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宮本武蔵 〜2本の刀を用いることで有名な二刀流兵法の祖〜 | ||||
概要二刀を用いることで有名な二天一流兵法の祖。水墨画家・工芸家としても知られる。名字は宮本、または新免、通称は武蔵(いわゆる百官名)、本姓は藤原、諱は玄信(はるのぶ)である。幼名は辨助(べんのすけ、弁助、弁之助とも)、号は二天、また二天道楽。著書『五輪書』の中では新免武蔵守 藤原玄信を名乗っている。 生涯生年著書『五輪書』の冒頭にある記述「歳つもりて六十」に素直に従えば、寛永20年(1643年)に数え年60歳となり、生年は天正12年(1584年)となる。 出生地播磨国(現在の兵庫県)で誕生した(著書『五輪書』に生国播磨と明記)。
生年及び出生地に関する諸説江戸後期にまとめられた小倉宮本家系図(弘化3年(1846年)以前に養子伊織の子孫作成)並びに武蔵を宮本氏歴代年譜の筆頭に置く『宮本氏正統記』には天正10年(1582年)壬午の生まれ、正保2年(1645年)享年64と記されていることから、天正10年(1582年)生誕説を主張する意見もある。 武蔵の養子伊織が武蔵の死後9年目の承応3年(1654年)に記した『新免武蔵玄信二天居士碑』(小倉碑文)によると父は兵法家の新免無二である。同時代に活躍した当理流の宮本無二助藤原一真と同一人物という見方もある。武蔵の養子伊織による『泊神社棟札』にある「有作州之顕氏神免者天正之間無嗣而卒于筑前秋月城受遺承家曰武蔵掾玄信」という記述から、天正年間に秋月城で亡くなった新免某を無二とし、武蔵は無二の養子となったと主張する意見もあるが、新免無二は明らかに天正年間以後も生存している。 武蔵の養子伊織が残した武蔵の記録は、生前の武蔵を知る者によって書かれたことから無批判に用いる傾向が強い。しかし、原史料が不明であり、伊織が武蔵のことをどこまで知っていたかを問題視する意見もあり、他史料との比較から明らかな事実誤認も認められる。また、武蔵を顕彰するための脚色も多く見られる。 また、江戸後期にまとめられた小倉宮本家系図の「新免無二之助の養子となる《為新免無二之助養子》」の記述を根拠に無二は養父であると主張する意見もある。美作国(現在の岡山県)の名家であった新免姓は無二の代から用いていたと伝えられる。『小倉宮本系図』には伊織の祖父田原家貞の次男とされているが、伊織自身による『泊神社棟札』や小倉碑文にはそのことは記されていない。また、武蔵や伊織に関する多くの記事を載せている江戸中期に平野庸脩が作成した地誌『播磨鑑』にも武蔵が田原家の出であるとはまったく触れられていない。
兵法家・武士としての武蔵『五輪書』には13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利、16歳で但馬国の秋山という強力の兵法者に勝利、以来29歳までに60余回の勝負を行い、すべてに勝利したと記述される。 決闘伝説に関する諸説吉岡家『五輪書』には「廿一歳にして都へ上り、天下の兵法者にあひ、数度の勝負をけつすといへども、勝利を得ざるという事なし」と記述される。天正12年(1584年)に武蔵が生まれたと考えると慶長9年(1604年)のことになる。「天下の兵法者」は、『新免武蔵玄信二天居士碑』(以降、『小倉碑文』)に記された「扶桑第一之兵術吉岡」すなわち吉岡家と考えられる。 武蔵の養子伊織が承応3年(1654年)に記した『小倉碑文』の記録を要約すると
