戦国最強は誰だ!?徹底検証!   
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賤ヶ岳七本槍〜賤ヶ岳の戦いで、秀吉方で功名をあげた七人〜

賤ヶ岳の戦いしずがたけのたたかい)とは天正11年(1583年)、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳附近で行われた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と柴田勝家との戦いである。織田勢力を二分する激しい戦いとなり、秀吉はこの戦いに勝利することによって織田信長の作り上げた権力と体制の継承者となることを決定づけた。
この戦で秀吉方で功名をあげた兵のうち以下の7人は後世に賤ヶ岳七本槍と呼ばれる。実際に感状を得、数千石の禄を得たのは桜井佐吉、石川兵助一光も同様である。7人と言うのは後の語呂合わせで(ただし彼らが挙げたとされる手柄は勝利が確定した後の追撃戦によるもののみであり、一番手柄も大谷吉継、石田三成らの先駆衆と呼ばれる武士達に与えられている)後の豊臣政権において大きな勢力をもったが、譜代の有力な家臣をもたなかった秀吉が自分の子飼いを過大に喧伝した結果ともいえる。福島正則が「脇坂などと同列にされるのは迷惑だ」と言った、加藤清正も「七本槍」を話題にされるのをひどく嫌ったなどの逸話が伝えられており、当時から「七本槍」が虚名に近いという認識が広まっていたと推定される。脇坂氏を除く大半が徳川政権になってからは御家取り潰しなど苦難に遭った。

福島正則(1561年 - 1624年)

加藤清正(1562年 - 1611年)

・加藤嘉明(1563年 - 1631年)

・脇坂安治(1554年 - 1626年)

・平野長泰(1559年 - 1628年)

・糟屋武則(1562年 - 1607年)

・片桐且元(1556年 - 1615年)

 
 

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