戦国最強は誰だ!?徹底検証!   
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立花道雪 〜半身不随ながら奮戦し続け、「鬼道雪」「雷神」と畏怖された〜

 

立花 道雪/戸次 鑑連(たちばな どうせつ/べっき あきつら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり、豊後の戦国大名大友氏の家臣である。なお、本人は立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連または戸次道雪で通している。

生涯

二階崩れの変

永正10年(1513年)3月17日、大友家の一族である豊後鎧岳城主戸次親家の子として生まれる。幼くして母を失い、父も病床にあったために代わりに継母(父の後妻で臼杵鑑速の姉)によって育てられた。大永6年(1526年)に父の死にともない、元服して戸次氏の家督を相続した。家督相続後は大友義鑑に仕え、初陣で敵将を捕縛するという武功を挙げて義鑑に賞賛された。

天文19年(1550年)2月、大友義鑑が嫡男義鎮を廃嫡にし、三男塩市丸を後継者としようとしたことから、反発した義鎮派の家臣が義鑑を襲撃するという二階崩れの変が発生、数日後に義鑑は変で受けた傷がもとになって死去する。この際、鑑連は義鎮を支持し、彼の家督相続に力を尽くした。また、鑑連は二階崩れの変の直後に阿蘇氏を頼って肥後に逐電した塩市丸派の入田親誠を追討するために、7月に肥後に侵攻している。

天文22年(1553年)、41歳となった鑑連は異母弟鑑方の子鎮連を養子に迎え、戸次氏の家督を譲って隠居している。しかし、翌天文23年(1554年)には肥後に侵攻して菊池義武を滅ぼすなど、隠居とは名ばかりであったようである。

毛利氏との戦い

以後も大友氏の重臣として活躍し、特に筑前侵攻を企図する毛利氏との抗争に力を費やしている。弘治3年(1557年)には毛利元就と通じた秋月文種を自害に追い込み、同年に義鎮の異母弟・大内義長が元就に討たれると、旧大内領の確保にも努めたほか、永禄4年(1561年)には豊前に出陣して毛利元就と戦っている。こうした功績から永禄4年に義鎮の補佐役である加判衆に任じられている。また、永禄5年(1562年)、義鎮が出家した(法名は宗麟)のにならって自身も剃髪し、麟伯軒道雪と号している。

道雪を中心とする大友勢の毛利氏との戦いは永禄6年(1563年)、室町幕府第13代将軍・足利義輝の仲介により一度大友氏と毛利氏の間で休戦が成立するまで続いており、またこの休戦の際は宗麟に対して7か条に及ぶ断固反対の立場を貫いている。

毛利氏との戦いは永禄10年(1567年)1月にかつて道雪が討った秋月文種の子種実が毛利氏の援助を得てひそかに筑前に入り、秋月氏再興の兵を起こした。また、この秋月種実の動きに大友氏の重臣高橋鑑種が6月に入って筑前宝満城、岩屋城に拠って呼応し、更に筑後国衆筑紫広門も叛旗を翻した。こうした動きに対して7月、宗麟は道雪に命じて高橋氏、秋月氏討伐を開始することになる。

道雪は出陣すると岩屋城を攻略し、また斎藤鎮実が筑紫広門を降伏させるなど有利に戦いを進めた。しかし、8月に入って高橋氏の宝満城に抑えの兵を残し、秋月氏討伐を企図したものの、秋月勢の頑強な抵抗を受け、たびたび自ら陣頭に立って戦う羽目になったほか、9月に発生した休松の戦いでは種実の夜襲により、異母弟の戸次鑑方や従兄弟の戸次鎮方を失う大敗を喫している。

こうした大友方の苦戦を目の当たりにした筑前国衆からは9月以降、原田隆種や宗像氏貞などの離反者が相次ぐことになった。特に筑前の大友方の重要拠点である立花山城主立花鑑載が毛利元就の調略に応じて叛旗を翻したことで立花山城が毛利方の手に落ち、肥前の龍造寺隆信も大友氏との対決姿勢を強め、筑前戦線は崩壊の危機に立たされた。

道雪はこうした危機的な状況の中、立花山城を奪還することで戦局を好転させようとし、翌永禄11年(1568年)の春から立花山城を包囲する。3ヶ月にわたる攻城戦の結果、7月になって立花山城は陥落、立花鑑載が自害した。これにより、孤立を深めた秋月氏、宗像氏は降伏している。これにより筑前戦線は小康状態となったが、永禄12年(1569年)4月に立花山城を奪還すべく吉川元春、小早川隆景率いる毛利勢が筑前に来襲し、5月に立花山城が陥落したことにより、道雪と大友勢の苦戦は続くことになる。

道雪は再び立花山城を攻めることになり、5月中旬に発生した多々良浜の戦いでは道雪自ら陣頭に立って毛利方の主力である小早川勢を撃破したが、一方で戦線は膠着することになった。

こうした中、主君宗麟は吉岡長増の献策を容れ、大内一族である大内輝弘を周防に送り込んで大内氏再興を図らせた。大内旧臣を糾合した輝弘は毛利方の周防における重要拠点である高嶺城を脅かし(大内輝弘の乱)、また山中幸盛が尼子氏再興の為、尼子勝久を奉じて隠岐より出雲へ侵攻したことにより、毛利氏は戦線を維持できなくなり永禄12年(1569年)11月になって撤退し、10年以上に渡った毛利氏と大友氏の筑前争奪戦はようやく終わりを告げた。