宮本伊織が残した『小倉碑文』などの記録は、他の史料と比べて事実誤認や武蔵顕彰の為の脚色も多く見られる。吉岡家の記述に限定すれば、武蔵に完敗し引退した清十郎、死亡した伝七郎、洛外下松の事件の記録は他の史料になく、創作である可能性を否定する事はできない。また、兵仗弓箭(刀・槍・薙刀などの武具と弓矢)で武装した数百人の武人を相手に一人で勝利するなどの記述は明らかに現実離れしている。同様に新免無二と吉岡家との足利義昭御前試合に関する逸話も他の史料になく、因縁を将軍家と絡めて描くことで物語性を高めるための創作である可能性を否定できない。 福住道祐が貞永元年(1684年)に著した『吉岡伝』に武蔵と吉岡の対決の異説が記されている。筆者の道祐は、宇喜多氏の伝記物『宇喜多伝』等を執筆する伝記作家である。この文書には吉岡源左衛門直綱・吉岡又市直重という二人の吉岡側の人物と、松平忠直の家臣で無敵流を号し二刀の名手北陸奥羽で有名であるとの肩書きの宮本武蔵が登場する。洛外下松のくだりは記されていない。また試合内容が碑文と全く異なるため、直綱が清十郎で直重が伝七郎であると単純に対応づけすることはできない。要約すると以下の通りである。 「源左衛門直綱との試合の結果、武蔵が額から大出血し、直綱勝利と引分けの2つの意見が出た。直綱は再試合を望んだが武蔵はこれを拒否し、又市直重戦を希望した。しかし直重戦では武蔵が逃亡し直重の不戦勝となった。」 これは宮本武蔵と吉岡家が試合をし引き分けたという内容の最初の史料である。 ただし、『吉岡伝』は朝山三徳・鹿島林斎という原史料不明の武芸者と同列に宮本武蔵が語られ、前述のようにその肩書きは二刀を使うことを除き現実から乖離しており、創作である可能性を否定できない。この史料は昭和になり司馬遼太郎が小説『真説宮本武蔵』の題材にしたことから、有名になり武蔵側の記録に対する吉岡側の記録として紹介される機会が多い。 巷間に武蔵吉岡戦を引き分けとする逸話が伝承されている。 日夏繁高が享保元年(1716年)に著した『本朝武芸小伝』には、巷間に伝わる武芸者の逸話が収録されているが、ここに武蔵と吉岡が引き分けた二つの話が記されている。 柏崎永以が1740年代に編纂した『古老茶話』も巷間の伝承を記録したものであるが、宮本武蔵と吉岡兼房の対戦が記されており、結果はやはり引き分けと記されている。 黒田藩の二天一流師範、立花峯均が享保12年(1727年)に著した武蔵の伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』にも、吉岡家との伝承が記されている。これを要約すると以下の通りである。
この文書には『小倉碑文』の全文が転記されており、碑文の内容を基に伝承を追記し、内容を発展させたものであると考えられる。本文書とは直接関わりがないが、立花峯均も編集に関わった文書として茶書『南方録』がある。この文書は後世、明治時代の文芸評論家・小宮豊隆により内容が疑問視され偽書とされた。この事から類推し『兵法大祖武州玄信公伝来』の内容を同様に疑問視する意見もある。 細川家筆頭家老松井氏の家臣で二天一流師範、豊田正脩が宝暦5年(1755年)に完成させた『武公伝』には、正脩の父・豊田正剛が集めた武蔵の弟子達が語った生前の武蔵に関する伝聞が記載されている。これには、道家角左衛門が生前の武蔵から度々聞いた話として、洛外下松での詳しい戦いの模様が記されている。これによると、
この説話は、武蔵が度々語ったものとして当時の細川藩の二天一流の門弟間に伝えられていた伝聞を記録したものである。 また『武公伝』に角左衛門の説話として、御謡初の夜の席での雑談で、志水伯耆から「先年吉岡清十郎ト仕合ノ節、吉岡先ヲ打タル由致風聞候ガ如何ニテ候哉」と、武蔵が先に清十郎から打たれたという話があるが本当か、と武蔵が訊ねられ武蔵が否定する話が記述されている。『武公伝』の話に従えば、晩年の武蔵は弟子等に盛んに吉岡に勝利したことを語っていたが、武蔵の生前に巷間に「吉岡が勝利した」という異説があったと考えることができる。 『武公伝』の内容は正脩の子・豊田景英によって『二天記』に再編集され、明治42年(1909年)熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂による『宮本武蔵』通称『顕彰会本』で『二天記』が原資料の一つとなりそのまま史実とされ、さらに吉川英治が小説『宮本武蔵』(1935年-1939年)で『顕彰会本』の内容を用いたことから現代にも広く知られるようになった。 