戦国最強は誰だ!?徹底検証!   
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真田昌幸 〜上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退した知将〜

 

真田 昌幸(さなだ まさゆき)は戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名である。

信濃先方衆として甲斐武田氏家臣となった信濃国の地域領主・真田氏の出自。晴信時代の武田家に仕え、武田氏滅亡後に自立し後北条氏や徳川氏との折衝を経て豊臣政権下において近世大名化する。

上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで知られ、後世には戦国時代きっての知将、謀将としての人物像が付加され講談や小説などでも知られるようになる。

生涯

武田家臣時代

天文16年(1547年)、真田幸隆の三男として生まれる。

天文22年(1553年)、武田氏への人質として7歳で甲斐へ下り、武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わった。信玄は昌幸の父・幸隆にも劣らぬ才能を早くから見抜いて、「我が眼」と称して寵愛したと伝えられている。昌幸は永禄年間に信玄の母系・大井氏の支族である武藤家の養子となり、「武藤喜兵衛」を称し足軽大将に任じられた。永禄7年(1564年)頃に遠江国の国人領主だった尾藤頼忠(のちの宇多頼忠)の娘(山之手殿。信之、信繁の母)を妻に迎えている(山之手殿は公家・菊亭晴季の娘とされてきたが、今日は頼忠の娘をはじめ諸説がある)。

初陣は『甲陽軍鑑』に拠れば永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いと言われ、足軽大将として武田家奉行人にも加わったと言われている(ただし川中島の戦いには出陣していないという説もある)。

永禄12年(1569年)、後北条氏との三増峠の戦いでは使番を務める。元亀3年(1572年)からの信玄の西上作戦に参陣し、12月の三方ヶ原の戦いにも参加している。元亀4年(1573年)4月、信玄が病死すると家督を継いだ武田勝頼に仕えた。

天正2年(1574年)には父の幸隆が死去する。このとき既に真田氏の家督は嫡男・信綱が継いでいたが天正3年(1575年)の長篠の戦いで信綱と次兄・昌輝が討死したため、昌幸は真田姓に復して真田氏の家督を相続した。なお、武藤家の所領は安堵されていないと考えられている。武田家の勢力が三河、遠江から大きく後退し、昌幸の岳父尾藤頼忠は兄が羽柴秀吉の家臣となっていたのを頼って近江に行き秀吉の弟秀長の家臣となっている。

天正6年(1578年)、越後国の上杉謙信死後に甲越同盟が成立すると昌幸は北条氏の所領であった東上野国の沼田領へ侵攻し、沼田城や名胡桃城などを奪取する。天正7年(1580年)に従五位下・安房守を叙任する。

天正9年(1581年)、勝頼の命令で新たに韮崎へ築城された新府城の作事奉行を務めた。

天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康連合軍による武田征伐が開始され本格的な武田領国への侵攻が行われた。なお江戸期編纂の文書に拠れば、このとき昌幸は勝頼に甲斐を捨てて上野吾妻地方に逃亡するように進言し岩櫃城へ迎える準備をしていたが勝頼は郡内領主小山田信茂の居城である岩殿城を目指して落ち、その結果途中で信茂の裏切りに遭って最期を遂げることになったと言われている。このような武田家への忠誠を示す逸話が知られるが、一方で武田滅亡以前から北条氏直との接触を示す史料もある。

武田氏滅亡後、昌幸は織田信長の家臣となって本領を安堵され、織田家の重臣・滝川一益の与力武将となった。

豊臣大名化から九度山蟄居

織田氏に従属してから僅か3ヶ月後の天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が横死すると、旧武田領の織田勢力は衰微し甲斐・信濃・上野の空白地帯をめぐって徳川家康・北条氏直・上杉景勝らが争う(天正壬午の乱)。昌幸は一益の配下として神流川の戦いに敗れると氏直に臣従し、北条家の信濃侵攻の先手を務める。与力分の依田氏も北条に引き込み、信濃の北条支配を実現するかの動きであった。

しかし、一転して家康の懐柔に乗り北条を裏切る。これが契機となって、若神子で徳川と対陣する北条は和睦の途を選択する。しかし、北条との大同団結を選択した家康は氏直に和睦の条件として上野国の沼田領を譲渡するという条件を出した。昌幸は自力で獲得した沼田割譲について代替地が不明瞭だったことに反発、徳川・北条と敵対していた越後の上杉景勝に臣従する。これは徳川・北条連合と対立する上杉・羽柴ブロックへの参加に他ならない。