この長い戦いの中で、道雪は臼杵鑑速、吉弘鑑理とともに常に大友方の主将として戦い抜いた。

立花氏継承

この筑前をめぐる戦いで道雪は10年以上に渡って大友方の主将として戦い抜いた功績により、元亀2年(1571年)、立花氏の名跡を継承し立花山城主となっている。なお、この時から道雪は城督として筑前の軍権を握ることになり、加判衆を辞任している。

天正3年(1575年)、宗麟の命令で戸次氏の家督を継いでいた甥鎮連の子統連に立花氏の家督を譲るように迫られたが道雪は拒絶して重臣の薦野増時を養子に迎えようとした。しかし、増時が養子となることを辞退したため、道雪はただ1人の愛娘であるァ千代に家督を譲り、立花山城主としている。天正9年(1581年)、同じ大友氏の家臣であり、道雪と同じく高橋氏の名跡を継いでいた高橋紹運の子統虎を婿養子に迎え、家督を譲っている。

島津氏との戦いと病死

天正6年(1578年)、宗麟は島津氏討伐を企図し始める。道雪はこの方針に反対していたが、宗麟は日向侵攻を強行した。この日向侵攻により発生した耳川の戦いで大友勢は大敗を喫し、宗麟の参謀役であった角隈石宗や重臣の吉弘鎮信、斎藤鎮実、佐伯惟教、田北鎮周などを失っている。これにより、大友氏の勢力は大いに衰えることになった。

以後、大友氏は島津氏に対して守勢に回ることになり、道雪は高橋紹運とともに島津氏と戦い続けることになった。特に天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討ち死にしたことにより、島津方の圧力が強まる中、筑後を守るべく戦っていたが、天正13年(1585年)、筑後国猫尾城など筑後諸城を攻落したあと、柳川城攻めの最中に高良山の陣中にて病を得て9月11日、病死した。享年73。

辞世の句は「異方に心引くなよ豊国の鉄の弓末に世はなりぬとも」である。道雪は死に際して「自分の死後、遺骸に甲冑を着せ、柳川の方に向けてこの地に埋めよ」と遺言した。しかし、養子の統虎(宗茂)は遺骸を敵地に置くのは忍びないと考え、立花山麓の梅岳寺に埋葬した。この為、墓所は梅岳寺(福岡県新宮町)にある。

人物・逸話

雷神を斬る

道雪は『大友興廃記』などによれば若い頃に落雷を受けて半身不随になり、以後輿の上で指揮をとっていたとされる。また、落雷を受けた際に雷の中にいた雷神を斬っており、この時に雷神を斬った刀を「雷切」として傍らに置いていたという伝説もある。このようなハンデを抱えながら大友氏のために奮戦し続けた生涯であったことから、「鬼道雪」「雷神」と呼ばれ畏怖されていたという。

しかし、秋月氏との合戦では「自ら太刀を振るい、武者7人を斬り倒した」という記録もあり、この年代の資料にも輿に乗っていたという記述は無い為、「若い頃に落雷によって下半身不随になった」というのは創作ではないかとも言われ、真偽はわかっていない。

宗麟への諫言

主君である大友宗麟に対しては度々諫言している。

ある時、宗麟が凶暴な猿を手元に置き、これが家臣に飛び掛るのが面白くて何度もけしかけた事があった。これには家臣も辟易し、大変困り果てた。これを聞いた道雪は、他の家臣と同じように宗麟の前へ出向いた。案の定、宗麟が猿をけしかけてきたので、道雪はこれを鉄扇で叩き殺してしまった。驚く宗麟に「人を弄べば徳を失い、物を弄べば志を失う」と諫言したので、宗麟は大変反省したという。

また、宗麟が酒色に溺れた際には自ら大宴会を開いた上で、道雪の大宴会に興味を抱いてやってきた宗麟に諫言したり、耳川で大敗を喫した際には宗麟に対して「吉岡宗歓、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない。」(無道而巳)と書き送るなど、主君であっても間違っていると思った時には歯に衣を着せなかったようである。

勇将の下に弱卒なし

道雪は家臣を非常に大切にしており、「弱い兵卒などいない。いるとすればそれは大将の責任である」と常々言っていたという。また、戦場での働きが振るわない家臣に対し「戦は運、不運が絡むもの。お前の頑張りは私がよく知っている。手柄を立てようと焦って討ち死にするのは不忠である。お前達がいるからこそ私も安心して戦場に出られるのだ」と励まし、武具を与えるなどしたり、客を招いての酒の席で部下が粗相をした際、「今、私の部下が失礼をしたがこの者は戦場では何人分もの働きをする。特に槍の扱いなどは当家一であろう」と客に話し部下に恥をかかせなかったなど、この種の逸話には事欠かない。

この為、家臣からは非常に尊敬されており、重臣であった薦野増時は恩賞として道雪の隣に墓所を置き、死後も道雪の傍にあることを望んで許されていた。関が原の戦いの戦後処理として立花氏の改易に伴い、黒田家臣となった増時ではあったが、この許しを得ていたことを生涯忘れず、死後に道雪と同じく梅岳寺に葬られた。

反面、軍律に関しては非常に厳しく、筑前川原崎で蒲池氏と対陣中に越年することになった時、一部の家臣が無断で陣地を離れて我が家へ戻った事を知った道雪は、直ちに追っ手を差し向け、その時追っ手に家へ帰った家臣のみならず、その親をも殺すよう命じた。家老たちが親までも殺すことはないだろうと諫めても「大事な戦場の持ち場から逃げ帰ってくる息子を追い返さない限り、その親も同罪だ」と言って取り合わなかったという。

 
 
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