『小倉碑文』や『兵法大祖武州玄信公伝来』『武公伝』には武蔵との戦いで吉岡家が絶えたとあるが、吉岡家がその後も存続したことは『駿河故事録』等、いくつかの史料から推測できる。それらの史料によると、慶長19年(1614年)に禁裏での一般にも開放された猿楽興行で、吉岡清次郎重賢(建法)なる者が警護の者と諍いをおこし切り殺されるという事件がおこり、これにより兵術吉岡家は滅んだという説があり、武蔵戦以降も吉岡家は存続している事になる。 前述の『本朝武芸小伝』にも猿楽興行の異説があり、事件を起こしたのは吉岡又三郎兼房であり、事件の最中吉岡一族の者が多く居たが、騒ぎたてず加勢しなかったため、所司代板倉勝重が吉岡一族を不問にしたとある。この説を取るならば武蔵戦・猿楽興行事件以降も吉岡家は存続している。 『吉岡伝』にも同様の記録があり、吉岡清次郎重堅が事件を起こしたが、徳川家康の命により兵術指南は禁止されたが吉岡一族の断絶は免れたとある。更に翌年の大坂の陣で吉岡源左衛門直綱・吉岡又市直重の兄弟が豊臣側につき大坂城に篭城、落城とともに京都の西洞院へ戻り染物を家業とする事になったとあり、この説でも武蔵戦・猿楽興行事件以降も吉岡家は存続している。 各文書の比較を下に示す。 巌流島武蔵が行った試合の中で最も広く知られているものは、俗に「巌流島の決闘」といわれるものである。これは慶長年間に当時豊前小倉藩領であった舟島(関門海峡に浮かぶ巌流島、現在は山口県下関市に属している)で、岩流なる兵法者と戦ったとされるものである。
この試合を記した最も古い史料は、武蔵の養子伊織による承応3年(1654年)の『新免武蔵玄信二天居士碑』(『小倉碑文』)である。これによると「爰に兵術の達人、岩流と名のる有り。彼と雌雄を決せんことを求む。岩流云く、真剣を以て雌雄を決せんことを請ふ。武蔵対へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ。吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前との際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。両雄、同時に相会す。岩流、三尺の白刃を手にして来たり、命を顧みずして術を尽くす。武蔵、木刃の一撃を以て之を殺す。電光も猶遅し。故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ。(原文漢文)」とある。 『小倉碑文』の次に古い記録は試合当時に門司城代であった沼田延元の子孫が寛文12年(1672年)に編集し、近年再発見された『沼田家記』がある。 延元様門司に被成御座候時 或年宮本武蔵玄信豊前へ罷越 二刀兵法の師を仕候 其比小次郎と申者岩流の兵法を仕是も師を仕候 双方の弟子ども兵法の勝劣を申立 武蔵小次郎兵法之仕相仕候に相究 豊前と長門之間ひく島に出合 双方共に弟子一人も不参筈に相定 試合を仕候処 小次郎被打殺候 小次郎は如兼弟子一人も不参候 武蔵弟子共参り隠れ居申候 其後に小次郎蘇生致候得共 彼弟子共参合 後にて打殺申候 此段小倉へ相聞へ 小次郎弟子ども致一味 是非とも武蔵を打果と大勢彼島へ参申候 依之武蔵難遁門司に遁来 延元様を偏に奉願候に付御請合被成 則城中へ被召置候に付 武蔵無恙運を開申候 其後武蔵を豊後へ被送遣候 石井三之丞と申馬乗に 鉄砲之共ども御附被成 道を致警護無別条豊後へ送届武蔵親無二と申者に相渡申候由に御座候 内容を要約すると以下の通りである。
「豊後」がどこであったのかには以下の説が挙げられる。
