トップページ > 武田四天王 |
|
|||
武田四天王〜武田信玄とその跡を継いだ勝頼を支えた四武将〜 | ||||
武田四天王(たけだしてんのう)とは、武田信玄とその跡を継いだ勝頼を支えた
の4人の武将の呼び名。「武田の四名臣」ともいう4人とも知勇を兼ねそろえた大将であった。 高坂以外の3人は、長篠の戦いで討ち死している。その後高坂昌信が一人で勝頼を補佐した。 また、武田信虎、信玄二代の時は以下の4人である。 ・板垣信方(いたがき のぶかた)1489年?〜1548年武田信虎、信玄の二代に仕えた。 信玄の父信虎追放の主導者でもあり、信玄が家督を継ぐと家臣団の筆頭格となる。信玄が諏訪氏を滅ぼすと諏訪郡代(上原城城代)となり、諏訪衆を率いて信濃経略戦で戦功をあげた。村上義清との上田原の戦いで先陣となり緒戦で村上勢を破るが、逆襲を受けて討死した。板垣退助は板垣信方の子孫であると称していたが、真偽不明。 ・甘利虎泰(あまり とらやす)1498年?〜1548年 信虎追放にも関わり、信玄に仕えた後は内政でその手腕を振るった。「甲陽軍鑑」において山本勘助の言として「虎泰は猛将萩原常陸に劣らぬ剛の者」とか「虎泰の采配ぶりはまことに見るべきものありて」とある。板垣信方と同じく上田原の戦いで討死。 飯富虎昌(おぶ とらまさ)1504年?〜1565年 板垣信方、甘利虎泰らと共に信虎の追放に関わる。板垣・甘利の討死後は、武田家の重臣として活躍。しかし、信玄の長男である武田義信の謀反騒動に際して謀反の首謀者として自害させられる。飯富虎昌の部隊は、全員が真っ赤な鎧兜を身に着けていたことから「武田の赤備え」として、近隣の大名の恐怖の的となったといわれている。 小山田昌辰(おやまだ まさとき)生年不詳〜1552年 信虎時代からの侍大将。城攻め、築城、守備の名手といわれ、敵方の城を陥落させた後は、必ずその城の守将を命じられたという。信玄による信濃南佐久から北信濃方面への侵攻作戦では板垣信方の副将として活躍。天文21年(1552)、信州常田の合戦において討死。 ■その他戦国武将紹介についてはトップページまたはメニューから。 ⇒戦国武将大百科トップページ |
||||
copyright2009 "〜戦国最強徹底検証!〜 戦国武将大百科"サイト内の文章の複製は禁止しています。 |