、下宿(外泊)を頻繁に行うのに困った幕閣が政宗に説得を頼んだ時のこと、政宗が「下宿はお止め下さい。私も家康公の御首を何度か狙ったことがございます」と家光に言い放つと、以後下宿を行わなくなったという。

逸話

出生など

  • 諱の「政宗」は父・輝宗が伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかって名づけたもので、この大膳大夫政宗と区別するべく藤次郎政宗と呼ぶことも多い。。本人もそのことを誇りにしていたようで、実際政宗はその先祖にまつわるところへの埋葬を望み結果的にそこへ埋葬された。
  • 政宗の異名「独眼龍」は、もともと中国の唐王朝末期、各地に割拠した軍閥の首領の一人で、その中でも軍事的に最強と謳われた李克用のあだ名である。たとえば『資治通鑑』巻第255に「諸将みなこれを畏る。克用一目微眇なり。時人、これを独眼龍と謂う」とある。
    • 政宗を「独眼竜」と称したのは明治34年(1901年)に発行された『独眼竜伊達政宗』(高橋紫燕・著、久保天随・校、大阪:鍾美堂)が最初である。左記著書は、国立国会図書館近代デジタルライブラリーで原文の詳細を読むことができる。
  • 隻眼の行者、満海上人の生まれ変わりであるという逸話は、政宗の存命中から広く知れ渡っており、東北地方の昔話の中には「仙台様(政宗のこと)の霊力で母親の病気を治してもらうために旅に出る農民の話」などが伝わっている。
  • 右目を失った原因は天然痘であったが、本人は木登りで遊んでいた時誤って転落し、枝が右目に刺さったため眼球ごと引き抜いて飲み込んだと周囲に吹聴していたといわれる。

妻・子供など

  • 正室・愛姫と、少なくとも7人の側室がおり、五郎八姫など十男四女を儲けた(他に落胤一男一女が確認されている)。
    • 政宗の側室の中には外国人の側室もいた。この側室は、政宗が出兵に従軍した際、捕虜として連れ帰った朝鮮人の女性である。
    • 政宗は正室・愛姫との間に儲けた嫡出の次男・忠宗を後継者とし、側室飯坂氏(通称・猫御前)との間に生まれた長男・秀宗はあくまで庶子とみなし、また豊臣家との関係もあったため本家を継がせなかった。
  • 衆道関係においては、小姓の只野作十郎(只野伊賀勝吉)へ宛てた書状が残されている。同じく衆道の関係にあった片倉景綱の息子重綱に対しても、大坂の陣出陣の前夜、翌日の先陣を願った重綱に、「そのほうに御先鋒仰せ付けられず候て、誰に仰せ付けられるべきや」と言って重綱の頬に接吻した、との記述が『片倉代々記』に残っている。

処世など

  • 大崎一揆煽動の疑惑で豊臣秀吉に呼び出され、白の死装束に金箔を塗った磔柱(十字架)を背負った姿で秀吉の前に出頭した。証拠の文書を突きつけられた際いは証拠文書の鶺鴒の花押に針の穴がない事を理由に言い逃れを行い、それまで送られた他の文書との比較で証拠文書のみに穴がなかったため、やり過ごす事が出来た。実際には2種類の花押を使い分けていた可能性が高く、秀吉も疑ったらしいのだが確証が得られなかった。但し、現存する政宗の書状の中に花押に穴の開いたものはない。
  • 政宗は朝鮮出兵に同行していない説があるが、俗説であり事実ではない。政宗らが渡鮮したことを実証するものとして、隠居所である若林城(現宮城刑務所)と政宗が再建した瑞厳寺に、朝鮮から持ち帰らせた「臥龍梅」が残っている。
  • 最上氏の居城である山形城が上杉家の攻撃を受けた際、片倉景綱が共倒れを狙い、漁夫の利を奪うよう進言したが政宗は母親の安全を理由にこれを却下し援軍を出したとされるが、定かではない。しかし、援軍は上杉軍が最上軍を攻めるのを傍観していた。上杉軍が山形城を落としてから動く陰謀を抱いていたとされる。
  • 政宗には離間、扇動工作等をした色々な嫌疑が絶えなかったが、黒脛巾組という忍者集団がいたと仙台藩士の半田道時の伊達秘鑑には掲載されている。その一方で、『政宗記』などには、黒脛巾組という名称の記述は見当たらない。参考(葛西大崎一揆や和賀忠親一揆等)。