様々な武芸者の逸話を収集した『本朝武芸小伝』(1716年)にも巌流島決闘の伝説が記されており、松平忠栄の家臣中村守和(十郎右衛門)曰くと称して、『沼田家記』の記述と同様、単独渡島の巌流に対し武蔵側が多くの仲間と共に舟島に渡っている様子が語られている。 江戸時代の地理学者古川古松軒が『二天記』とほぼ同時代の1783年に『西遊雑記』という九州の紀行文を記した。ここに当時の下関で聞いたという巌流島決闘に関する民間伝承が記録されている。あくまでも試合から100年以上経った時代の民間伝承の記録であり、史料としての信頼性は低いが、近年再発見された『沼田家記』の記述に類似している。内容を現代語訳すると以下の通りである。
豊田正脩が宝暦5年(1755年)にまとめた『武公伝』には、巌流島での勝負が詳述されている。これによると
この話は、武蔵の養子伊織の出自が泥鰌捕りの童であったという話と共に、戦いの時に武蔵が島に渡るときの梢人であったとする小倉商人の村屋勘八郎なる人物が、正徳2年(1712年)に語ったものと記されている。『武公伝』で慶長17年(1612年)に行なわれたとされる巌流との戦いで梢人だった者が100年後に正脩の祖父の豊田正剛に語った話とされているのである。仮に、この勝負の内容が、事実であれば、細川家でこれだけの事件が起こったにもかかわらず、それについての記述が『武公伝』の編集当時に、細川家中や正剛・正脩の仕える松井家中になく、藩外の怪しげな人物からの伝聞しかなかったことになる。また、前述の『沼田家記』の内容とも大きく異なっている。 『武公伝』では武蔵の弟子たちが語ったとされる晩年の武蔵の逸話が多く記載されているが、岩流との勝負については、村屋勘八郎の話以外、弟子からの逸話はなく、松井家家臣の田中左太夫が幼少の頃の記憶として、松井興長に小次郎との試合を願い出た武蔵が、御家老中寄合での決定を知らず下関に渡り、勝負の後に興長に書を奉ったという短い話のみ記載されているのみである。これは、晩年の武蔵が度々吉岡との勝負を語っていたという逸話と対照的であり、『五輪書』に岩流との勝負についての記述が全くない事実を考えると晩年の武蔵は舟島での岩流との勝負について自ら語ることが殆どなかったと推測することができる。 『本朝武芸小伝』(1716年)、『兵法大祖武州玄信公伝来』(1727年)、『武公伝』(1755年に完成)等によって成長していった岩流の出自や試合の内容は、『武公伝』を再編集した『二天記』(1776年)によって、岩流の詳しい出自や氏名を佐々木小次郎としたこと、武蔵の手紙、慶長17年4月13日に試合が行われたこと、御前試合としての詳細な試合内容など、多くの史的価値が疑わしい内容によって詳述された。『二天記』が詳述した岩流との試合内容は、明治42年(1909年)熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂による『宮本武蔵』通称『顕彰会本』で原資料の一つとなりそのまま史実とされ、さらに吉川英治が小説『宮本武蔵』(1935年-1939年)で『顕彰会本』の内容を用いたことから広く知られるようになった。 また、様々な文書で岩流を指し佐々木と呼称するようになるのは、元文2年(1737年)巌流島決闘伝説をベースとした藤川文三郎作の歌舞伎「敵討巌流島」が大阪で上演されて以降である。この作品ではそれぞれに「月本武蔵之助」「佐々木巌流」という役名がつけられ、親を殺された武蔵之助が巌流に復讐するという筋立てがつけられている。 この戦いは記念日まで設けられ、4月13日がそれに因んで「決闘の日」とされている。 民間伝承武蔵にゆかりのある土地、武道の場などで語られる事があるが、明確な根拠や史実を記したとされる史料に基づくものではない。