天正11年(1583年)、昌幸は千曲川領域を抑える城が必要になり、川の北岸、沼、崖などの自然を要害とする地に松尾城(後の上田城)と、その周囲に当時流行の城下町も築いた。

天正]3年(1585年)、真田氏の制圧を狙った家康と氏直は鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7,000の兵力を昌幸の居城・上田城に、北条氏邦を沼田城に侵攻させた(上田合戦)[3]。 昌幸はわずか2,000の兵力[4]で徳川軍に1,300人もの死傷者を出させるという大勝をおさめている。この第一次上田合戦を契機に真田氏は、武田の旧臣から信濃の独立勢力(大名)として豊臣系大名の間で認知されることになった。同様の構図による戦いは幾度か再戦があり、少なくとも二度以上あったとされる。

同年には次男の信繁(幸村)が景勝の人質から盟主である豊臣秀吉の人質として大坂に出仕し、昌幸は豊臣家に臣従する。

天正14年(1586年)には佐久に侵攻、後北条氏の沼田城攻めを招き家康との対立も続いていたが、同年には秀吉が争いを止めさせ昌幸ら信濃の諸大名を家康の与力衆とした。

天正15年(1587年)に昌幸は駿府で家康と会見し、大坂で秀吉と謁見し名実ともに豊臣家臣となる。天正17年(1589年)には秀吉による沼田領問題の裁定が行われ、後北条氏には利根川以東が割譲され昌幸は代替地として伊那郡箕輪領を得る。この頃昌幸は在京していたが11月には後北条氏家臣の猪俣邦憲が名胡桃城を攻め、これが惣無事令違反とみなされ翌天正18年(1590年)の小田原征伐の原因となる。

文禄元年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵に際しては肥前名護屋城に在陣している。

秀吉死後の豊臣政権においては五大老筆頭の家康が台頭し、影響力を強める。

慶長5年(1600年)7月、家康は出仕を拒否する上杉景勝に討伐軍を起こして関東へ下り、在京していた昌幸もこれに従っている。家康の留守中に五奉行の石田三成が挙兵し、諸大名に家康弾劾の書状を送り多数派工作を始める。昌幸は下野国犬伏で書状を受け取ったと言われ宇田氏を通じて三成と姻戚にあった関係から次男・信繁(幸村)と共に西軍に与し、上田城へ引き返す。

東軍先鋒・徳川秀忠の部隊およそ3万8,000の大軍は江戸を発して中仙道を下り、9月6日(10月12日)には上田城攻略を開始する。昌幸は僅か2,000の兵力で篭城して迎え撃ち、関ヶ原の戦いの前哨戦である第二次上田合戦が行われる。秀忠軍は美濃への着陣を促され、上田攻略を諦める。上田合戦は悪天候の影響もあり、結果的に秀忠軍を9月15日(10月21日)の本戦へ遅らせた。その後、本戦での石田三成敗戦の報が届いてもすぐには降伏せず海津城主森忠政の家臣である葛尾城代井戸宇右衛門配下の兵の守る葛尾城に対して上田城から9月18日と23日の2度に渡って真田信繁(幸村)を出撃させて夜討と朝駆けの攻撃を加えている。しかしながらもはや西軍の敗北は明らかで同月中には徳川からの降伏・開城要請に応じた。

関ヶ原の戦いでは西軍が敗れ、戦後処理における処分は『上田軍記』などに拠れば昌幸と信繁(幸村)は上田領没収と死罪が下されるが東軍に属した長男の信幸(後の信之)の助命嘆願で赦免され、[上田領は信幸に与えられたという。12月には紀伊高野山山麓の九度山に蟄居する(当初は高野山配流であったが信繁が妻を伴っていたため、「女人禁制」の関係で九度山に代わったと言われている)。

九度山では、国許から援助を受けつつ真田庵で暮らす。後世に便利物と名高い真田紐を作成して販売したという[要出典]。晩年には赦免を願っているが病を得て、慶長16年(1611年)に病没。享年65。

