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佐々木小次郎 〜武者修業で諸国を旅し、巌流と呼ばれる流派を創る〜
 

佐々木 小次郎(ささき こじろう、? - 慶長17年4月13日(1612年5月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の剣客である。号は巌流。ただし、名前についての詳細は不明な点も多い。

生涯

出身については、豊前国田川郡副田庄(現福岡県田川郡添田町)に生まれ、副田庄の有力豪族佐々木氏の一族とされる説と、越前国(現福井県)福井市出身という説がある。1776年(安永5年)に熊本藩の豊田景英が編纂した『二天記』では越前国福井出身と記されており、秘剣「燕返し」は福井にある一乗谷で身につけたとされている。

中条流富田勢源、或いは富田勢源門下の鐘捲流の鐘捲自斎の弟子とされている。『二天記』には巌流島での決闘時の年齢は十八歳であったと記されているが、このような記述は『二天記』の元になった『武公伝』にはなく、巌流が十八歳で流派を立てたという記述を書き改めたものである。また生前の勢源と出会うには、決闘時に最低でも50歳以上、直弟子であれば相当の老人と考えられ、「七」の誤記ではないかとも言われている。鐘捲自斎の弟子であったとすればそれほどの老齢ではないにせよ、宮本武蔵よりは年長であった可能性が高い。

初め、安芸国の毛利氏に仕える。武者修業のため諸国を遍歴し、「燕返し」の剣法を案出、巌流と呼ばれる流派を創始。小倉藩の剣術師範となる。1612年(慶長17年)刃長三尺三寸(約1メートル)の野太刀「備前長船長光」、通称「物干し竿(この呼び名は「長いだけで斬るには向かない」とする侮蔑的な意味合いがあるため、後世につけられたとみられる)」を使用して、宮本武蔵と巌流島で決闘し、敗死したとされる。

多くの資料では上記のように巌流島の決闘で佐々木小次郎は死んだとされている。一方、豊前国の小倉藩(当時は細川氏)家老、門司城代の沼田延元の家人による文書『沼田家記』によると、決闘で宮本武蔵は小次郎を殺すまではしておらず、敗北した小次郎はしばらく後に息を吹き返したと記されている。しかし、その後武蔵の弟子達に殺されたとある。また、小次郎の弟子達も決闘で負けたことを恨み武蔵を襲撃するが、沼田延元の助けにより武蔵は無事落ち延びたとある。決闘に至った理由も、弟子達がお互いの師の優劣で揉めたことが発端と記されており、過激な門人達の争いが一連の騒動を引き起こしたとされている。

吉川英治の小説『宮本武蔵』では、周防国岩国(現山口県岩国市)の出身とされている。また、小次郎を主人公とした小説としては、幾度も映画化された村上元三作の『佐々木小次郎』などがある。なお、テレビ朝日系列で放送された「巌流島ミステリー・武蔵が消した小次郎の真実(2007年11月12日放送)」では、小説『宮本武蔵』にて燕返しが編み出された場面とする錦帯橋が巌流島の決闘の60年後に作られたことや、その燕返しは虎切と呼ばれる剣法の型であることなど、吉川の創作部分が紹介されていた。番組では、岩国市の吉香公園、前述の一乗谷に銅像があること、山口県阿武町大字福田には小次郎のものと伝承される墓があることも紹介された。

 
 
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