徳川家との関係

  • 政宗は家康に従って後の天下取りの機会をうかがうことを優先し、旧領である上杉領に進攻し100万石のお墨付き分の領地を自らの手で獲得することを狙った。しかし、関ヶ原の戦いが予想以上に短期間で終結したためにその試みは頓挫した。
  • 大坂夏の陣後には天下安泰を願う家康に心服し、松平忠輝の改易などもあり天下取りの野望を諦めざるをえず、領国経営に努めたようだが、この説は、政宗の野望説を唱える史料(政宗は徳川幕府を倒し、婿の松平忠輝を将軍職に就ける構想を立てていたとするもの)などから否定されることも多い。
  • 砂金常房(砂金貞常の嫡男)は大坂の役で、軍令違反を起したが咎められず逆に一族に列したことなどから政宗の落胤ではないかとの説もある。
  • 徳川家光からは非常に尊敬されていた。政宗本人の器量に加え、自らを将軍として立ててくれた後見人であり、また敬神する祖父・家康とも渡り合った戦国の雄でもあって、家光にしてみればあらゆる面で父親替わりだったのであろう。第3代将軍の家光に「伊達の親父殿」と呼ばれていたこともある。幕府の意向はどうあれ、家光個人が政宗に向けた処遇は、明らかに外様に遇する程度を超えている。
    • 将軍の前での脇差帯刀を許されていたが、側近が酔って居眠りする政宗の刀を調べると中身は木刀であったという。
    • 二条城へと参内する際、御三家でも許されなかった紫の馬の総を伊達に与えた。
    • 政宗が病床についた際は、医者を手配した上で江戸中の寺社に快癒の祈祷を行わせ、死の3日前には家光自らが見舞いに来た。政宗が亡くなると、父・秀忠が死んだ時よりも嘆き入り、江戸で7日、京都で3日の間殺生や遊興が禁止された。
  • 実戦経験がない将軍家光はしばしば政宗など実戦経験豊かな大名に合戦について質問をした。ある日、政宗と佐竹義宣を招いて摺上原の戦いについて色々質問したが、勝者であった政宗が雄弁であったのに対し、敗者の佐竹義宣は始終無言で、唇を噛みしめているだけであったという。
  •  老年期、徳川秀忠を屋敷に招いた際、秀忠に生前の豊臣秀吉から下賜され常に差していた刀を譲るように要求された際、「殿に御献上する品を選ぶのは家臣である私の勤めです。殿自ら子供のように品を所望されるのは、将軍家の品位を大きく損なうものでございます」と反芻したと伝えられる。

趣向など

  • 料理が趣味(当時の大名は多趣味な者が多かったが、料理が趣味なのは極めて異例である)。元々は兵糧開発のために行っていたのだが、戦国が終わり太平の世になると美食を極めるために料理の研究をしていた。政宗は、料理について「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」と言う名言を『命期集』に残している。仙台発祥の料理が多いのは、政宗の影響と思われる。岩出山名物の凍り豆腐と納豆は、政宗の料理研究の末に開発されたものであるが、元々は兵糧用だった。仙台名物のずんだ餅も政宗が考案したという説がある。また仙台城下では味噌倉を建てていたが、大規模な味噌生産体制が行われたのは、これが最初といわれているという。
  • 料理の他にも多くの趣味を持ち、晩年は一日たりとも無駄に過ごすことがなかったと言う。特に若年から習っていた能には傾倒しており、奥小姓を太鼓の名人に弟子入りさせたり、自身も豊臣秀吉や徳川家光の前で太鼓を打つなどしている。政宗が晩年、能に使用した費用は年間3万石余に及んだという。
  • 隙のない印象の政宗であるが、酒には滅法弱く、酔って失敗した逸話がいくつか残されている。中には将軍秀忠との約束を二日酔いですっぽかし、仮病を使って言い抜けたという話まである。
  • 養生法が変わっていて、冬に炬燵の片側を開けさせていた。
  • 朝は早く目が覚めても、定時に側の者が起こしに行くまでは起床しないという拘りがあった。
  • 喫煙者で、毎日起床後・昼・睡眠前と、規則正しく3回煙草を吸っていた(当時の人々は煙草を薬と考えていた者が少なくなかった)。遺品に、愛用のキセルがある。
  • 遺品にロザリオがあったことなどから、政宗は密かにキリスト教に帰依していたのではないかと伝わっている。政宗の長女の五郎八姫は一時期キリシタンだったことがある。
  • 大悲願寺13世海譽の弟子として在山していた弟・秀雄の元を政宗が訪れ四方山話をし庭にあった白萩を気に入り所望し貰い受け、前述の臥龍梅を大悲願寺に贈った。

その他

  • 映画『スター・ウォーズ』のダース・ベイダーのマスクは仙台市博物館所蔵の「黒漆五枚胴具足 伊達政宗所用」の兜をモチーフにデザインされた。
  • 明治天皇は政宗の事を「政宗は、武将の道を修め、学問にも通じ、外国の事情にも思いをはせて交渉を命じた。文武に秀でた武将とは、実に政宗のことである」と評している。
  • 摺上原の戦いの後、政宗が黒川城に入城する際、戦勝を祝って一族の伊達重宗が即興で「音もせで 茅野(かやの)の夜の時雨来て 袖にさんさとぬれかからぬらん」と歌った。これが後に結婚式などのおめでたい席で歌われることがある東北民謡「さんさ時雨」の元歌になったと言われるが、俗説であり事実ではない。福島県北部と宮城県では、現在でも結婚披露宴等の祝いの席ではさんさ時雨が歌われるが、一方、福島県会津地方ではさんさ時雨を歌うと顰蹙を買うことがある。
  • 宮城県宮城郡松島町にある伊達光宗の菩提寺円通院には、伊達一本締めという仙台藩祖・伊達政宗ゆかりの一本締めが伝承されている。「いよ〜っ、パパパン!、いよ〜っ、パン!」という「3」と「1」の拍子の組み合わせが「三国一」を表しており天下を狙った政宗の夢が込められ、慶長遣欧使節の支倉常長もこの“伊達一本締め”で見送られ、徳川政権が安定してからは秘めた意味が露見しないよう姿を消したと言われている。そのため資料が一切残っておらず、伊達家所縁の円通院に代々人づてに伝えられていた。
 
 
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