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立花道雪 〜半身不随ながら奮戦し続け、「鬼道雪」「雷神」と畏怖された〜 |
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立花 道雪/戸次 鑑連(たちばな どうせつ/べっき あきつら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり、豊後の戦国大名大友氏の家臣である。なお、本人は立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連または戸次道雪で通している。 生涯二階崩れの変永正10年(1513年)3月17日、大友家の一族である豊後鎧岳城主戸次親家の子として生まれる。幼くして母を失い、父も病床にあったために代わりに継母(父の後妻で臼杵鑑速の姉)によって育てられた。大永6年(1526年)に父の死にともない、元服して戸次氏の家督を相続した。家督相続後は大友義鑑に仕え、初陣で敵将を捕縛するという武功を挙げて義鑑に賞賛された。 毛利氏との戦い以後も大友氏の重臣として活躍し、特に筑前侵攻を企図する毛利氏との抗争に力を費やしている。弘治3年(1557年)には毛利元就と通じた秋月文種を自害に追い込み、同年に義鎮の異母弟・大内義長が元就に討たれると、旧大内領の確保にも努めたほか、永禄4年(1561年)には豊前に出陣して毛利元就と戦っている。こうした功績から永禄4年に義鎮の補佐役である加判衆に任じられている。また、永禄5年(1562年)、義鎮が出家した(法名は宗麟)のにならって自身も剃髪し、麟伯軒道雪と号している。 立花氏継承この筑前をめぐる戦いで道雪は10年以上に渡って大友方の主将として戦い抜いた功績により、元亀2年(1571年)、立花氏の名跡を継承し立花山城主となっている。なお、この時から道雪は城督として筑前の軍権を握ることになり、加判衆を辞任している。 島津氏との戦いと病死天正6年(1578年)、宗麟は島津氏討伐を企図し始める。道雪はこの方針に反対していたが、宗麟は日向侵攻を強行した。この日向侵攻により発生した耳川の戦いで大友勢は大敗を喫し、宗麟の参謀役であった角隈石宗や重臣の吉弘鎮信、斎藤鎮実、佐伯惟教、田北鎮周などを失っている。これにより、大友氏の勢力は大いに衰えることになった。 人物・逸話雷神を斬る道雪は『大友興廃記』などによれば若い頃に落雷を受けて半身不随になり、以後輿の上で指揮をとっていたとされる。また、落雷を受けた際に雷の中にいた雷神を斬っており、この時に雷神を斬った刀を「雷切」として傍らに置いていたという伝説もある。このようなハンデを抱えながら大友氏のために奮戦し続けた生涯であったことから、「鬼道雪」「雷神」と呼ばれ畏怖されていたという。 しかし、秋月氏との合戦では「自ら太刀を振るい、武者7人を斬り倒した」という記録もあり、この年代の資料にも輿に乗っていたという記述は無い為、「若い頃に落雷によって下半身不随になった」というのは創作ではないかとも言われ、真偽はわかっていない。 宗麟への諫言主君である大友宗麟に対しては度々諫言している。 ある時、宗麟が凶暴な猿を手元に置き、これが家臣に飛び掛るのが面白くて何度もけしかけた事があった。これには家臣も辟易し、大変困り果てた。これを聞いた道雪は、他の家臣と同じように宗麟の前へ出向いた。案の定、宗麟が猿をけしかけてきたので、道雪はこれを鉄扇で叩き殺してしまった。驚く宗麟に「人を弄べば徳を失い、物を弄べば志を失う」と諫言したので、宗麟は大変反省したという。 また、宗麟が酒色に溺れた際には自ら大宴会を開いた上で、道雪の大宴会に興味を抱いてやってきた宗麟に諫言したり、耳川で大敗を喫した際には宗麟に対して「吉岡宗歓、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない。」(無道而巳)と書き送るなど、主君であっても間違っていると思った時には歯に衣を着せなかったようである。 勇将の下に弱卒なし道雪は家臣を非常に大切にしており、「弱い兵卒などいない。いるとすればそれは大将の責任である」と常々言っていたという。また、戦場での働きが振るわない家臣に対し「戦は運、不運が絡むもの。お前の頑張りは私がよく知っている。手柄を立てようと焦って討ち死にするのは不忠である。お前達がいるからこそ私も安心して戦場に出られるのだ」と励まし、武具を与えるなどしたり、客を招いての酒の席で部下が粗相をした際、「今、私の部下が失礼をしたがこの者は戦場では何人分もの働きをする。特に槍の扱いなどは当家一であろう」と客に話し部下に恥をかかせなかったなど、この種の逸話には事欠かない。 この為、家臣からは非常に尊敬されており、重臣であった薦野増時は恩賞として道雪の隣に墓所を置き、死後も道雪の傍にあることを望んで許されていた。関が原の戦いの戦後処理として立花氏の改易に伴い、黒田家臣となった増時ではあったが、この許しを得ていたことを生涯忘れず、死後に道雪と同じく梅岳寺に葬られた。 反面、軍律に関しては非常に厳しく、筑前川原崎で蒲池氏と対陣中に越年することになった時、一部の家臣が無断で陣地を離れて我が家へ戻った事を知った道雪は、直ちに追っ手を差し向け、その時追っ手に家へ帰った家臣のみならず、その親をも殺すよう命じた。家老たちが親までも殺すことはないだろうと諫めても「大事な戦場の持ち場から逃げ帰ってくる息子を追い返さない限り、その親も同罪だ」と言って取り合わなかったという。 ■その他戦国武将紹介についてはトップページまたはメニューから。 ⇒戦国武将大百科トップページ |
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