人物

  • 昌幸を「表裏比興の者」と評した文書がある。これは天正14年(1586年)の景勝上洛を秀吉が労う内容の文書で、同日付で豊臣家奉行の石田三成・増田長盛が景勝へ宛てている添書条に記されている。これは家康上洛に際して家康と敵対していた昌幸の扱いが問題となり、家康の真田攻めで景勝が昌幸を後援することを禁じた際の表現で「比興」は現在では「卑怯」の当て字で用いられる言葉だが「くわせもの」あるいは「老獪」といった意味で使われ、武将としては褒め言葉である。これは地方の小勢力に過ぎない昌幸が、周囲の大勢力間を渡り歩きながら勢力を拡大させていった手腕(知謀・策略)と場合によっては大勢力との衝突(徳川との上田合戦等)も辞さない手強さ(武勇)を合わせて評したものである。実際、昌幸を「比興の者」と評したと目される三成は、真田家と縁を結んでいる。
  • 関ヶ原の折、西軍の挙兵に際して三成に「なぜ前もって知らせてくれなかったのか」と宛てた手紙が残されている。
  • 江戸時代の享保16年(1731年)に成立した松代藩士・竹内軌定『真武内伝』などをはじめ、現在でも歴史小説などにおいて昌幸は謀将として評され描かれる傾向にある。『真武内伝』をはじめ江戸期に成立した戦記物に拠れば、徳川家康は大坂冬の陣において真田が大坂城に入城した知らせを受けると「親の方か?子の方か?」と訊ねたと言われる。これは「謀将」昌幸の病死を家康を始め当時の武将達が半ば疑っていたことを示唆している。また、その時家康の手はがたがた震えていたと伝えられ、家康がそれだけ昌幸に恐怖していたとされる(昌幸ではなく、当時は無名の信繁と知って安堵したとも)。
  • 昌幸は九度山幽閉中に家康が近い将来豊臣氏を滅ぼすことを予期していたと言われ、その際には青野ヶ原(大垣市を中心とする西美濃一帯・関ヶ原とほぼ同地点)で徳川軍を迎撃する策などを画していたと言う。これらの伝承は昌幸が2度も徳川の大軍を寡兵をもって撃退したことを踏まえ、「大坂の陣に昌幸がいたら、豊臣と徳川の運命は大きく変わっていたかも」とする憶測が生んだものとされ今もなお同じように考える人は少なからず存在する。
  • 昌幸の画像は晩年の姿が描かれた『真田昌幸画像』が知られる。これは高野山蓮華定院所蔵のものを原図とし、後に転写された作品が願行寺(上田市)や上田市立博物館など各地に所蔵されている。

逸話

  • 徳川秀忠が西軍についた真田昌幸の篭る上田城に前進を阻まれていた時、秀忠は冠が岳にいる先陣の石川玄蕃、日根野徳太郎に連絡する必要に迫られ、島田兵四郎という者を伝令として出した。兵四郎は地理がよくわからなかったうえ、上田城を避けて迂回していたのでは時間がかかりすぎると思い、なんと上田城の大手門前に堂々と馬を走らせ、城の番兵に向かって「私は江戸中納言(=秀忠)の家来の島田兵四郎という者。君命を帯びて、我が先陣の冠が岳まで連絡にいくところです。急ぎますので、どうか城内を通してくだされ」と叫んだ。味方に連絡するために、現在交戦中の敵城を通してくれ、というのだから、とんでもない話である。番兵たちもあまりのことに仰天してしまい、真田昌幸に報告すると、「なんと肝っ玉の太い武士だろう。通してやらねばこちらの料簡の狭さになる。門を開けてやれ」と門を開けるように指示した。「かたじけない」と城内を駆け抜け裏門を抜ける際、島田兵四郎はちゃっかりと「帰りももう一度来ますので、また通してくだされ」と言った。その言葉通り、再び島田兵四郎が帰りに城に立ち寄った時、真田昌幸はいたく感服し、兵四郎に会い、「そなたは城内を通過したので、我が城内の様子を見ただろう。しかし様々な備えはあれど、それは城の本当の守りではない。真の守りは、城の大将の心の中にあるのだ。」と、自ら直々に案内して城内を詳しく見せてやり、その後門を開けて帰してやったという(『名将言行録』、『週刊ビジュアル日本の合戦』)。

家臣団

昌幸期の真田家家臣団は矢沢氏や常田氏などの一族衆や譜代層を中核とするが、武田氏滅亡後の旧領国再編成や豊臣大名化の過程で真田氏の領主制が拡大したことにより武田旧臣のほか吾妻領や沼田領支配において寄騎衆となっていた吾妻衆や沼田衆、小県領支配において帰属した領主層などが外様衆として加わっている。

墓所

昌幸の葬儀に際しては信之は幕府の意向を伺っており、本多正信からの返書が残されている(『真田家文書』)。墓所は長野市松代町松代の真田山長国寺で、『長国寺殿御事跡稿』には遺体が火葬され上田(長野県上田市)の真田家廟所である真田山長谷寺に納骨された経緯が記されている。また和歌山県九度山町九度山の真田庵にも法塔が造立され昌幸墓所とされており、後に尼寺である?(人偏に「去」)羅陀山善名称院が開かれている。

 
 
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