芸術家としての武蔵武蔵没後21年後の寛文6年(1666年)に書かれた『海上物語』に武蔵が絵を描く話が記されるなど画家としても武蔵は有名であった。 『武公伝』(松井家の二天一流師範が著した武蔵伝記・宝暦5年(1755年)豊田正脩編)には、「武公平居閑静して(中略)連歌或は書画小細工等を仕て日月を過了す、故に武公作の鞍楊弓木刀連歌書画数多あり」と書かれている。 現在残る作品の大部分は晩年の作と考えられ、熊本での作品は、細川家家老で八代城主であった松井家や晩年の武蔵の世話をした寺尾求馬助信行の寺尾家を中心に残されたものが所有者を変えながら現在まで伝えられている。 水墨画については二天の号を用いたものが多い。画風に海北友松や長谷川等伯の影響を指摘する説もあるが、誰かに専門的に学んだものでは無いという説もある。剣禅一如の境地が見事に描かれた作品との評価もあるが、職業画家ではない稚拙さ素朴さが逆に作品の評価を高めているとの意見もある。筆致、画風や画印、署名等で真贋に対する研究もなされているが明確な結論は出されていない。 主要な画として、「鵜図」「正面達磨図」「面壁達磨図」「捫腹布袋図」「芦雁図」(以上永青文庫蔵)「芦葉達磨図」「野馬図」(以上松井文庫蔵)「枯木鳴鵙図」(和泉市久保惣記念館蔵)「周茂叔図」「遊鴨図」「布袋図」(以上岡山県立美術館蔵)「布袋観闘鶏図」(福岡市美術館蔵)などがある。 書としては、「長岡興長宛書状」(八代市立博物館蔵)「有馬直純宛書状」(吉川英治記念館蔵)「独行道」(熊本県立美術館蔵)「戦気」(松井文庫蔵)が真作と認められている。 伝来が確かな武蔵作の工芸品としては、黒漆塗の「鞍」、舟島での戦いに用いた木刀を模したとされる「木刀」一振。二天一流稽古用の大小一組の「木刀」が松井家に残されている。また、武蔵作とされる海鼠透鐔が島田美術館等にいくつか残されているが、武蔵の佩刀伯耆安綱に付けられていたとされる、寺尾家に伝来していた素銅製の「海鼠透鐔」(個人蔵)が熊本県文化財に指定されている。 なお、書画の筆致から左手で書かれたと思われる節があり、左利きであった可能性が指摘されている。 創作への影響巌流島の戦いなど、武蔵に関わる物語は江戸時代から脚色されて歌舞伎、浄瑠璃、講談などの題材にされ、吉川英治が1930年代に朝日新聞に連載した小説『宮本武蔵』によって最強の青年剣士武蔵のイメージが一般に広く定着した。 備考松井家の二天一流師範である豊田景英が著した武蔵の伝記『二天記』には、大和国・奈良の宝蔵院流槍術の使い手奥蔵院日栄、伊賀国の鎖鎌の使い手宍戸某、江戸の柳生新陰流の大瀬戸隼人と辻風左馬助等との試合を記しているが、『二天記』の原史料である『武公伝』に記載が無く、また、他にそれを裏付ける史料が無いことから史的事実ではないと考えられている。 丹治峯均(立花峯均)が著した武蔵の伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』によると、身長は六尺(約180センチメートル)程であったと記されている。また、細川家家老で後に八代城主になった松井寄之の依頼により巌流島の試合で使用した木刀を模したと伝えられる武蔵自作の木刀が現在も残っている。ちなみに熊本県は『宮本武蔵』(1984年 NHK新大型時代劇)の放送を記念し、前記の木刀の複製を販売した。 渡辺幸庵(渡辺茂 通称は久三郎、天正10年(1582年)摂津で生まれ唐天竺を巡礼したと称し、宝永8年、130歳?で没)の対話集『渡辺幸庵対話』の宝永6年9月10日の対話によると、「竹村武藏といふ者あり。自己に劔術を練磨して名人也。但馬にくらへ候てハ、碁にて云ハ井目も武藏強し。」「然るに第一の疵あり。洗足行水を嫌ひて、一生沐浴する事なし。外へはたしにて出、よこれ候へは是を拭せ置也。夫故衣類よこれ申故、其色目を隠す爲に天鵡織兩面の衣服を着、夫故歴々に疎して不近付。」とありここから、宮本武蔵が一生風呂に入らなかったといわれる(ただし沐浴は宗教行為であり、入浴にあるとおり庶民が風呂にいくのは江戸時代から)。 ■その他戦国武将紹介についてはトップページまたはメニューから。 ⇒戦国武将大百科トップページ |
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